3話 デュラン
奈々にはメイと言う友人がいる。
年上の既婚者で、奈々のカフェの食器洗いや掃除、買い物などを手伝ってくれる。
メイは、奈々のカフェのやり方に口出しすることはなく、いつも奈々を見守ると言う存在だ。
その日、メイが買い物に出かけようとすると、ドアが開いて一人の客が入って来た。
大学生の男の子で、メイのためにドアを開けていてくれる。
身なりのさっぱりしたその大学生は、メイと目が合うと、にっこり笑い軽くうなずくように会釈した。
"Thanks."
メイは笑顔で言うとドアを通り抜ける。
ドアが閉まると、メイは振り返った。
ガラスのドアに、青い空と緑の木々の景色が写っている。
その景色に混じり、ガラスを通して見える彼の背中がカフェの奥へと消えてゆく。
メイは、ふふっと笑って言った。
"Another one."(別の人ね)
カフェのお客は大学の関係者が多い。
学生たちがほとんどだけれど、たまに大学教授もマテ茶を飲みながらレポートを読んでいたりする。
同じ大学ではなかったけれど、奈々も留学生だった。
だから彼らとの会話も合う。
奈々は日本で高校の英語科へ通っていた。
ホームステイも、オーストラリアとアメリカでやっている。
そして高校を卒業し、留学のための大学はTOFLEの必要のないコミュニティーカレッジを選んだ。
勉強というよりは、アメリカでの生活を楽しみたかったからだ。
この国に住み続けたいとも思っていたけれど、そのために何か特別なことをするいう風でもなかった。
それは彼女のあせらない性格のせいで、経済的にも恵まれていたから出来たことだ。
留学生は、それぞれの思いを持って外国で学ぶ。
何のためにここへ来たのかと聞かれたりするから、簡単に答えられるようにしておいた方がいい。
特別な答えを準備する必要はなく、語学留学、または文化を学びたいと言うだけでも立派な答えになる。
とにかく、外国に出てみるのは良いことだ。
ところが、学校と家での宿題に追われ、外国に住む経験をあまり楽しめなかった留学生もいたりする。
中には、日本で学べたことを外国で苦労して学び、時間とお金を使ってしまった人もいた。
留学という肩書きが欲しかったと言う人もいたりする。
それでも何かを学べたはずだから無駄ではない。
奈々は、この国での生活を楽しむことと英語力をアップすることを目的としていた。
だから日本の友人は作らず、日本人や他の国の留学生がいない授業を選んだ。
コミュニティカレッジだったから、ジュエリーのデザインなんてクラスもある。
もちろん難しいクラスもあった。
特に経済学のレベルは高く、実践経験をした人でなければ付いていけないそうだ。
このように奈々は、この大学の幅が広いのも気に入っていた。
また奈々は、初めは車を運転しなかった。
バスに乗り、乗る前に買った新聞や雑誌を、乗客や運転手にプレゼントしたりして話しかける。
英語が聞き取れなかったり意味が分からなければ、可愛いメモ帳を出して書く。
そのメモ帳も話題の一つになる。
奈々は、なんでもメモ帳に書き留めるから、そんなひたむきな態度は好感を持たれた。
そうしてバスの乗客や運転手とも軽くジョークの言える仲になっていったらしい。
奈々は、ホームステイにも恵まれていた。
バス停の近くにある家で、そこからバスに乗ると、直接カレッジへ行けるので、乗り換える必要はない。
それに、そこの白人の中年夫婦はオルガニックの菜食主義者で、料理の味も良かった。
1年後に彼らが引っ越す時、奈々に、自分たちの引越し先にある大学に移っては、と誘われるほど仲がよくなっていた。
奈々は、それを丁重にお断りしてアパートへ移った。
そんな風に、あせらず楽しく留学生活を楽しんでいた。
とは言え、いいことばかりでもない。
結婚は考えていなかったのに、結婚してしまい、4年後には離婚した。
子供は出来なかったけれど、グリーンカードを得ることは出来た。
だから、離婚と言う苦労の結果からの褒美をもらえたようにも思っている。
さて、カフェ・ツインナナに、毎日のようにやってくる大学生の名前はデュランと言った。
すっきりとしたハンサムな子で、もの静かな好青年というタイプだ。
アメリカ人に良くある積極性というか、自分を主張する感じはあまりない。
奈々は、デュランの静かなラブコールを、いつもにこやかに交わす。
ところがデュランにとって、そんなところが、ますます魅力的に思えたらしい。
アメリカ人の女の子は積極的だ。
デュランは、それがいやだった。
そんなある日、突然に、デュランの父親がカフェへやってきた。
どうやらデュランが、奈々との交際を真剣に考えていると父親に言ってしまったらしい。
そこで、社会にも出ていない、未熟な我が息子をたぶらかすカフェの女主人とはどんな人かと思ったのだそうだ。
