空の白波
「触り心地はふわふわしてるの?」
「いや、あれは水だからどちらかといえばサラサラしてるんだ」
「サラサラ?雲に似てるのに」
船からはみ出た足がバタバタと踊る。俺たちが乗る船はギシギシと音を立て前に進んだ。
太陽の色を思わせる髪をなびかせ、俺の新しい友人は船から身を乗り出した。視線のはるか向こうには白く泡立つ波が浮かんでいた。それは確かに空に浮かぶ雲のようで、青く輝く海と、どこまでも続く空との境目が、消えてなくなってしまったようにも見えた。
「僕の世界ではね――」
サンと名乗った少年がゆっくりと口を開いた。
おとぎ話を語りだすようなそんな口調で、俺は心地よい感覚に包まれながら手に握ったオールで水を切り出した。
「ここに似ているけど、海はないんだ。海の代わりに空が足元に広がっている」
「足元に?」
「そう、こことは真逆だね」
それから紡がれた言葉を信じるか信じないかは俺次第だとサンは言った。そのくらい、サンの世界は不思議だった。
「天気がいい日はみんな船やカヤックを出して空を楽しむんだ。急ぐ人はいないよ。誰もが青い空とふわふわの雲を楽しみに行くんだもの」
「雲は触れないだろ?あれは水でできている、ふわふわしているはずがない。それに空は空気でできている。船で漕げるものじゃない」
「地球の大人はみんなそういうよね。そう思ったらそうなるんだ。そうじゃないと思えば雲はいつでもふわふわしてる」
くるっと向き直るとサンは微笑んだ。それは残念そうな表情でもあり、困ったような視線でもあった。
「カイも大人だから、僕の言うこと信じられない?」
その質問に即答できるほど俺の心は純粋ではない。大人だから、事実だと習ったことに程遠い話は「非現実」であると片付けてしまう。それは、俺が冷たい人間だからではなく、社会人として生き残るには必要な術だった。おとぎ話なんて役には立たない。
「自分の目で確認しない限りは信じられないな。俺が知る限り空は頭上にあって、船で焦げるものではない。雲は水で来ていると学校でも習ったし、それがそうであると誰かが研究して編み出した事実なんだろうし」
「難しい話をしても事実は変わらないよ」
うーん、と両手を伸ばしてサンが背筋を伸ばす。シャツに隠れていた臍が顔をのぞかせた。大きめの服に隠れた体は俺の何倍も細そうだ。
「サン、お前が空から落ちてきた時点でもう何が事実なのか分からなくなったよ」
いたずらに成功した子供のような笑顔をみせてサンが距離を縮めてきた。
「驚いた?」
「ああ、まさか子供が空から降ってくるとは思わなかったからな」
「落ちたわけじゃないよ、僕はゆっくり降りてくる予定だったんだ」
恋に落ちたのだ、とサンは頬を赤らめた。
海辺で小舟の整備をする俺を見つけ空から降りてきたのだと。ただ、気持ちが急ぎすぎて急降下してしまい、ぐるぐると回りだした体を止められなくなり海に落ちたと言った。
「服はもう乾いたか?」
「うん!」
大きな水しぶきが俺の目の前で上がったのはものの数時間前の話だった。鳥か、飛行機のかけらか、隕石が落ちたか、と浅瀬へと走った俺が見つけたのは少年だった。
ここ周辺では見かけない肌が真っ白な少年だ。天使が落ちてきたかと思うほど透き通る肌にキラキラ輝く髪と、青い瞳は、一瞬で俺の心を掴んで離さなかった。
「で、これからお前はどうするつもりなんだ?空に一人で戻れるのか?」
「ん?僕?僕はずっとここにいるよ。カイのお嫁さんになるためにここまで来たんだもん」
「はぁ…?」
サンの紅い唇から紡がれた言葉を俺が理解するまで必要以上に時間がかかった。気が遠くなり視線を上げると遠くに真っ白な波が浮かんでは消えていた。
「結婚式は空の上に浮かべた船でやろう!うんと大きな船がいいね!」
人生のページが静かにめくれ、おとぎ話が現実となる瞬間だった。