Act.6:光と闇、真なる正義
「……様」
微睡の中、俺を優しく呼ぶ声が聞こえた。……俺はひどく疲れていた。そんな優しい声すらも跳ねのけてしまいたくなるくらいに、ひどく、重く――。
拒否の声を出すが、しかし声が止むことはなかった。しまいには、耳元で何かを打ち鳴らし始めた。甲高い音から判断するに、鉄板か何かだろうか。さすがに耳に残ってうるさい上に、頭が痛くなってきたので跳ね上がり。
「うっせぇ!」
耳元で打ち鳴らされていたそれを取り上げ、打ち鳴らしていた人物のことをにらむつもりでベッドの縁を見た。
そこには、昨日放っておいた銀狼の娘――オルカが、呆然とした表情で座り込んでいた。部屋を見るが、彼女以外に人はいない。……つまり、この銀狼族のオルカこそが、俺の眠りを妨げた相手だと言える。
……いや、正直に言えば、そこはあまり問題ではない。どちらかと言うと、問題なのは――。
「なんでお前が、ここの場所を知っている」
「情報を頼りに。あれだけ疾走していたら、聞かずともここが宿であることくらいすぐにわかります」
オルカは、当然である、とでも言うように、俺へと答えを提示する。……確かに、街路を疾走する大の男がいたら、かなり印象深いだろう。オルカの言うことは理にかなっていた。
うなりながらベッドから降りると、オルカは俺の後ろについてきた。
俺が、ついてくるな、とばかりに視線を送るも、それを何かの視線と勘違いしたのか頬を染めるばかり。このオルカという少女は、一種俺の天敵のような存在にも思える。
ここで走って引き離そうか、とは思ったが、それはできそうにない。そもそも、森で起った襲撃事件。あの時に俺を襲った――事実とは異なるが、そこについてはいったん置いといて――時のオルカは、瞬間で言えば俺の速度を確実に上回っていた。
それに何より、この街はオルカにとって庭のような街なのだろう。いかに俺が全力で走っていて目立とうとも、宿まで特定するのは容易ではないはずだ。計画性もない、雑然としたこの街のつくりは、人を迷わせるに易い。
つまり、オルカには地の利も速度の利もある。……下手に走って逃げると、逆に俺が迷ってしまう事態になりかねない。
故に、俺はオルカを放っておくことにした。ついてきたければ好きにするといい。だけど、責任は取らない――そのような立ち位置に、俺を置く。
……商店街に出て、観光がてら消耗品を買いそろえる。昨日までの旅路で、保存食が危うかったので少し多めに購入しておく。
その間も、オルカは俺の横でニコニコと笑顔を浮かべながら静かにたたずんでいた。はっきり言うならば、むしろ話しかけてもらえた方が恐ろしく感じない。ただ横でニコニコされると、こんなにも恐ろしいのか――俺は、この時久しぶりに恐怖を覚えた。
その後も、よどみなく俺の買い物と見物は進んでいく。
馬糞がところどころ落ちる石畳。まるで街の鳴き声のような出店の喧騒。人と魔族が混在する、猥雑としていて、それでもどこか光に溢れたような街。――それらは、俺の心を確実に浮き立たせていた。
故に、俺は忘れてしまっていた。光があれば、また闇もあることを。
その場所は、大通りから少し外れた小道だった。所狭しと、無秩序に建てられた三階だか四階建ての建物が、俺の視界をふさいでいた。それでも、朝であるからか、こんな小道であっても人がいる。
ある者は、何か魔法の品らしきものを売っており、ある者は怪しい格好で占いを行っていた。表の盛況さと比べると、些か閑散としているような気もする。――きっと、人もいないからこの場所に、俺は暗鬱とした印象を受けるのだろう。そう納得する。
ちらりとオルカに視線を向けてみると、そこには何事もなく、自然体でそこに立つオルカがいた。彼女もこのような雰囲気は慣れっこなのだろうか。孤児だと聞いたので、きっとその生活は暗く冷たく惨憺たるものなのだろう。ある意味では、この小道はオルカにふさわしいと捉えることもできるかもしれない。
止まっていても仕方ない。俺がそう思っていると、突如として背後から怒声が上がった。俺が驚いてそちらを振り向くと、そこにはまな板を持った妙齢の女性がいた。――匂いからするに、魚関係の店だろうか。
その女性は、一気呵成に俺との距離を詰めて――俺の隣にいたオルカを、殴打した。
「――ッ!」
「このクソガキ……! お前のせいで、一昨日から息子の薬が買えてないんだよッ! 泥棒猫め……殺してやる!」
どうやらオルカが盗みをしたようだった。そのまままな板で何度も殴打する女性。痛みに、そして何よりも屈辱に、オルカが嗚咽を漏らす。俺がそれを助けるかどうかと言われれば、それは否である。
流石に木製のまな板で殴られるのは辛抱ならないのか、その健脚でもって離脱しようとするオルカ。しかし、女性はそれを許さない。まな板を、おおきく振りかぶって――。
全力で、オルカの膝に当てた。
「~~~ッ! ……ぅぁ……! ぐ……!」
「息子の痛みに比べたら安い痛み! お前ら獣人がこんな場所にいるせいで! 私たちは!」
……積る恨みも、憎しみも。先ほどの光あふれる街で俺が見た光景とはまるで逆。光があれば闇があり――光がある限り、この光景は消して潰えないだろう。
やがて誰かの光が潰える。誰かの光が生まれる。誰かの闇が潰える。誰かの闇が生まれる。――そんな奇妙な天秤で、この世界は成り立っている。
「ぶっ殺してやるっ!!!」
激昂しながら、もう全身に打撲痕を作っているオルカに止めを刺そうとする女性。痛々しいオルカの姿は、先ほどの笑顔ではなく――ただただ、泣いていた。
その涙は、一体何の涙何だろうか。自分が死ぬことへの恨み? それとも単純な痛さ? あるいは、自分の不甲斐なさを、運命の巡り合わせの悪さを呪ったか?
