5.Game
ICU――集中治療室――と書かれた扉の奥に、その部屋はあった。
パッと見は普通の扉と同じ、極々普通のもの。しかし注意深い人間であれば、むしろ周囲に同化するかのように『意図的に』存在感が希薄なその扉の異常性に気付いたことだろろう。
若き医師は扉の横に隠されたように付けられているカメラに、左手を近づける。腕の静脈認証。同時に上部に配置された監視カメラが顔認証を実施する。「M8736955」さらには8ケタのパスワードを音声入力すると扉は音も無く、自動で真横にスライドした。
「どうぞ、こちらへ」
医師に促され、不安げな表情の中年女性が後を続き扉をくぐる。
その中は細長い廊下となっており、各部屋の扉には、無個性な数字の書かれたプレートが貼られているだけ。それらには目もくれず、医師はスタスタと廊下を一直線に歩き、突き当りの扉の前で止まった。
ELab
何の略語か分からないプレートが貼られた、真っ白な扉。そこを胸ポケットから光沢のあるカードを取り出す。そこには金の文字で所有者の名前が彫られていた。
「式倉氷雨 - SHIKIKURA HISAME」
そのカードをドアの横の黒いプレートに押し付けると、ドアは音も無く開いた。
微かにアルコール消毒の匂いが鼻を突く。しかし同時に視界に飛び込んできた中央に置かれた一台のベッドに、女性の視線は釘付けになってしまう。
「……な、何ですか? これは!」
女性の震える声が、絞り出されるように空気を震わせる。その視線は、ただ一点から微動だに動かない。いや、動けない……
「茜さんです。どうです、すばらしいと思いませんか。今まさにお嬢さんは、世界で誰も体験したことが無い、至高の治療を受けている真っ最中です」
「む、娘は生きているんですか?」
「ご心配なさらずとも、健康過ぎる程健康な状態です。そう、まさに死のうと思っても死ねない程ね」
「これがですか?!」
女性が悲鳴と共にベッドに駆け寄ろうとし、二歩と進まない内に医師の手によってガッシリと掴まれてしまう。
「放して下さい!!」
「いえ、放しても良いのですが、そうするとお母さん、死にますよ」
医師はポケットから紙片を取り出すと、無造作にベッドに向けて放り投げる。『ジュッ』という乾いた音が鳴り、一瞬の後、紙片は黒こげの炭へと変貌していた。
「現在、このベッドの周りには500ボルトの電流が漂っています。迂闊に近づくと、こうなりますよ」
「うぅっ…… 茜ちゃん……」
力なく床に崩れ落ちる女性。その視線の先には、不気味な光沢を放つメタリックな金属の塊が鎮座し、その中央には、全身を無数の線で繋がれた少女の姿があった。地響きのように低く鳴り響く複雑な機械音が、まるで『この塊自体が』得体の知れない一つの生き物のような錯覚を覚えさせる。しかしその中で、際立って異彩を放っていたのは、横たわる少女の頭部にはめられた、半円状のヘルメットのようなもの。そこからは色とりどりのケーブルがメデューサの髪のように繋がり、接続部をLEDランプの淡い光が、悪魔の瞳のように明滅を繰り返している。その様はまるで、少女の体が『機械の化け物』の中に生贄として飲み込まれたようにしか見えなかった。
「式倉先生、これは一体何なんですか?」
「お母さんは、『脳波』というものをご存じですか。簡単に言いますと、我々生物が生命活動をし、それに伴い何らかの思考をすると、一種の電気信号が脳内で発生します。その波の事を脳波と呼ぶのですが、最近では脳波を解析することにより、その人物が何を考えているのか? といったことも、かなりの精度で分かるようになっています」
「そんなことは知っています! こんな物々しい機械は何なんですかって聞いているんです!!」
「まあ順を追って説明しますので焦らないで。いいですか、脳波を解析することによってその人物の思考が読み取れるなら、その逆も可能ではないのか? はからずとも脳波とは電気信号です。ならば外部から脳に電気信号を与えることにより、その人物の脳を自由にコントロールは出来ないか? 過去、多くの学者達がこの難題に挑戦してきました」
「つまりこの機械を使えば、娘を目覚めさせることが可能ということなんですね!」
思わずこぼれ出た女性の歓喜の声を、医師の冷たい声が無情に遮る。
「しかしそうは簡単にいかないのです。何しろ大脳では数百億と言われる神経細胞が存在し、その一つ一つに対しシナプスを数万持つのです。シナプスとは電気信号を伝達する部分の構造のこと。お分かりですか? それら途方もない数のシナプスに対し、脳波が描き出す波形を完璧に再現しようなどというのは、もはや人間の手に余る神の領域なのです」
