時を越えた元青年③
ジルは走った。
世話になった巨狼に後顧の憂いは無く、ただひたすらに走った。
断崖絶壁にくり抜かれたように長く続く坂道のその先を見据えて。
ただ一つ、心配なことと言えば、妹はどうしているかだ。
およそ三年間ずっと不思議な森の中で生活していたジルは、亡命した妹の行く末がどうなったかが心配で堪らなかった。
知り合いなど居らず、ましてや今まで住んでいた場所からすれば、敵国だ。亡命したとして、亡命先が敵愾心に溢れていても不思議ではない。
坂を登るにつれ、会いたい気持ちと不安んな気持ちが徐々に高まり、呼吸が乱れる。
だが、それでも会いに行かなければならない。
ジルにとっても、ジルの妹にとっても、唯一の残された家族なのだから。
次第に濃霧に包まれ始めた坂道は、ジルの心に更に影を落とす。
おかしいと気づき始めたのはそこからだ。
坂を登る前、確かに頂上は遠かったが、それでも目視でうっすらと見えていた。
この三年間に鍛えた体で走れば、ものの十数分で登り終えているはず。
濃霧包まれ、先が見えなくなった坂道を前にして足が緩む。
「どうなってる⋯⋯」
立ち止まり、肩で息をしながら口をついた。
思えば、さっきまでいた森もおかしい所だらけだったとジルは思う。
この坂道以外に上に続く道はなく、その周囲を行こうにも、いつの間にか同じ場所に戻っている。
うっすら霧が立ち込め、森だというのに木々が揺れる音は少なく、獣の声も鳥の声も大してなく、いるのはあの巨狼のみ。
先が見えないほどのこの霧も、思えば森を無理やり出ようとした際にも立ち込め、気づけば元いた場所にたどり着き、あの時は途方に暮れたとジルは溜息を吐いた。
そこで気付く。もし、この霧があの時と同じだとすれば。
──坂を登ってもまた同じ場所に戻されるのだろうか。
「そんなこと、あるわけない」
頭を振り、不安と焦りに動悸が止まらない。
だが、今更どうなるわけでもないことははっきりと分かっている。出来ることはただ一つ。先へ進むだけだ。
☆
──どれくらいの時間が経っただろうか。
濃霧に埋もれたままただひたすらに坂を登る。ただ、それだけのことなのに脳にまで霧がかったように現実との境目が曖昧になっていく。
それでもただひたすらに前へと進めと、重くなった足を一歩一歩前に突き出し、湿った空気を吸い込み、吐き出す。
ジルは、意識が混濁してくるのを悟ったが、前へと進むそれ以外の事は体が受け付けなくなっていた。
ふわふわと視界が揺れながらも、一寸先すら見えない濃霧に心が折れそうでも、ジルは前へと走った。
そして、ついに──。
あれほど鬱陶しかった霧が晴れ、目の前の坂の上には鬱蒼とした森が見える。
「⋯⋯俺は、戻ってきたのか?」
疲れた体のことなど忘れ、無我夢中で坂を駆け上がる。もしかしたらまた振り出しに戻ってしまうんじゃないかという恐怖は、今はどこにもない。
三年間どれほどに待ちわびたか。
「はあっ、はあっ、はあっ──」
ジルはついに、坂の上にたどり着いた。大きく肩で息をしながら、やっと戻ってこれたんだと感極まりそうになる。
周囲を見渡すと、崖の裾にいるというだけで、道と呼べるものは見当たらない。自分が三年前に落ちた場所なのかすら、もはや記憶にもない。
それでも、今ここに立っているという事実がジルを大いに喜ばせた。
「やっとだ⋯⋯やっと戻ってこれた。クリス、待っていてくれ」
妹の名前を口にし、ジルは必ず見つけ出すと決意を固め、歩き出そうとした。
「そうだ、巨狼に挨拶でもしておくか──!?」
大きな声で叫べば、崖の下くらいまでなら届くだろうと、ジルは振り返った。
振り返った先は、ただの崖になっていた。先ほどまで登ってきた坂が幻かのように消え失せ、恐る恐る崖下を覗いても、そこにあるのはただの直角な崖だった。
驚きのあまりジルは地面を手で触るが、乾いた土があるばかりで、他には何もない。
「どういうことだ⋯⋯。俺は確かに坂を登っていたはずだ。でもこれじゃまるで──」
白昼夢みたいだ。と口から出かかり、全身を調べるも鍛え上げられたその体に偽りはなく、これは現実だと教えてくれた。
頭の中では色々な憶測が飛び交うが、どう考えても結論は出そうにない。
ジルは考えるのをやめ、それでも巨狼と過ごした日々は幻ではないと言わんばかりに、崖に向かって叫んだ。
「名もなき巨狼よ! 俺は行ってくるぞ!」
叫んだ声は木霊となって反響し、あの巨狼に届いただろうかとふと頬が緩むが、やるべきことが待っているジルは、その場を後にし森の中へと進んでいった。