番外編2 沼地の少女 8
Σ
「ご、ごめんなさい! ごめんなさいでした!」
セシリアは火の番をしているジェヴォーダンにひたすら頭を下げた。
「あ、あの、こんな立派なドレスを汚してしまって……ほんとにどうしたらいいか」
「すまない。どうやら夢中になっちまったみたいでな。許してやってくれ。悪気はなかった」
俺はセシリアに並んで頭を下げた。
ジェヴォーダンはセシリアをちらりと見た。
それから泥だらけのユユコを見、最後に俺を見た。
「……気にするな」
と、ジェヴォーダンは言った。
「そんなもの、いつでもとってこれる。それに、今夜はちょうど里へ――」
ジェヴォーダンはそこまで言うと、急に言葉を止めた。
「とってこれる?」
俺は思わず顔を顰めた。
「そいつはどういう意味だ。それに、里に下りるって言うのは――」
「なんでもない。こちらの話だ」
ジェヴォーダンは急に言葉を切り、火に目を戻した。
「それより、今夜は冷える。温泉にでも入って、体を洗って来い」
「温泉!?」
にゅっ、と、小さい妖精に変身したラキラキが俺の背中から顔を出した。
「温泉あんの? マジ?」
ああ、とジェヴォーダンは頷いた。
「場所はユユコが知っている」
「うし!」
ラキラキはユユコの頭に乗り、ペしぺしと叩いた。
「行くわよ、小娘! 案内しなさい! らいとなう! 今すぐ!」
ユユコはこくん、と頷いた。
それから踵を返し、テクテクと歩き出す。
セシリアはもう一度「すみませんでした!」と深く頭を下げ、二人に続いた。
「ちょっとまて」
その背中に、ジェヴォーダンは声をかけた。
振り向いて首を傾げるセシリア。
ジェヴォーダンは少しだけ間をあけ、
「ありがとう。ユユコと遊んでくれて」
と、言った。
セシリアは少し戸惑ったような表情を見せた後、いいえ、私も楽しかったですから、と笑って、今度こそラキラキたちを追っていった。
俺は“袋”に手を突っ込んだ。
そしてその中から、濁酒の徳利を取り出した。
「なあ、ジェヴォーダン」
と、俺は言った。
「少し飲まないか。今日は色々と世話になった。礼をしたい。酒を振舞わせてくれ」
ジェヴォーダンは少し目を大きく開いた。
それから「ああ。それはいいな」と言った。
Σ
夜も更け、深夜になり。
俺はせまっくるしいテントの中で、尖がった天井を眺めていた。
手には赤い矢印型の紙片を持ち、それをなんとはなしに弄っている。
ラキラキとブルータスは温泉でホクホクになり、ぐーぐーいびきをかいて気持ちよさそうに寝ている。
長旅で疲れていたのだろう、セシリアもすーすーと寝息を立てていた。
ありがとう、か。
俺はジェヴォーダンの最後の言葉を反芻していた。
奴はユユコのことを本当の娘のように可愛がっている。
あの言葉には、確かな愛情があった。
しかし――と、今度は洞窟内の家具や装飾品などを思い出していた。
最初から違和感があったが、先ほどじっくり確認したから間違いない。
あの道具たちはめちゃくちゃだった。
絵画は逆さに飾られていた。
時計は完全に止まっていたし、机も椅子も使われた形跡がない。
燭台には干された蛙が贄のように刺さっており、ベッドには布団がうず高く3重に乗せられていた。
奴は火の番をするばかりで、ろくに洗濯や炊事などをしている素振りもない。
物はあるが。
まるで使い方が分かっていない。
ただ置いてあるだけなのだ。
と、その時。
手のひらに持っていた赤い矢印の紙片が、ぴくぴくと動き出した。
その吾平は中空にふよふよと浮き、ぐるぐると回って、斜め左方向、北東の位置でぴたりと動きを止めた。
――動き出したか。
俺はむくりと体を起こした。
こいつは“二対の依代”というアイテムである。
文字通り赤と青の対で一つの道具で、青を対象者の身体に付着させると、もう片方は常に青の矢印の方向を指し示す。
近づくと、赤は青に、青は赤に、徐々に色味が変化していく。
即ち、これがあれば、青の紙片をつけた者の位置が常に把握できるようになるわけだ。
俺は酒を飲み(俺は下戸なので飲んだふりだが)ながら、こっそりと、ジェヴォーダンの背中にこれを付着させていた。
今夜、人間の里に下りる。
さきほど、彼はそう言おうとしたのではないか。
俺は、そう判じた。
間違いない、と思った。
ジェヴォーダンはこの谷の近くにある町へ赴き、人間の文明・生活の中から、ここにある道具を盗んできている。
そしてそれはおそらく、自分のためではない。
ユユコのためだ。
形だけでも人間の暮らしをさせてやろうとしているのだ。
ではユユコは何者か。
父娘ではないことは間違いない。
言葉の通じない家族などと、おいそれとは考えにくい。
では二人はどういう関係なのか。
それを考えたとき、じわり、と嫌な考えが胸に浮かび上がった。
ユユコは――“攫い子”なのではないか。
理由は分からないが、ジェヴォーダンが人間の世界から拐かして来たんじゃないか。
ほとんど反射的に、そのように思い及んだ。
一度思い浮かぶと、もう駄目だった。
ジェヴォーダンを調べる必要があると思ったのだ。
「どこに、行くんですか」
テントから出ようとすると、背中から声がした。
振り向くと、セシリアが起き上がってこちらを見ていた。
「……起きていたのか」
「はい。ルルブロさんは、きっと動くだろうと思って」
「くっく。敵わんな、お前には」
「私もついて行っていいですか」
「なに?」
「私も……知りたいんです」
セシリアは胸の前で手をぎゅっと握りこみ、目を伏せた。
「ジェヴォーダンさんは何者なのか。ユユコちゃんと、どういう関係なのか」
思いつめたような顔をしていた。
きっと、眠れなかったんだろう。
俺と同じだ。
「……よし、分かった。一緒に行こう」
と俺は頷いた。
それから自らの“袋”に手を突っ込み、“透明傘”を取り出した。




