逃げきる、逃げきれば、逃げきったら
油断していた。つい、気がゆるんでいた。
追われている。間違いない。捕捉されたのだ。
ゴロゴロと嫌な音をかき鳴らしながら、やつは追いかけてきている。
あきらめたくなんてない!
1つだけ分かっていることがある。
振り返れば、破滅だ。
ハアハアハア。呼吸が荒くなる。
ここはどこなのだろう? 初めて訪れた街の一画。それだけは確かだった。
ここがどこなのか? 分かるわけがない。
そうだ、ググれば! 鞄を開ける。右の手を差し入れ文明の利器を探す。……置いてきていた。
左前方に路地が見えてくる。折れ曲がってしまえば、まける可能性はかなり高い。
曲がるべきなのだろうか。いや、そこが万が一にも行き止まりだったらどうしようもなくなる。お手上げだ。事前に確認するすべなどもっていない。
つかの間、悩む。うん、根拠の無いポジティブシンキングは避けよう。直進する。通り過ぎていく路地を横目でちらりと眺める。ええい、未練たらしい! 再び前を見据える。
助けて!
心の中で、そう悲鳴をあげる。だけど、その願いはすれ違う人たちの誰にも届いていない。
私のテレパシー能力は、このピンチに眠ったままだ。もっとも、物心ついてからより起きていたことなど一度もなく、恐らくは死ぬまで目覚めることもないのだろう。
ゴロゴロという耳ざわりな音は、一向に遠ざかる気配がない。
疲れてきた。走らずに早足というのは意外ときつい。底ペタな革靴がつらさを倍増させている。
額に浮かびあがっていたひとしずくが、物理法則にしたがって流れていく。
熟れたリンゴのように赤く染まっているはずのホッペタをつたった汗が、首筋にすーっと落ちる。そのひやりとした感触はちょっとだけ気持ちがよかった。
後ろで軽く結わえているだけの髪が、パタパタと跳ねるように揺れている。
私のトレードマーク、ポニーテール。髪を伸ばしてからは基本これのみだったりする。
凛としてしかも可愛らしく見えやすいからだとか、男の子にモテソウだから……そんな下世話な理由ではない。
簡単だった。朝、ほんの5分。ううん、1分でも長くベッドの中でゴロゴロしていたい。でも、寝癖をつけたままだなんて論外だし、髪を整えずに外へ出るのも心底ゴメンだ。
妥協の産物が、ポニーテール。
仰向けに寝転んで、髪全体をぶわっとうなじから頭の先の方へ上げる。首を少し浮かして、髪束を掴んで、ゴムで結わえる。あとは、毛先を少しブラッシング。
これだけで済む。時間にして多分30秒くらい。
実に手抜きな……ケホンケホン。簡潔な髪型……だと私は思っている。ポニーテール人にアンケートを取ってみたくなる。速い人は20秒はきってるんじゃないのかな。
テールといえば、猿は尻尾を失うことで人になったとかなんとか。
いつだろう? 多分、理科の授業で聞いた気がする。それともテレビで見たのかな。尾てい骨ってなんで付いてるの?
あ! これはダメなパターン。
現実逃避し始めている。
歩く速度をゆるめないまま、少しだけ目線を足元に落とす。スカートのプリーツが細かに揺れ動いている。歩みに合わせ、見え隠れしている膝が笑い始めているのが分かる。
ふくらはぎの筋肉が、ギブギブと白旗を掲げようとしている。……実に情けない。
ちょっとだけ! 運動不足気味。つまり、ふっくらさんなのかもしれないと自認していた。
私の脚は、もはや。いう事を聞かなくなりつつある。
ほんの少しだけど、コツコツという私の靴が奏でる音の間隔が伸びていた。
けれど。振り返っても、立ち止まっても、待っているのは破滅だ。
ヘーイ! ヘーイ!
勝利の凱歌のつもりだろうか、ゴロゴロという音にかぶせてやつの声も耳へと伝わってきた。
しつこいなぁ、もう。叫ぶな! 街の中で! と180度ターンをビシッと決めて言い返したくなる。もちろん、しない。そんなことが出来るくらいなら、こんな事態になんかおちいっていない。
分かってよ。察してよ。
私は、あなたのことを避けて遠ざかっているわけじゃないの。
たまたま! こっちの方向に急ぎ足で向かっているだけなの。
たまたま! あなたの呼びかけに気がつけていないだけなの。
阿吽の呼吸って大事だよ!
