海の神
呼ぶ声が聞こえた。耳鳴りをそう思い違ったのかも知れないけど、妙な確信があった。以前は無我夢中で意識しなかったが、飛行機事故に遭って、木々の海に吸い寄せられた時も同じような感覚があった。
「モリノこっちだ」
思わず口をついて出た。それは本当に自分の言葉だっただろうか。足も勝手に動いた。
瓦礫をかき分けて、海辺へ導かれたのだと気づく。ベランダの下には、前は見えなかった、小さな砂浜があった。そこに彼女の姿が見えた。
モリノが駆け寄りウミナを抱きしめる。しかし反応はない。手も足も、眉さえ動かない。屋敷が破壊されて、きっと恐ろしい目に遭ったのだろう。
「海の巫女は人類全ての財産だ。失われたら、争いを生みやがて全て滅びる」
「それでも、その娘が欲しいか。自分だけのものにしたいのか」
先と同じような声。地響きのように大きく感じられた。
「何の音だ。何を言っているんだ」
「対話の出来る人間は、海の巫女だけだった。心が繋がっていたからだ」
波が騒がしくなる。荒れる前兆だろうか。
いや違う。声は確かにそちらから聞こえて、これではまるで、海が問いに答えたようだ。ウミナが海に向かって独り言を話していたのは、もしかしたら、本当に海と対話することが出来たからではないだろうか。
「何処かで彼女と通じ合ったのだな。現に心を通して間接的に対話出来ている」
「ウミナは奪って行くぞ。他の全てが滅ぶことになっても、そうさせてもらう」
モリノが遮るように言い放った。しばらく沈黙が続く。
「──良いだろう。人間の行く末など、神々の知ったことではないからな」
「お前たちを助けてやろう。醜い争いが及ばない楽園に、お前たちを招こう」
「そんなことが出来るのか」
まだまだ、素直に喜ぶような事態ではなかった。そんなことが出来るとは信じられないし、この声が神様のもので、さらに信用に足るとも思えない。
「もちろんタダとは言わない。二人とも代償を払ってもらう」
ほら来た。これだ。
しかしモリノに目をやると、そんな疑いは知ったことじゃあないというように、まだ見ぬ要求を待つ構えであった。そして波も高まったように見えた。
「森の剣豪モリノよ。海の巫女が欲しければ剣を捨てよ。その利き腕を差し出せ」
しばらくモリノは黙っていた。息遣いさえ聞こえない。呼吸も止まっているのだろうか。神経の太い彼であっても、唐突な選択を前にしては、さすがに困惑の色を隠せないでいた。
「どうした。他の何を滅ぼしてでも奪いたいのだろう」
「特技ぐらい、愛着ぐらい、何だと言うのだ。勿論捨てられるのだろう」
海の声に聞く耳を持たず、ウミナを静かに励ましてから、モリノはこちらへ歩み寄ってくる。いつもの間抜け面に似つかわしくない神妙な面持ちをしていた。
「もう一発頼む」
再び私は、憎き娘婿を殴り倒した。しかしタフなやつだから、すぐに起き上って、ウミナを抱き抱えに戻る。その瞳はまっすぐ海へ向いていた。
「二分ほど悩んだ。恥ずかしいことだが悩んでしまった。一生の恥だ」
「もう剣は捨てたぞ。ほら腕をくれてやる。持って行け」
瞬間、極限まで高まった波はモリノを巻き込んで、海へと引きずり込んだ。そして口から西瓜の種を吹き出すように、砂上へ置き去りにした。腕がなくなると思ったが、確実に指の一本たりとも奪われていなかった。しかし──
「握力か」
モリノは右手の指を動かしてそれを実感していた。逆に全くなくなったわけではないということを確認しているようでもあった。
「続いて海の巫女に対する条件だ」
「海の巫女には魔法を捨ててもらう。もう二度と海の声を聞くことは出来ない」
それを聞いてウミナの心が返ってきた。そして顔をゆがめて、頭を掻き毟る。
「わたしには親というものがなくて、周りはわたしの信仰者がいるばかりだった」
「しがらみから解放してほしいけど──海は唯一の理解者。離れるのは怖い」
ウミナの譫言である。さて中々の難問だな。モリノはどうするか。
