2話 ラリー
「彼女は、時々、僕をアフタヌーンティーに誘ってくれたんです」
ラリーは、優しく、その思い出を話し始めた。
ラリーは、カフェ・ツインナナのお客の一人だ。
英国紳士の雰囲気がある落ち着いた中年男性で、背がスラッとしている。
ラリーは、都市から少し離れた、交通の便の良い場所にある高級紳士服店のマネージャーだ。
着ている服のセンスもいい。
この日も、ダーク色のカシミヤのセーターからエンジ色のスカーフを覗かせ、生地の良いズボンに、品のある靴を履いていた。
仕事中は、自分のズボンの膝を真っ直ぐに保つため、座ることはないそうだ。
その仕事の徹底振りから、店のオーナーの信用度は高かった。
むしろ、この店はラリーのおかげで成り立っていると言っても過言ではない。
店の縫製職人も、腕の立つ中年男性で、ラリーが他の有名店から引き抜いてきたと言う。
日差しの暖かい昼前、カフェのお客はラリーだけだった。
ラリーは、窓際近くのテーブルに奈々と向かい合って座っている。
ラリーが話していたのは、彼が15歳の時、近所の素敵な家に住んでいた24歳の元モデル嬢のことだった。
その、時がゆっくりと過ぎていくようなカフェで、ラリーはこの女性のことを思い出したのかもしれない。
当時、この美女は、アメリカ全土でも知られているファッション老舗店の若社長の恋人だった。
そして彼女は、時々ラリーを招待して、お気に入りの紅茶とお菓子をご馳走する。
もしかしたら、この少年には、すでに、元モデル嬢を魅了する、英国紳士のような雰囲気があったのかもしれない。
その素敵な家のテラスで飲む紅茶は、きっと美味しかったことだろう。
ラリーがカフェ・ツインナナで注文するのも紅茶だ。
とはいえ、ここで奈々が自慢できるのは、ジャスミンティーと南米のマテ茶だけだ。
ジャスミンティーは、選りすぐりのものを特別注文をしている。
もちろん、他の紅茶もあるけれど、ティーバッグでしかない。
アメリカ人にとって、紅茶は、ティーバッグの方が親しみがあるらしい。
それにこの店はカフェだから、コーヒーが売り物だ。
コーヒー豆には、かなりのこだわりを持って仕入れ業者を選んでいる。
さらに、産地の自然環境を考慮に入れたもので、その上にオルガニックの念の入れようだ。
オルガニックにするかどうかは、かなり迷った。
客が、オルガニックの風味を理解できるかどうか疑問だったからだ。
普通のものの方が、味に馴染みがある。
もちろん、普通の豆も準備すればいいのだけれど、それだと、別のグラインダーが必要になる。
しかも、ディカフェ用のグラインダーも別にしなければならない。
カフェを始めたばかりの奈々にとって、高価なグラインダーを並べて揃える余裕はなかった。
グラインダーの使い方も、その日の気温と湿気で味は微妙に違ってくると言う。
店のドアが開き、外の空気が入ってくるだけでも変化したりするらしい。
奈々も、グラインダーの調整はこまめにする。
奈々の知り合いの一人は、世界でも有名なエスプレッソ珈琲店で働いていたことがあると言っていた。
彼女が働いていた時は、まだその店は店舗も少なく、グラインダーを自分たちで調整していたそうだ。
そして、店舗と従業員が増えると、規格化が必要となり、グラインダーはオートマチックに変えられた。
彼女は、昔の頃が懐かしいと言う。
だから、本当にコーヒーを好きな人は、流行にこだわることなく、自分の好みのカフェを見つけ出す。
とは言え、チェーン店が悪いというのではない。
それはそれ、味と値段に見合い、はずれのない味を注文できるという安心感がある。
それでもコーヒーの味は複雑で、いくら規格化しても、やはり違った味になる。
奈々は、同じチェーン店でも、どこがどんな味を出すのかも知っている。
店の雰囲気も違うだろうし、入れる人が違っても味が違う。
そう考えると、結構、楽しめる。
もちろん、出された味が気に入らなければ、にっこりと笑って作り直させる。
たまに、近くにそのチェーン店があるのに、遠くの店に行ったりもする。
「これは、ここで飲まなきゃね」というのもあったりするから面白い。
ところで、こんなにコーヒーにこだわりを持つ奈々だが、実は、コーヒーより紅茶の方が好きなのだ。
奈々は紅茶の店を出したい所だが、紅茶はティーバッグで、というアメリカ人相手に、紅茶の商売をするのは難しい。