もちろん、奈々にとっては寝耳に水の話である。
誤解はすぐ解けたのだけれど、奈々はこの父親を見て、なるほどと思った。
歯科医師の、ちょっと厳しい感じの人で、それだから息子のデュランは品が良かったのかもしれない。
とにかく、若い男の子が年上の女性に熱を上げるのは、古今東西、よくある話だ。
それで奈々は、デュランの想いは分かっていたけれど、距離を置くようにしていた。
年下の子に好かれるというのは、子供や動物から好かれるのと似ているかもしれない。
もちろん、年下とは言え、大学生を動物や子供と似ていると言うのは語弊があるけれど、可愛い感じはする。
ところで奈々は、動物も子供も苦手なのだ。
子供の頃、可愛い子犬でさえ怖くて逃げ出していた。
それなのに、メイの家にいる犬たちは奈々が好きで、その一匹の小型犬は、奈々を自分のご主人様であるかのように慕う。
このふたりの関係は、人間と犬と言うより、女の子とお人形さんと言う不思議な関係だ。
苦手なはずの子供に関しても面白い逸話がある。
それは奈々が、図書館でボランティアをしていた時のことだ。
奈々は、本が返却されるカウンターで本を受け取っていた。
そしていつも、奈々の所にだけ子供の長い列が出来るのだ。
奈々は子供たちに、その本について軽く会話をし、一人の人として接する。
子供であっても、大人であっても、一個の人間として扱われるのは気持ちがいいものだ。
奈々は、ティーンエイジャーの子たちとは気が会う。
あまり経済的に余裕のない家庭の娘たちを誘っては古着屋めぐりをする。
そして、安くて良いものを見つけるように助けてあげて、その後は、カップケーキ専門店でおやつにする。
そこは夢のようなカップケーキがいっぱいある可愛い店で、値段もあまり高くない。
そんな風に、お金を掛けない遊び方をする。
奈々は結婚していた時に、アンティーックに興味を持つようになっていた。
カフェ・ツインナナのインテリアは、奈々がアンティーックショップで買い求めたものやビンテージのものが多い。
だから古着屋めぐりもお手のものだし、ブランド物、時には値札が付いたものまで安く買ったりする。
そうしたものを、インターネット・オークションで売買もする。
それでカフェにお客がなく暇な時は、コンピューターに向かっていることが多い。
最近は、そちらの方が本業になりつつある。
この小さなカフェは、ある意味、奈々のオフィスのようでもある。
デュランは、奈々がコンピューターに向かっているような、お客が少ない時を見計らってくる。
そして、いつも一人でやってくる。
奈々と話をしたいからだ。
奈々はデュランの話を引き出し、良く聞いてあげる。
そんな所が、彼の気持ちを捕らえたのかもしれない。
気持ちを捕らえると言えば、奈々が留学生だった頃、メイを驚かせたことがあった。
突然に、友達だと言って、黒人青年をメイに紹介した時のことだ。
彼は、奈々より少し年上で、カリフォルニアから仕事のためにやってきて数週間滞在していると言う。
ところがこの青年は、メイに「奈々と結婚したい」と突然に言ったのだ。
それは3人で、ショッピングモールの素敵なカフェの丸いテーブルを囲んでいた時のことだった。
彼はとても礼儀正しく、まるで奈々の家族に尋ねるかのようにメイに伺いを立てる。
そして自分は、しっかりとした家庭で育ったと言う。
メイは、アメリカ南部を訪問した時、たくさんの躾の行き届いた黒人の若者たちに会っている。
その礼儀正しさは、日本人の若者を恥ずかしく思わせるくらいに魅力的で関心させられた。
とにかく奈々は、その青年との会話の横で、紅茶を飲みながら何か他の事を考えているようだった。
メイは、奈々をパウダールームへ誘う。
そして言った。
「彼は、あなたと結婚したいんですって」
「えーっ?」
と奈々が驚く。
「聞いてなかったの?」
「いや、他の事を考えていて・・・」
「それで、あなたはどうなの?」
「彼はお友達よ。 それに私、結婚なんて考えたこともないわ」
「でしょうね・・・」
とメイは、ため息をつく。
メイは思った。
確かに、この国にいたい奈々にとって、結婚はグリーンカードを得るひとつの方法なのだ。
それでも奈々は、そんなことのために結婚するとも思えない。
結局奈々は、この青年の猛烈なアタックをのらりくらりと交わし、そうして彼はカリフォルニアへ帰っていった。
デュランが、この青年と同じように思い、自分の父親に「奈々と結婚したい」と言ったのかは定かでない。
そして奈々が、「異性と付き合うことを考えていない」と言っても、諦めるつもりはないらしい。
今日もデュランはカフェにやって来る。
奈々は、そんなデュランを、午後のひだまりでまどろむ猫のように、のらりくらりと交わしていた。