英語でいうと……なんだろう。相性とかでケミストリー? ……スペルではなくカタカナがまず頭に浮かぶ。そんな自分に呆れてしまいそうになる。二人組みのボーカルユニットの顔がちらつく。論外だ。肩をすくめて、いわゆるお手上げゼスチャーをしたくなる。
chemistry うん、スペルはこうだ。……だから、なんなの! これが一人ツッコミという技なのですね、師匠!
……本当にダメかもしれない。
逃れられそうにない運命から、現実からの。逃避が止まらなくなりつつある。
足、もう少しガンバロウね!
声に出してしまうとと変な人の一丁上がりだ。それが分かるくらいの理性は保っている。脳内から脚の各部位に向けて、熱いエールを無言で送り続ける。
不意に。追ってくる気配が途絶えた。
私は一瞬戸惑う。思わず、ほほがゆるむ。
直後に勝利を、逃げきったことを……勝ったのかな? 引き分けっぽい? とにかく無事を確信した。
後ろに目が付いているわけじゃない。武道の達人が出てくるようなそれ系の漫画でありがちな、相手の気を察したわけでもない。
ことの始まりから聞こえていたゴロゴロという音が鳴り止んでいた。
平たく言ってしまえば、それだけのことだった。
ホッとする。私は念の為に20歩くらい進んだ先でようやく立ち止まった。ちょっとだけ、恐る恐るチキンハート気味に振り返ってみる。
オケーオケー! あの人の後頭部が見える。キャリーカートを引きながら、とぼとぼと歩くその後ろ姿は、心なしか肩を落としているように見えなくもない。
でも、これは……仕方がないことなの。私にとっても、あなたにとっても、時間の無駄でしかないの。
縁がなかったんだよ。
……ごめんね。
声には出さない。心の中だけで、そうつぶやく。私は、彼の背中に向けて小さくペコリと頭を下げた。
軽く束ねているだけの髪がわずかに揺れる。
うなじに触れてくる風が、とても心地よかった。
「おそーい! どこまで行ってたの?」
「えーと??? どこまでなのでしょうか。わからないんです。遅くなってすみません」
表情をひくつかせている担任の青山先生が、深々とお辞儀をしている私の頭頂部付近をぽこりと軽くはたいた。
修学旅行で訪れていた京都。
愛用のハンドクリームを持ってき忘れていた。担任の先生に事情を話して、宿泊先のホテルからほんの2~3分くらい先にあるドラッグストアへと出かけ……30分くらい後に戻る羽目となっていた。
私がこの国にやって来たのは1歳にもならない頃……覚えているわけがない。
だからという訳でもないけれど、中学3年生となっていた私の思考は、英語力は、すっかりがっつり日本人だ。
青い目をした金髪の。
……一応バイリンガルだったりする。日本語とスウェーデン語。日本の、それも1時間に電車が3本というザ・片田舎で暮らす限り、夏の日の毛皮のブーツくらい使いみちが限定されるシロモノだ。
家族以外とスウェーデン語を話す機会なんて、限りなくゼロに等しい。
エイゴワッカリマセーンなガイジンの一番の天敵は、たぶん観光地の外国人観光客に違いない。
私は今日という1日の、それもわずか数時間の経験で、そう悟らざるを得なかった。
こっちを見ないで! ドントルックミー!
英語で話しかけてこないで! アイキャントスピークイングリッシュ!
京都、千年の都。それは私にとっては魔都のようなものと化していた。
行く先々で、高確率で、ガイジンさんたちが近寄ってくる。
学校の先生も、クラスメイトも、友達も。実に頼りにならない。4月の学級会で決められたクラスのモットーである一致団結とやらははどこへいったのやら。トホホ。
まあ、気持ちは分からなくもない。びびるよね~、なんかでっかいんだもん。迫力あるもん。英語バンバンでしゃべってくるんだもん。
その手に持っているガイドブックを活用すべき!
近くに英語話せそうな雰囲気をぷんぷんさせている日本人がいるよ! ほらそこに!
ニホンゴハ、ワッカリマセンカ。ソウデスヨネー。
見えない魔法で引き寄せられるかのように、私めがけて押し寄せてくる。
きっと、黒髪黒目平鼻の少女なら……おそらくは誰かしらが助け舟を出してくれるのだろう、多分。観光地だしね。
でも、傍から見ればどちらもガイジンさんのケースは、見事なまでに総スルーされる。知り合いに見えてしまうのだろう。
まあ、そうでしょうね~と私自身にしても納得してしまうのが、悔しい。
肉体にも精神にも負荷かかりまくり。うん、これはダイエットにいいかも!
……。
明日も京都で、明後日は奈良。なんとも情けないとしか言いようのない、逃亡者としての時間は、確実に訪れそうだった。