12.母と娘
桜守翠という女性のことについて述べたい。
桜守翠、桜守茜の母親である。
44歳。家族構成は娘が一人。現在は派遣で働いている。
彼女の性格を一言で表すならプライドの塊と言える。
もともと育った家は、ランクで言うなら中の上。父親を早くに無くし、女手ひとつで育てられた。
彼女の母親は弱い人間だった。
夫を亡くしたショックから立ち直ることが出来ないまま、ひたすらパートで学費を工面し続けた。
その熱意は全てただ一点、「娘が幸せになる」ため。
良い大学を出て、良い会社に入社し、そこで金持ちの男を見つけ、結ばれる。
子を産んだ後は専業主婦としてひたすら家庭を守り続ける……
自分の苦しんだ人生を反面教師として抱いたその身勝手な夢は、まだ小学校低学年だった翠の精神に深く植え付けられることになる。
学校の成績は常に全国でもトップクラス。
仲良く遊ぶような友達も、恋人もいないまま、ただひたすらに勉強に明け暮れた彼女の人生は、大学受験の時に始めて挫折にあった。
周りの誰もが受かることを疑わなかった東大受験の当日、交通事故に遭ってしまう。
その理由は、車に惹かれそうな小さな男の子を助けるためだった。
今まで人との関わり合いを拒み続けていた彼女が、なぜ見も知らぬ少年を助けたのか? それは彼女自身にすら説明つかない感情だったのかもしれない……
ともあれ、男の子がかすり傷で済んだ代償として、彼女は右足を複雑骨折。全治三ヶ月の大怪我を負うことになる。
当然東大受験など出来るはずもない。
結局大学は滑り止めとして受けた早稲田の政治経済学部に行った。
それは単に、志望校に行けない事以上に、浪人するという屈辱に彼女が耐えられなかったからだ。
それでも政治家を目指していた彼女にとって、東大に入れないということは、そのまま夢のエリート街道から大きく外れることを意味していた。
卒業後、彼女は官僚となる。
そこで一人の男性と出会った。
大きな野心を持ち、それに見合う行動力を持ち、常に自分の夢を熱く語っていたその男に、彼女が惹かれたのは当然だった。
「この男なら私の夢を叶えてくれる」
彼女は果たせぬ自分の野心を、そのままこの男、現在の夫に託した。
野心家の夫と、その野心に自分を重ねる妻。それはある意味、ベストマッチだったともいえる。やがて娘が産まれ、彼女の人生は順風に思えた。
それが一瞬のうちに崩れるとも知らずに。
国を揺るがす程の、国会の大不祥事。
その渦中である政治家の某スキャンダルの身代わりに夫はなった。ならされた。
その裏で、どのようなやり取りがあったのかは分からない。
ただ、これにより、彼女の夫は一切の出世街道の道が断たれてしまった。
残ったのは、野心を失くし、自信を失い、生きることに絶望した哀れな男……
妻のあらゆる言葉を拒絶し、そして自殺してしまう。
笑うしかなかった……
これほどツマラナイ男だとは思わなかった……
それからだ。彼女にとって娘が全てになったのは。
彼女が娘に望んだもの
自分は東大に行けなかった。娘には東大に行き、エリートコースを歩いて欲しい。
自分は男を見る目が無かった。娘には、頭がよく、力があり、金をもっている「すばらしい」男を捕まえて欲しい。
そう、まさしく物語に出てくる王様のように。
いや、もっと強大であってほしい。
それこそこの世界で一番偉く、強い、そう、むしろ物語の「魔王」のような絶対者こそ、娘の結婚相手にふさわしい……
それは心の奥底に秘められた、暗い妄想。
狂おしい程の、母から娘への愛。
決して表には出ないはずだった。
あの薬を飲むまでは……
次で序章の最終話です




