時を越えた元青年⑤
濃い朝の匂いが立ち込める森は、木々の隙間から照らされた太陽の光に反射する朝露で輝いていた。
鳥や虫の鳴き声が至る所から聞こえ、目を凝らせば木を登る小動物の姿も見える。
ジルは胸ほどに伸びている草をかき分けながら人など入ったことがない様な道無き道を進んでいった。
だが、坂を登った時に消耗した体力は著しく、ましてやこの深い森の中で人の痕跡を探してやる程の根気はない様だ。
ジルは周囲を見渡しながら、どんどん奥へと歩いて行く。藪に擦れて草の匂いを服に染み込ませれば、人の匂いに誘われた肉食動物からの追跡を逃れる為でもあるが、汗だくになった服や肌の匂いはそう簡単には無くせない。
幸いにも、ジルの記憶が正しければこの周囲の肉食動物は基本的には夜行性の為、そうそう出会すことなどないとは思うが、狼の群れに襲われて崖から転落したジルにとってみれば、人間の匂いというものは死活問題だ。
ただ、巨狼相手に素手で挑み戦って勝った事実からしてみれば、杞憂も杞憂なのだが。
ともあれ、消耗した体力を回復することが目下ジルの目標である。出来れば水辺、川で匂いを落とせればそれだけ人間を襲う動物の嗅覚の範囲を小さく出来る。もっと言えば道があれば尚のこと良し、道があればあとは道沿いに走ればいいだけだ。と森の奥へと進んでいく。
この森の場所は、ハレシア国の国境付近に位置する森で、ジルが狼を引きつけた挙げ句に崖から転落した森だ。
国境まではまだまだ二十数キロ程の長い道のりの半ばではあったものの、何事もなければ四時間程で到着していた場所だ。
道は舗装などされておらず、僅かな轍がある程度でほとんど獣道。しかも、森と山の麓の切れ目を通る為、決して安全ではなく、むしろ険しい。
太陽の位置から大体の方角を割り出し、木の根や幹を確認して傾斜になっている方向から山の位置を大まかに割り出し、山麓を目指す。そうすれば、亡命中に使った道あるはずだ。
目的が決まればあとは進むのみ。ジルは大きく息を吸い込み心を落ち着かせつつ、体力が乱れない様に歩く速度に気を付けながら歩く。
初夏に差し掛かるこの時期だが、鬱蒼と生茂る木々が太陽の直射日光を遮ってくれているお陰で気温はとても快適だ。
「こんな人の入っていない森でなければ散歩でも楽しみたい所だが、そういう訳にもいかないか」
一人愚痴る。ついでにうまい食い物があればな、と腹を片手で押さえて溜息。
崖を落ちたあの日から相棒としている小さな肩掛けの革袋に手を入れ、予め取っておいた木の実をいくつか取り出して口に放り込む。
それを噛み砕くと、小気味良い音が口の中で鳴ると同時に顔を歪めるくらいの酸味がいっぱいに広がる。
何の実かは分からないが、とても酸っぱいこの木の実は食べた瞬間はとてもじゃないが唾液が溢れ出るくらい酸味が強い。しかし、酸味の後にくるほのかな甘みが癖になる木の実で、崖下に落ちた直後はこれを主食にしていたくらい、ジルはこの木の実が好きだ。
最初に食べた木の実を飲み込むと、再び革袋に手を入れていくつか口に放り込む。唾液もいっぱい出るので、小腹を満たすのと水分を補給するのとで一石二鳥だ。
ただ、水を飲んでいる訳では無いので、早いところ水辺を見つけたい所ではある。
そうこうしている内に、次第に地面の傾斜が強くなり段々と山に近づいているのが分かる。
もう少しだと自分に言い聞かせて、ジルは草木をわけながら進んでいくのだった。