もちろん、紅茶専門店もないわけではない。
とは言え、それはかなり厳しい道で、新参者の奈々に太刀打ち出来るものではなかった。
紅茶は、好きな人が満足できるほどには供えられているから、奈々は、それで良いのだと思うことにしている。
ラリーは、そんな話を奈々とするのも好きだったかもしれない。
さて、ラリーの話していた美女のことだけれど、それだけでは終わらなかった。
近所に住んでいる、同じ学校の男子生徒たちが、これを面白く思わなかったのだ。
彼らは、自分たちも誘ってもらいたいのだけれど、声がかかることはなく、ラリーに嫉妬していた。
もちろんこの美女だって、作法の分からないティーンエイジャーたちの相手をするほど交際に困っている訳ではない。
それで、残念なことに、嫉妬されたラリーは、苛められてしまったのだ。
その傷は、長い間、ラリーの悲しみとして残ることになる。
とは言え、ラリーにとって、彼女との思い出は素敵なものだった。
彼女が、そうしてくれたことを恨んではいない。
奈々は、その話を楽しそうにするラリーを見て、思わず笑みを浮かべる。
そうしてラリーは大人になり、美女も、しばらくしてその家を去って行った。
その後、ラリーにも恋人はいたけれど、結婚することなく独身紳士を貫いたそうだ。
彼は、このまま貫いていこうと思っていた。
奈々に会うまでは。
奈々がラリーに会ったのは、ラリーの店が、奈々の行くヘアサロンの隣にあったからだ。
このヘアサロンは、サロンと言うにふさわしく、ヨーロッパの雰囲気があり、店主も腕のいいヘアスタイリストだった。
彼女は、奈々の髪を扱いながら、ラリーのことをこう言った。
「ラリーはね、とても紳士的な人よ。
彼は、女性を淑女のように扱ってくれるの。
私には夫がいるからだめだけど、ラリーを、せめて執事として、私のそばに置きたいと思ってしまうわ。
ああ、本当に、わたしがお金持ちだったらいいのに」
その時すでに、奈々を見かけていたラリーは、この日本人の女性と知り合いたいと思っていた。
奈々の方はと言えば、その高級紳士服店に興味があった。
高級な物は買えないけれど、小物や、季節はずれのセールのものだったら買えるとその店を訪ねる。
そうして奈々は、ラリーと知り合ったのだ。
奈々は、ラリーとは、親子ほど年が離れている。
相手がそんなに年上でも、違和感なく話をする。
自分の知らないことを教えてもらうのも楽しいと思っている。
だから、ファッションの事を知っているラリーとの会話も弾んだ。
奈々は、少年ラリーの心を捉えたモデル美女のように美人ではないけれど、背は高くスタイルもいい。
そして、古着屋で珍しいものを見つけると、それを素敵に着こなし、カフェの雰囲気をいっそう引き立てる。
奈々の服のセンスは新しいのに、どことなく古風な感じもして魅力的だ。
よくお客から、「その服はどこで買ったの?」と聞かれる。
そして彼女は、笑って答える。
「古着屋よ」
奈々が身につけている物も、高価なものであったり、安く買ったもの、とバラエティーがある。
無駄なものにはお金は使わないし、必要なくなったらオークションで売る。
奈々は、物に執着しない。
潔く、素敵な服のセンスのある奈々だから、ラリーも、彼女のことを気に入ったのかもしれない。
そしてラリーは、そんな奈々にプレゼントをする。
ある時は、数百ドルするアンティーック物のカフスボタンをプレゼントした。
奈々は、流石に、それは受け取れないと断ったが、友情の印だと言ってラリーは引き下がらなかった。
ラリーは、奈々に魅せられてしまっている。
他の女性がラリーに近づいた時も、「自分には心に決めた人がいる」と言って断ったそうだ。
奈々は、いつもラリーに言う。
「自分は離婚したばかりで、今は、特定の人と付き合うつもりはない」と。
ラリーは、そんな奈々は、「誰かを必要としている」と言う。
もしかしたら、自分が苛められた時のことを思い出しているのかもしれない。
そんなところは奈々を困らせるのだが、人の思いというものは、他人が止められるものでもない。
しかも、カフェのお客として来るラリーを、無碍にするわけにもいかない。
こうしてラリーは、仕事が休みの日は、必ずカフェ・ツインナナにやってくる。
そして奈々は、優しく微笑むと、ラリーを、大切なお客の一人として迎える。