1話 アレックス
「アレックス、人を殺したことがあるの?」
アレックスは奈々を見た。
そして奈々は、「こんな質問をしてしまうなんて」と、すぐに後悔する。
アレックスは、聞き返す。
「な、なぜそんなことを聞くの?」
「それは・・・」
奈々はそう言いながら、どのように答えようかと模索する。
とは言え、自分に、相手を納得させる理由なんてあるはずはない。
率直に答えることにする。
「あなたが、ミリタリーのスナイパーだったって言ったから・・・」
奈々は、「御免なさい」という目をしながらアレックスを見て言った。
奈々は、今まで、スナイパーに会ったことはなかった。
もちろん、そんな人があちこちにいるはずもない。
それは、「そんな人が実際にいるなんて」という驚きから、思わず出てしまった質問だった。
奈々は、カフェ・ツインナナのオーナーだ。
そのカフェは、アメリカ北西海岸の小さな大学街にある。
日本からの留学生だった彼女は、アメリカ人と結婚し、4年後に離婚し、この小さなカフェをオープンした。
そして、彼らがこの会話をしている時、カフェには二人だけだった。
アレックスは奈々の質問に、イエスともノーとも答えない。
アレックスにとって、こんなに率直に質問されたのは初めてだった。
それに、答えられるような質問でもない。
もちろん、自分が先に言ってしまったことだ。
アレックスは、自分の過去をこんなに簡単に話してしまうなんて、と後悔していた。
スナイパーだったなんて言っても仕方のないことなのに、つい話してしまっていた。
とは言え、こんな質問が帰ってくるなんて予想だにしていなかった。
普通なら、例え自分が悪くても、「無神経な女だ」と思うだろう。
それなのに、奈々が言うと、当たり前の質問のように聞こえてくる。
奈々には、そんな不思議な魅力があった。
こんな質問が出来て、そのことさえ魅力的に思えてしまう女性なんて、彼女だけなのかもしれない。
アレックスは、30歳過ぎの離婚したばかりの男性で、背が高くて、ちょっとかっこいい。
改造したかっこいい大型バイクにも乗っている。
さて、奈々とアレックスの出会いはこうだった。
ある朝、奈々はカフェを開け、朝のピークを過ぎた後で、足りない食材を近くの業者用の店に仕入れに出かけた。
その店で声をかけてきたのがアレックスだった。
初め、奈々は、それに気付かないで、コーヒーのシロップをカートに入れていた。
そして奈々は、横で誰かが何かを言っている、くらいにしか思わなかったのだけれど、やっとそれが自分に向かってなのだと気付く。
"Are you talking to me?" (あなたは、私に話してるの?)
"Yes, I am!" (そうだよ、話かけてるんだよ!)
"What do you want to know?" (何を知りたいの?)
アレックスは、もう一度、質問を繰り返す。
ところが、早くカフェに戻りたい奈々は、彼の聞いている意味が分からない。
奈々は、英語が堪能な方だ。
日本語より英語の方が話しやすいと思っているようなところもある。
それなのに、この時、アレックスの言っている意味を理解するのに、少し時間がかかった。
離婚したばかりの彼女は、カフェ・ツインナナを始めたばかりで、恋人を持つつもりはない。
むしろ、結婚から開放された喜びがいっぱいで、独身を謳歌し、誰にも邪魔されない自由を満喫していた。
だから、ちょっとかっこいい男がナンパ目的で話しかけても、その気がないので集中できないのだ。
奈々は、様々な場所で声をかけられる。
話しやすい雰囲気が、男女を問わず、話好きのアメリカ人に好まれるらしい。
アメリカ人の友達も結構いる。
だから寂しくはない。
むしろ、面倒見の良い彼女は忙しいくらいだ。
ところで、その店を早く出たい奈々は、何とかアレックスの質問に答えようと、英語に集中する。
彼の身なりは良く、高そうなバイクスーツを着ている。
そして、貧しい子たちの世話をするボランティアをしていて、この日は、週末のピクニックのための買い物をしていると言う。