「じゃあ、そんなの到底不可能じゃないですか!!」
「まあまあ、落ち着いてください。その為の装置がこれです。確かに我々は『完璧に再現』など出来ない。しかし逆に言えば『完璧でないものなら再現出来る』ということです。外部からの信号で、ゼロから情報を構築するというのは困難を極めます。これを『ゼロから』ではなく、『既に存在する』ものを利用する形でならば、比較的制御は可能なのです」
「つまり…… どういうことでしょう? 式倉先生、ワザと私を混乱させようと難しいことを言っていませんか!?」
「とんでもない! これでもかなり簡単に話しているつもりですが…… まあ、いいでしょう。お嬢さんは今、記憶の迷宮に迷い込んでいる状態です。おそらくイメージとしては、『覚めることの無い夢』を永遠と見続けているようなものと思われます。その状態自体を、お嬢さんが既に持っている『普通の記憶』をベースに、外部からの電気信号で指向性を与えることによって、『覚めることの無い夢』を『目覚めさせる』状態に導こうというのが、今回の治療の趣旨です」
「だからどういうことなんですか!!?」
「ゲームですよ。お嬢さんに限らず、日本人の少年少女にとって普遍の共通認識であるゲームを、今のお嬢さんの状態と融合させます。おそらくお嬢さんは今、ゲームの主人公になった状態のはずです。そこでゲームクリア、つまりお嬢さんを目覚めさせられるように、お嬢さんの脳を操作します。」
「そんなことが可能なのですか?!」
「可能です。いえ、我々は『可能だと信じて』います」
その時、少女の横にある脳波計が、ピコーンと一際大きく波打つと、そのまま平坦な線に変化した。
「ああ、いまお嬢さんは死にましたね」
「死?! 式倉先生!! どういうことですか!!」
「まあ、落ち着いてください、っと」
若き医師がポケットから無造作にリモコンのような機器を取り出し、いくつかのボタンを操作すると、再び脳波が波形を取り戻す。
「いま『死んだ』と言いましたが、正確には『彼女の脳内で繰り広げられているゲーム』の中で死んだということです。いわば、ゲームオーバーですね。ただし、脳内とはいえ、お嬢さんの中では紛れもない現実なので、外部からこうして強制的にリセットさせたんですよ」
「す、すごい…… そんなことが可能なんですね」
女性の目は、先ほどまでの不信が嘘のように、キラキラと輝いている。しかしその輝きは、どこか昏い狂気を孕んでいることを、医師は敏感に感じ取っていた。
馬鹿な女だ
若き医師は、己の言葉に一喜一憂する目の前の中年女性に、冷酷な眼差しを向ける。脳内とはいえ、『死んだ』人間を甦らせる。いや『リセット』する。それが言葉のまま慈悲深いわけが無い。人間とは所詮、精神の塊だ。その精神を深く揺さぶる行為に、15歳という人生で最も多感な少女の脳は、心は、どこまで耐えうるのだろうという当然の心配を、この母親は全く考えていない。思いつきさえしない。
そもそもこんな精密機械だらけの場所に、訳の分からない電圧が空中放電されているはずがない。仮にも病院なのだ。そんなことは小学生だって気付くはずだ。ましてや、紙を燃やすなど、どれほどの異常で『胡散臭い』状態か理解出来ていないのだろうか? いや……
(所詮、人間とは『自分の見たい』景色だけを見、『自分の信じたい』思想だけを正義だと錯覚する生き物か……)
見よ! 目の前の愚かな女性を。女性にとって娘の存在がどれ程のものだったかは分からないが、漏れてくる言葉にあるのは、娘への愛情ではなく、自分に対しての憐憫ばかり。まるで娘が自分の一部だと錯覚し、それを失った自分を嘆いているのに忙しいだけ。何と下等で、脆弱で、そして『かわいい』存在なのだろう!
「お嬢さんの治療は、まだ始まったばかりです。これから、我々も未知の領域を手探りで進んで行くことになります。しかし、必ずやお嬢さんを目覚めさせると、断言致します。まだまだ長い時間がかかります。今日の所は御引取下さい」
「ああ、先生、よろしくお願いします!」
女性は潤んだ瞳で深々とお辞儀をする。
そう、約束しよう。必ずや目覚めさせると。それが『どのような形』でも……
若き医師は心の中でつぶやくと、女性の肩を抱きながら、医療室を後にする。ドアを開け、ポケットに忍ばせてある、赤外線レーザーの防犯装置の出力設定を元に戻す。先ほどは紙が燃える程度の、いわば
『おもちゃ』だったが、本来であれば、人間など一瞬で消し屑へと変貌可能だ。部屋一面に再び『不可視の牢獄』が構築されたことを確認し、医師もドアをくぐる。
ELab (Experimental Laboratory)――実験室 と書かれたプレートを背にして。