覚悟を決めた表情だった。私に見られていることも、海の神に煽られていることも忘れて、モリノはウミナを力強く抱きしめた。初めてとは思えないぐらい、相手を想い、説得力のあるキスをした。
お姫様を目覚めさせるキス。昔から決まっていることだが、知らない彼らは、それを無意識で成し遂げたのだろう。止まっていた時間が動き始めた。
「魔法を、私との縁を断ち切ることが出来るかな」
「もちろんよ。わたしだけで、わたしたちだけで生きていく」
先ほどまでの彼女からは考えられない、即答であった。
彼女の変化は視覚的なものではない。知る由もないものだったが、確実に何かを失ったという表情だけは顕著であった。やり遂げたという笑顔のまま、巫女ではなくなったウミナは、大粒の涙を流す。愛娘に似ているという贔屓目を抜きにしても、独り立ちをした少女の涙は、世界で一番美しいものであった。自分ももらい泣きをしていることに気づく。
「良かろう。道を開いてやろうではないか」
本当に私たちが海と対話していたと実感したのは、ちょうどその瞬間であった。
右に左に波が高まり、中央の一線だけ、ちょうど車が一台通れるほどの道が現れる。モリノは握力が残っている左手をウミナの腰に回して、互いに支え合いながら歩き出す。それはさながら旧約聖書における、あの預言者のようであった。
「世話になったな。お前も一緒に来るかい」
行く当てのない者にとっては魅力的な提案に思えたが、冗談じゃあない。嫌味な小姑にならざるを得ないほど居心地の悪い空間であることは、想像に難くない。
「頼んだぞ」
「何だって」
あまりにも小声で、それが二人に届くことはなかった。そして門が閉じるように、海に現れた道は見えなくなった。取り残された私は、どうしたものか。
「次はお前だ。マチダ」
「俺を帰してくれるのか」
衝撃だった。何と懐の深い神様だろうか。しかしすぐに、それは間違いだったと知る。
「選べ。お前が元の世界へ戻ったら、あの二人を藻屑とする。あの二人を救いたければ、お前はここで魔女に殺されて死ね」
想像以上に意地の悪い神様であった。姿は見えないが、ほくそ笑んでいることだろう。
しかし残念ながら、今の私に動揺はなかった。
「もう答えは間違えない」
意地悪に一泡を吹かせてやろう。映画監督になった時のような過ちは犯さない。
「気の毒だが、他の何を滅ぼしてでも、私は家に帰らなければならない」
視界が暗く変わった。息が出来ない。錯覚ではなく本当であった。海に沈んだのだ。
世界が滅び行くのが見えた。しかし二人は無事だ。神様もそれほどではないみたいだ。
「お前をここへ招いたのは木々だ。そして今は、この海々に運ばれていく」
「私とお前はいつも逆だった。しかし二人の男女が、それを壊してしまった」
理解に苦しむ。超越者の思考は、法事で聞く念仏のように、言葉ではなく音声として鼓膜に響くのみであった。
「お前は、愛のある世界からの使者だ。そこにあればこそ人と人は愛し合うことが出来る」
「それは違うな。他所には答えを見つけた男女がいて、何より私が間違っているのだから」
鼻で笑われたかのように肌で感じとることが出来た。
「褒美だ。可能性を示してやる。まあ代償はいただいたから、後ろめたく思う必要はない」
「町田久、ご苦労だったな。どうか、もう間違えないように──」
砂時計が逆さまになったみたいに世界が変わって、身体が浮き上がるような高揚感に包まれた。あいつと出会い娘が産まれ、家も建てた。しかし家族皆で過ごしたのは僅かな時間だったな。もう遮るものはない。他の何を捨てても私は帰るのだ。
見覚えのある一軒家があった。窓から漏れる温かい光に、蛾のように吸い寄せられた。
そうか。今日は、六十歳の誕生日だった。四十年の役目を終えて、父親であり会社員だった町田久が、ただの人間に戻る日であった。涙が止まらない。間違っていなかったのだ。
「ただいま。ようやくここまで来られたよ」
絶えずベットリと貼りつく痛みを胸に、静かに歩みを止めた。