奈々はアレックスの質問に簡潔に答えると、さっさとレジの方へ向かった。
彼女にとって心配なのは、この男性ではなく、留守のカフェの方なのだ。
ところが、アレックスは話を止めようとしない。
しかも付いて来る。
奈々はカフェ・ナナのビジネスカードを渡して言った。
「このカフェにいるから、ここに来てね」
「明日、必ず行く」
アレックスは答えた。
後でアレックスが言うには、初めて奈々を見た時「彼女に話しかけろ」と心の声が聞こえたのだそうだ。
さて、アレックスがカフェ・ツインナナにやって来たのは二日後だった。
「昨日、来ようと思ってたんだ。
だけどバイクで事故に遭って・・・」
と、アレックスは、ジーンズの片足を捲って包帯をした脛を見せる。
彼は、約束を守れなかった言い訳を一生懸命にしているらしい。
奈々は、ちょっと笑ってしまった。
もちろん、事故に遭ったのは気の毒だったけれど、30歳を過ぎた、大の大人がすることとも思えない。
それに奈々にとって、アレックスが一日遅れて来たことは、そんなに大変なことでもなかった。
「明日来る」と言った人が、明日であろうが、明後日であろうが、それはお客様の事情なのだ。
その日に来なくても、別に悪いとは思わないし、自分に言い訳することでもないと思っている。
ところがアレックスにとって、それは一大事だった。
奈々に、約束を破る男と思われたくはない。
その時、カフェには他の客はいなかった。
まだ始めたばかりのカフェは、さほど忙しいと言う風ではない。
それでも、常連客は少しずつ増えつつあった。
カフェ・ツインナナは小さなお店だ。
アンティーックのもので飾られている。
カフェに入ると、急に、小さな別世界へ紛れ込んだような気がする。
飾られているアンティーックは、以前、奈々がアンティーックのネット・オークションをやっていたころから徐々に集めていたものだ。
少し女性寄りではあるけれど、奈々の雰囲気そのものだった。
それに、お客は、女性ばかりでもない。
結構、男性も来る。
カフェには、もう一人、手伝ってくれる友人がいた。
とは言うものの、その友人は少し手伝いをする程度のもので、カフェが起動に乗れば人を雇わなければならない。
それは奈々にとって、少し頭の痛いところだった。
彼女は、この小さなカフェで、誰にも邪魔されず、一人でゆっくりと、お客に接する時間を気に入っていた。
もちろん、それは贅沢だと思う。
これから、これで生活していかなければならないのだ。
とは言うものの、このカフェは、そんな現実を忘れさせる不思議の世界のようでもある。
カフェ・ツインナナは、レンガ作りの大学の校舎が並ぶ通り沿いにあった。
私立大学で、学生も品の良い子が多い。
だから、お客の質も良い。
カフェの前には、かえでの並木道が続いている。
夏は、かえでの大きな緑色の葉が生い茂り、太陽の光を受けて力強く青い空に伸びていく。
秋には、美しく紅葉する。
それはまるで美しい絵画のようで、カフェの大きな窓はそのキャンバスとなる。
冬は、葉を落としたかえでの枝の間から、大学の広い駐車場と、その向こうのレンガ作りの大学校舎が見える。
春になると、再び芽吹いた、柔らかい若草色の葉がそれを覆い隠していく。
その四季折々の光景を、このカフェで楽しめるのだ。
こうしてカフェの常連となったアレックスは、ビジネスマンで、元はミリタリーのスナイパーだったと言う。
明るく、羽振りのよさそうなこの男性の過去は、奈々には、到底、理解できるはずもない世界だった。
その過去が、彼を、貧しい子供たちを助けたいという気持ちにさせるのかもしれない。
奈々は、彼がスナイパーだったと知ったからこそ、その心の奥底にある何かを感じれたような気がする。
ニキは、アレックスが人を殺したのかどうか興味があったのではない。
その答えを求めていた訳でもない。
そして、アレックスは、それに答えなかった。
この、まるで時が止まったかのようなカフェからすると、アレックスがいた世界は、まるで別のものだったのだ。
それは、ある日の昼下がり、この二人の他には、誰もいない小さなカフェでの、ちょっとした会話だった。