なんであろうと、俺には関係ない。……あるはずも、ないのだ。
「胸糞わりぃ……」
見知った仲である。知った顔が苦痛に歪む光景なんて、何度見ても胸が拒絶反応を起こす。あの災禍を断ち切れ。救いたい、救え、救うしかない。――まるで、俺を動かすかのように、足が前に出るのだ。無意識に。
それでも、俺はこらえる。これも世界の理であると、そう理解していた。
今しがた、悪鬼羅刹の顔でまな板を振り下ろそうとする女性を見ながら、少女の顔を見納めとばかりに見つめる。――そして、目が合った。
恨んでいるだろうか。守らなかった俺を。憎んでいるだろうか。見てみぬふりをした俺を。……どうでもいい。ただ、俺ができるのは、安穏たる死を祈るくらい。
だが。
「……」
まるで時が止まったように、俺とオルカの視線が交錯した。そこに在った目は、恨むでもなく、憎むでもなく、まして俺を疎くおもうでもなく――ただただ、幸せそうな目だった。
雄弁に、貴方に最期を看取ってもらえてよかった、と瞳が語る。群青色の、まるで海のような瞳が。
瞠目した。息が止まりそうだった。――いや、止まっている。凄惨なまでの光景を前に、相反するようなオルカの笑みに。その異常さに。
何故、そんなに安らかな目を浮かべられる? 何故そんなに嬉しそうな瞳なんだ? 恨んでくれ、憎んでくれ。俺に失望してくれ。駄目な奴だと誹ってくれ。そしてそのまま――失望してくれ。
心の中で螺旋を描く、失望と絶望。だが、なんだろうか。彼女の安穏とした瞳を見ていると――――吐き気がする。
子供が浮かべていい瞳ではない。子供が浮かべていい表情ではない。子供が考えていい結末ではない。子供が甘んじるべき運命ではない。ああ、憎たらしい。子供らしくないこいつが憎たらしい。なんでこいつは――こんなにも、生きたいという心に甘んじない?!
俺に救われて、必死に明日を生きていたんだろう?! なんでそんな目を浮かべられるんだ。勇者でもなく、まして何物でもなく――ただの放蕩の旅人である俺に看取られるのがそんなに嬉しいか?!
激昂した。少女の瞳に。
焦燥した。少女の心に。
混乱した。少女の今に。
……疑念を抱いた。少女の死に。
……確信を抱いた。少女を救いたいと。――二度も死の苦しみを味わおうとする少女を救わんと。
きっとこれこそが――。
「ぉおぅッ!」
オルカの頭部に飛来するまな板。俺はそれを下から上へと、殴りつける。
拳が割れる鈍い音。だが、まな板は止まる。
「邪魔するんじゃないよ!」
「……金を払えばいいんだろう?」
「………」
唖然とした表情を見せる女性だが、どうなんだ、と俺が押すと、首が縦に動いた。
懐から金貨を女性のほうへと放り投げて、それでいいだろう、と言わんばかりに女性をにらみつける。
女性は慌てて金貨を胸に抱えて、表通りへと戻っていく。まるで盗人のように。
「……死んでないか」
「……もちろん、生きて、ますよ」
そう言ったオルカは、しかし意識をすぐに闇へと沈めた。
表情を見れば、頬は緩み、笑顔を浮かべていた。――傷だらけの顔で、凄惨な笑顔を。その笑顔に何を思い浮かべたのだろうか。親の顔だろうか。親しい誰かだっただろうか。――あるいは俺だっただろうか。いずれにせよ、俺は憤る。
だが、そこにオルカの生は伴わない。そしてこいつは知らない。誰かの死の上に成り立つ笑顔に、真の価値はないことを。光があるところに闇がある様に、そのような笑顔の裏には、千、万の落涙が存在することを。
――反吐が出る。
それに、一度救われた責任と言うものもある。その責務を果たすには、生き抜くしかない。――こいつは、その責務を放棄しようとした。それが何よりも傲慢であることを、こいつは知らない。ならば――。
憤りながら俺は、オルカを抱えて宿へと戻ることにした。無論、道中で彼女のことが衆目の目に入らないように、背負う形になったが。そのまま、昼も後半に差し掛かる街を通り過ぎながら決意した。
こいつに、責務を果たさせる。光と闇のように、相反する何かが伴わない何かを教える。
誰にも文句は言わせないし、邪魔なぞさせてなるものか。これこそが、俺の――。
――俺の、最初で最後の、真の正義だ。