時を越えた元青年②
ある日、そいつは私と対峙していた。
初めて会った時、そいつには敵意は無かったが、こちらの方にへ足を踏み入れようと歩んでいる気配を感じたので、それを遮る形で向かい合った。
これより先に立ち入ることは罷りならんと喉を震わせて威嚇した。
あいつは一瞬恐怖の気配を漂わせるも、何故だろうか闘志を纏い始めたのだ。
私は喉を震わせながらも、ほうと口角を上げ、少し遊んでやることにした。
あれの種は人間という種で、二足歩行故に前足の可動域が広く我々の様に鋭い爪や牙は持たないが、それを補う道具をその前足に持つのを私は知っている。
そいつが持っているのは、石よりも硬く、牙の様な鋭さを持つ棒切れ一本のみ。
私はというと、すべての足に鋭い爪を持ち、岩をも砕く強靭な顎がある。
棒切れ一本でよくもまぁと別の意味で感心した。
だが、私とて人間と戦ったことなど未だ無く、生まれて初めての相手に無警戒で挑む程愚かではない。
鋭い棒切れは一本だが、一本は一本だ。あんな物でも、私の身体を貫けば致命的なのは見て分かる。
しかし、負ける気など毛頭ない。
威嚇しても尚も棒切れを構えるそいつに、私は口を大きく開けて吠えるとそいつは険しい顔をして怯んだ。
その隙を逃すはずも無く、瞬時に詰め寄ると一本しかない棒切れを噛み砕く。
ついでに横薙ぎに前足を振るうと、そいつは呆気なく茂みに飛んでいき、近づいてみれば気を失っていた。
あまりにも呆気がなさ過ぎて、私は小さく嘆息すると踵を返してあいつを捨て置いた。
どうせもう二度とここには来ないだろうと思った。当然だ。羽虫も同然の力量で、何をしに来たのかは知らないが、私がここを寝ぐらにしている以上近寄っては来ないだろう。
──そう思っていた。
あいつがやって来た。
あれから既に幾ばくの日月が過ぎたかは定かではないが、満月の時が3回はあっただろうか?
あの時とは打って変わってあいつの肉体が肥大している様に見える。腕も脚も一回りは太くなっていると感じられた。
だが、なんら脅威では無い。確かに、初めて会った時よりはなんとなくやる気があるなと言ったところか。
何故この人間が私の寝ぐらに用があるのかは知りたくも無いが、あいつはなんだかやる気満々だ。
あいつは私を睨むと、吠えながら向かってくる。
おいおい、お得意の道具はどうしたとあいつの手には何も持っておらず、固く握られた拳一つで迫ってくる。
人間は爪を持たず牙もない。そんな人間が私に歯向かう物なら──当然こうなる。
どこかで見た様な光景で、私が前足で横薙ぐと、あいつはそこらに飛んでって気を失った。
なんなんだこいつは。
──そう、なんなんだこいつは。
更に年月が経ち、私も番いとなる片割れを手に入れ、これから何処か見晴らしの良い崖にでもと思っていた矢先に、あいつが現れた。
私に2度敗北を喫してそれでも尚また来るかと呆れを通り越してむしろ感嘆した。
弱者が強者に挑むことなど、自然界ではままあるが、こう何度も挑んでくるのは中々に珍しい。
それに、なんだかあいつの雰囲気が変わっている。
洗練されたとでも言えば良いのか、身のこなしに一切の隙が無く、また力強い息吹を感じる。
私も小さき頃は父方によく扱かれたものだと感慨に耽るが、それにしてもあいつは人間だ。
私とて神に挑む勇気は無いが、然りとて竜族に挑む事など愚かなことだ。
身の程というものがある。限度というものがある。それをあいつは知らないのか?
無知か蒙昧かは分からないが、あいつは確かに私の前に立っている。そして、目には闘志が燃えている。
明かに前回とは別人の様相だ。
だが悲しいかな。所詮人間。私に触れる事すらなく、あいつはまた飛んでった。
湿る朝霜の空気が鼻をくすぐる。こういう朝に、滝に行って魚を獲ると気分が良い。
寝ぐらからは少し離れるが、番の君も喜んでくれるだろう。
あいつがいた。
私は目を見開いた。
あいつが魚を食っている。
そしてあいつは飛んでった。
3度目の紅葉に、私は目を細めた。
かさかさと風に鳴く木の葉の声が、とても心地良い。
あいつがやってきた。
私は、ふと口角が上がった。これには自分も驚いた。
そう、あいつとは何度も何度も出会い、その度に負かしてやるのだが、あいつが挑んでくる度に、あいつは確実に強くなっていた。
心の牙は鳴りを潜めていたとばかり思っていた私だが、どうやらまだ立てるくらいは出来るらしい。
私に子供が2つ出来た。番いの君に似て、とても美人で愛らしい。
本当なら雄が欲しかったが、そんな贅沢も烏滸がましいくらい小さな宝だ。
だからなのか。あいつがなんだか息子のようで。などと思う時もある事に、少々馬鹿だなと私はあいつを殺さないでいる。
勿論、寝ぐらには番いの君と大切な娘がいる。通すわけにはいかないのはそうとしても、あいつとはむしろ番いの君より下手をしたら長い付き合いだ。
⋯⋯あいつはどう思っているのだろうか。
既に、私も手を抜けなくなってきている。私が老いたのか、あいつの成長が早いのか。
なんにせよ、あいつは私を倒す気でいるのは違いない。
易々と倒される私ではないが、まだ少し、あいつの成長が見たい。
あいつがいた。
私の側には娘たちが心配そうに鳴いている。
血反吐混じりの舌の上で、敗北の味を噛み締めた。
よもや私を超える事など終ぞないとばかり思っていたが、どうやら耄碌していたらしい。
あいつは弱かった。
だが、あいつは強くなった。
何度も何度も何度も何度も私に挑み、敗れ、傷を癒してはまた挑み。
楽しかったのだ。
この寝ぐらを護るものとして、錆び付いた牙が腐り落ちるのを気にもせず。
ただただ、朽ち果てていくだけのこの私に生きがいを与えてくれたあいつに。
私は、今日敗れた。
楽しかったのだ。
ただ、それだけだったのに。