時を越えた元青年①
「お前との付き合いも、もう3年近くになるな」
そう、青年ジル・コンスタンスは眼前に佇む巨狼に語り掛けた。
巨狼も、何かを感じ取っているのか不意にジルを襲い掛からずに、どこか尊重しあうように相対した。
「だが、いつまでもここで足止めを食らっている訳にはいかないんだ。俺には、会わなきゃならない家族がいる」
ジルは、決意を込めた目で巨狼を捉える。
腰を深く落とし、握りしめた両の拳を構えて大きく息を吐きだす。
巨狼も眼前の戦士に呼応するように、獣らしく隆々とした肢体を硬くさせ、鋭く尖った牙を剥き出しに闘争心を露わにする。
「今日こそはお前のその先へ行かせてもらうぞ――おおおおおおおおおおっ!!」
ジルの雄叫びを合図に、お互いが距離を詰めあう。
巨狼は素早くジルの左真横に移動すると、鋭利な爪を横薙ぎに払う。
「ふんっ!」
それを見切ったジルは、一歩巨狼に近づき、左腕で蹠球を押さえつけ攻撃を受け止める。
同時に、足腰の重心を落とし、渾身の力を込め右拳を巨狼顔面目掛けて繰り出す。
巨狼はこれを後ろに飛び退いて躱すと、後ろ足で地面を蹴り上げ口を開き、強靭な顎でジルに迫る。
「おおおっ!!」
ジルは両腕に血管が浮き出るほどの力を込め、両顎の先端を鷲掴みにし上体を後ろに反らし、右足を蹴り上げて巨狼を後方へ投げ飛ばす。
投げ飛ばされた巨狼は、空で身をよじり大勢を元に戻そうとすると、間髪入れずに起き上がったジルの右足が頬に食い込んだ。
鈍く重い音が骨に伝わると、巨狼は表情を歪ませて勢いよく飛び退く。
顔面を蹴られたこともあってか、巨狼の意識が散漫になり、ふら付く体を支えるため四足に力が入る。
ジルがその機会を逃すはずがなかった。
足元の覚束ない巨狼へと神風の如く駆け寄ると、右左と交互に拳を連打させる。
「おおおおおおおおおおおおおっっ!!」
四足動物故か、空手を持たない巨狼にとって、最も苦手とするのが防御だ。
基本的に危険は足で避け、脚力と咬合力と爪による攻撃で相手を倒す為、単純が故に全てが必殺の一撃になる。
だが、脳を揺らされ思う様にな足捌きが出来ない状態の今、巨狼は最早、防御をかなぐり捨て眼前にいる戦士へ牙と爪を以って攻撃の応酬を繰り返した。
ジル自身も、空手での防御は出来るものの人体より遥かに硬い牙や爪を防げるはずもなく、その体に無数の傷跡が刻まれてゆく。
しかし、それこそが勝機だとジルは確信していた。
あまりにも近すぎる接近戦の結果、巨狼の巨体ではその大きさ故に振り下ろす爪に勢いが乗らず、噛みつこうにも体の周りを回りながらの攻防に思う様な必殺を決めれないでいた。
普段ならば、俊足を活かした一撃離脱による攻撃が得意な巨狼は、近づかれたままの状態での戦闘に慣れてはいなかった。
また、巨大な体もあってか足に打撃が集中して入る。
もちろん、ジルは足ををあえて狙った攻撃を繰り返している。巨狼もそれを分かってはいるが、既に飛び退く程の力が入らないでいた。
「食らええええええっ!!」
雄叫びと共にジルが巨狼の隙を突いて懐に潜り込むと、がら空きの腹部に痛烈な一撃を食らわせる。
筋肉と骨ばった外面とは違う、柔らかい肉質に拳がめり込んでいく感触をその拳に確かに感じ取ったジル。
同時に、巨狼がけたたましく吠える。
あまりの威圧にジルが耳を塞いでたじろんだ。しまった、と思うも束の間、左から巨狼の繰り出した爪がジルを捉える。
寸でのところで身をよじり躱すと、巨狼はその隙を突いて後方へと飛び退いた。
「くっ……」
折角の好機を逃し、距離を空けられたジルの顔が苦悶に満ちた。
いくら巨狼が接近戦に不得手だとしても、無傷でいられるはずもない。
確かにジルは致命的な一撃を受けてはいないが、体には無数の創傷や牙による噛み跡から生々しく血が溢れいてる。
死に至るほどの傷ではないが、特に左肩口から背中にかけて肉が抉られ止め処なく血が流れる。
これでは攻撃にや防御に支障が出て、距離を取られた現状では最早巨狼も不用意に近づく事はないだろう。
3年間に及ぶこの抗争に、敗色の影がかかる──かに見えた。
突如巨狼が苦しそうに唸ると、その場に蹲り口から夥しい程の血を吐き出した。
