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実にきままなエッセイ

作者: 却下

 「小説家になろう」というサイト名でありながら、今から私が当サイトを利用して綴ろうとしているのは、所謂「エッセイ」です。……いえ、所謂、と云うほど一般的なエッセイとは似ていないかもしれません。殆ど、自分の思考や価値観を文字化して整理したり、或いは加速させたりする為の、備忘録のようなものです。


 そういう理由(わけ)ですから、読者の方方に「自分の考えを分かってもらおう」「此方の意見に同意してもらおう」等の思いは有りません。少なくとも、自分にさえ分かれば、此のエッセイの存在意義(レゾンデートル)は満たされます。


 早速始めましょう。

 

 難しいことを一切考えずに、詰まり思考停止を選び、「好き」「嫌い」だけで物事を判断するのは、とても楽です。私は、此の、言うなれば非理性的な態度が大好きで、道家の如く、能う限り斯く生きようと思っています。

 逆に云えば、論理的に物事を考えるのは、大変に難しいのです。「絶対」という言葉は私は大嫌いですが、だとしても敢えて「絶対不可能」と断言してしまえるくらい(立証はできませんが)、難しいのです。


 斯く言うと、恐らく、或る友人(既に連絡手段を絶ったので、友人と呼び得るかどうか分かりませんが)が私のところに飛んできて、叱責するでしょう。「頭を使って考えない人は、生きている価値がない、人間ではない。」と。彼は、そういう人間が大嫌いだそうです。

 彼は、何につけても、ブレることの無い自分の意見を持っています。科学にも、時事にも、趣味にも。今まで触れたこともないような分野の事に就いてさえ、触れ始めてから五分もすれば自分の意見を立派に築き上げます。彼曰く、とても彼は論理的だそうです。彼の全ての考えは、自分を見つめて、論理的に見つけ出されたものらしいのです。

 

 ……一寸(ちょっと)、寄り道をしましょう。「論理的」とは何でしょうか。

 大学受験の中で、最も論理的な科目と言えば、恐らく数学でしょう。正しい推論を経れば、答えは一意に定まります(不定とか不能とかいう解も在りますが)。一見、数学の問題には、主観なんぞと云うものは毫も混じっていないように思われます。

 ですが、本当にそうでしょうか。数学には、人間の恣意は、混じっていないのでしょうか。

 いいえ。数学には、重大な恣意が隠されています。即ち「問題文に書かれている条件は、疑う余地も無く真とせよ」「用いるのは、学校が定めた、西洋の論理学に沿って作られた(合ってますかね?)論理体系のみとせよ」の二点です。もう少し在るかもしれませんが、少なくとも此の二点は、数学に潜んでいる、人間の勝手な都合です。此れが無ければ、数学の問題は成立し得ませんから、仕方の無いことですが。


 却説(さて)、人間の考えを、此の数学の例のアナロジーとして、考えてみましょう。

 人間が、どんなに論理的に物事を考えようとしても、少なくとも二つの恣意的な価値観が入ります。即ち、「疑うこと無く当たり前だと思い込んでいる前提」「自分の使っている論理体系への信頼」です。此れ等無くして零から論を組み立てることなぞ、人はできないのです。

 此れ等に就いては、古今東西の哲学者や思想家が、長い時間を費やして考えてきた筈です。前者であれば、Descartesの「Cogito ergo sum」が有名ですね。我思う、故に我在り。詰まり、様様なことを疑っている己自信は確実に存在している、と。後者であれば、古代中国の名家(めいか)が編み出した論理学や、西洋の記号論理学等が在ります。

 ですが、其れでも人間は、「確実に正しいことは何か、そういうものは存在するのか」という問いに、答えを与えることができていません。其れ程、難しい問いなのです。


 私の友人の話に戻りましょう。

 彼は、自分の意見に自信を持っています。そして、其れに外れる意見を暗愚と為し、似た意見を視野が広いと賞賛しています。此れは、どういうことを意味しているのでしょうか。

 ……結局の処、「自分と価値観が似ている人を好んでいる」に過ぎないのです。何故なら、彼の論理は、彼の価値観と論理体系を前提として成り立っているのですから。

 いえ、自分の価値観と似ている人を好むこと自体は、何の咎も在りません。私も、そういう傾向が有ることを否めません。私が嫌いなのは、彼が、唯の己の好き嫌いの話を、「正しい」「誤り」なんぞという枠で捉え、自己を正義と為している点なのです。


 腹立たしい友人に就いては、一旦、此処で筆を置きます。

 私の、此の頁での考えを纏めると、「本当に正しいことなぞ無いのではないか」という疑念に帰着します。


 此れ以降のエッセイでも、恐らく、斯かる虚無主義的な前提を敷いて、筆を進めてゆきます。

 「何も正しくない、という前提の下で、論を展開できる筈が無い」と仰る読者も在るかもしれません。ですが、誤解されませぬよう。進めるのは、論ではなく、私の好き嫌いを顕在化する計画なのですから。就活の中に「自己分析」というのが在りますよね、殆ど、其れの一環です。

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― 新着の感想 ―
[一言] 西洋だと、デカルトの「我思う故に我あり」 東洋だと、荘子の「胡蝶の夢」 ここら辺がこのエッセイの例に上がるんでしょうか。 洋の東西を問わず、哲学的な分野で人は同じ結論に達しちゃってますよね…
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