苦しそうに体を上下させながら呼吸する巨狼に、ジルは目を見開く。
ジルが先ほど巨狼の腹部に攻撃した際、その渾身の一撃が内臓にまで達したのだろう。
巨狼から先程までの威圧感が消え、虚な瞳でジルを見つめた。
ジルは、歓喜した。だが、同時に複雑な感情を胸に抱いた。
当初ははぐれた妹に会う一心でこの巨狼に立ち向かっていく憤怒と憎しみの情念を燃やしていたのだが、1年、2年と経っていくうちに、この巨狼との戦いが宿命の様な好敵手の様な、そう思う様になっていた。
家族に会いたい一心でこの大きな敵に立ち向かう自分が、人生の中で一番輝けていたのではないかと思う。
だが、それよりも家族に──妹に会いたい。
それだけは何を差し置いても譲れない気持ちだ。
例え、長年修行に様に相対してきたこの巨狼に対していつの間にか憎しみが消え、敬意を表する様になっても、それだけは譲れなかった。
ジルは今にも死にそうな巨狼の横を通り過ぎる。
すれ違い様にお互いの目が合い、人間と動物という生物としての種が違う者同士分かり合うはずも無かったが、その一瞥では尊敬と敬意の念が確かに渦巻いていた。
お互いを好敵手と認め、そして最大の友であるという絆が生まれた瞬間だった。
そしてその友は恐らく死ぬ。
如何ともし難い気持ちに、ジルは歯を食いしばって先へと進む。
すると、聞いたことがないか細い泣き声が連なって背後から聞こえる。
まさかと思い、ジルは勢い良く振り返ると、そこには幼い狼が2頭巨狼の寄り添うようにして鳴いていた。
「そんな⋯⋯そんな、お前には家族が⋯⋯?」
ジルは目の前が真っ白になった。考えたことも無かった。ただ単に上へと続く坂の前が縄張りだからという理由だと思っていた。
最初の戦闘でも殺せるであろう自分を殺さずに、手傷を負わせるだけで逃げる自分を追ってはこなかったからだ。
それは、単純に縄張りから出れば襲っては来ないという考えだった。
だが、それであればなぜ最初から殺しに来なかったのか。自分を殺していれば今こうして巨狼は血反吐を吐いて臥せってることはなかったのではないか。
なぜ、どうして、とジルは混乱する。
しかし、巨狼にいかな理由があれ立っているのはジル。倒れているのは巨狼だ。
巨狼の子供が細い声で鳴きながら親の顔を舐めている。
その姿が、何故か咽び泣く妹と被った。
ジルは走った。
坂の上ではなく、その逆に。
急げ急げと、まだ混乱する頭をそのままに。
ジルが急いでやってきた場所は、この3年間仮住まいとして住んでいた洞窟だ。
巨狼が坂道を塞いでいたので、もし巨狼を打ち倒せたら戻っては来ないだろうと思っていた場所だ。
洞窟の中の出っ張った岩に垂れ下げている革製の手提げ鞄を急いで引っ手繰ると、中にあった一本の硝子製の筒を持つ。筒の中では、薄緑色の液体が並々入っており、液漏れがしないよう樹皮で口を詰めてあるそれを、右手に握りしめて再度走った。
急げ急げと体から流れる血もそのままに走るその姿は、巨狼と戦闘を行った直後とは思えないほどの膂力を見せた。
息を切らしながら先程まで巨狼と戦闘していた場所に辿り着くと、今にも死にそうな巨狼へと急いで駆け寄る。
巨狼の子が驚いた様子で威嚇するが、お構いなしに巨狼の口に左手を突っ込み、無理矢理上顎を開かせる。
「飲め! 飲むんだ!!」
ジルは右手に持った薄緑色の液体が入った硝子瓶の口に詰まっている樹皮を歯で取り、喉奥に右手を入れて硝子瓶から液体を注いだ。
きちんと飲み込むようにと注いだ硝子瓶を投げ捨て下顎を持ち上げる。
零れていないかを口元を見ながら確認し、暫く持ち上げた後にゆっくりと顔を下す。
ジルが巨狼に飲ませたのは回復薬の水薬だ。魔法錬金の中でも最大の発明と言われている。飲めば傷や体力が瞬時に回復する代物で、高価な希少品でもある。
妹を連れて亡命する前に、何かあった時にと隠し持っていた水薬が、まさか使う相手が狼とはジル自身も予想だにしていなかったが。
ともあれ、水薬が効いたのか巨狼の息遣いが穏やかになっていた。意識は戻ってはいないようだが、一命を取り留めたことにジルは胸を撫で下ろす。
すると、巨狼の子らが心配そうに親の様子を窺っていたので、これはこれからどうすればいいかと、大きな溜息を吐いてジルは頭を掻いた。