「蚕室に手は出させぬ」と義母に種紙を渡された私は、手を出さぬ約束を守ります——ひと春で繭が上がらなくなりましたわね
紙の端が、指の腹を薄く切った。わたくしが押さえ直すより早く、宗一の手が種紙を引き抜く。十年分の墨が、指先をかすめて旦那様の袖へ移った。
「今日から蚕室の差配は母上に戻す」
祝言の翌朝、まだ祝いの香が柱に残っているうちのことである。昨日まで「この家の蚕は佐和がいれば安泰だ」と杯を掲げていた口は、朝になったら別の繭から出てきたらしい。ずいぶん羽化の早い旦那様ですこと。
「今年は桑が遅れております。せめて葉先が揃うまで——」
「家の者に指図は要らぬ」
宗一は種紙を須磨へ渡し、奉公人たちが見ている前で、わたくしの言葉ごと手を払った。反撃しない嫁を相手にするときだけ、旦那様の声はよく通る。あれだけ張りがあれば、桑畑の鳥避けにはたいそう役立つでしょう。
「手は出させぬ」
須磨が紙を受け取って、口元を袖で隠した。奉公人たちもつられて肩を揺らす。笑い声一つで繭一枚の値が上がるなら、今朝だけで蔵が建ちますのに。
「若いお嫁さんには休ませてあげなくてはねえ。わたくしが嫁いだ頃から、掃き立ての日は決まっておりますもの」
その髪に挿した新しい櫛なら、桑が二駄。袖口の刺繍でもう半駄。二駄半も頭と腕に載せている方が、畑の芽の長さを一度も見ないの、本当に不思議ですこと。
棚の端で、小さな口が桑を食んでいた。細かな雨粒を竹皮へ落とすような音が、ふっと細くなり、また戻る。わたくしは指についた紙の白い毛羽を、帯の内側へ押し込んだ。
日照りのあとに冷たい雨が続いた。桑は、いつもの春より三日遅い。
「聞こえませんか」
「何がだ」
「いいえ。旦那様には、まだ」
宗一は眉を上げ、戸口を顎で示した。わたくしが出ると、須磨がすぐ内側から戸を閉める。祝いの紅が残る爪で触れた戸板は、夜明けの井戸より冷えていた。
中ではまた笑い声がした。その下で蚕の食む音だけが、誰の許しも得ず、今年の春を数えていた。
* * *
十日後、須磨は例年と同じ朝に種紙を広げた。陽の当たる縁へ持ち出し、墨の日付を指でなぞって、「ほら、毎年こうですものねえ」と奉公人たちへ見せる。紙に書かれた日は読めても、今年の空までは読めないらしい。
桑籠は昼を待たずに底を見せた。運び込まれた葉は小さく、枝から摘むたびに青い汁が指へにじむ。足りないものを威勢で増やす術があるなら、ぜひ講へ売り出していただきたい。たぶん繭より高く売れますわ。
「西の畑からも刈らせなさい。足りないはずがないでしょう」
須磨が命じるたび、奉公人が空の籠を抱えて走った。櫛が二駄、帯留めが一駄、今朝割った茶碗で葉が三束。お義母様の差配は、装いをすべて桑へ替えればぎりぎり合格。残念ながら、蚕は珊瑚の帯留めを召し上がらない。
「葉が固くなります。今は下枝まで刈らず、三日——」
「またか」
宗一が皆の前でわたくしの声を切った。母親へ向けるときは「いかがでしょう」と柔らかくなる語尾が、わたくしへ来ると鉈になる。よく研がれておりますこと。桑の枝へ使えばよろしいのに。
「母上は長くこの家を見てきた。お前は決められたことに従えばよい」
「十年では、まだ短うございますか」
「年の話ではない」
では何の話でしょう。家格は蚕の腹へ入らず、夫の面目は籠を満たさず、姑の自信は葉にならない。ひどく場所を取るわりに、どれも一匁にもなりませんわね。
曲がった指で空の棚を撫でていた伊平さんが、葉屑を一枚つまんだ。宗一も須磨も見ていないところで、わたくしへだけ聞こえる声を落とす。
「三日早え」
「今年の桑は三日遅れですわ」
「だから三日早え」
「まあ。伊平さんまで正論を召し上がるのね。蚕の分がなくなりましてよ」
伊平さんは鼻を鳴らし、空籠を肩へ掛けた。それで会話は終わり。長い慰めなど、桑籠の隙間より役に立たないと知っている人だった。
夕刻、蚕の音が荒くなった。棚じゅうから催促され、須磨は「食欲のあるよい蚕だこと」と笑う。足りないから奪い合っている音を、元気とお取りになる。痩せた繭を軽やかな品と呼びそうで、先々が楽しみですこと。
わたくしは戸の外で手を組んだ。入れば補える。畑を変え、刻をずらし、夜の冷えを見て火を足せばよい。十年、そうしてきた手が勝手に動きかける。
けれど戸には、宗一の掛けた太い閂があった。中から須磨の笑い声がして、桑籠の底が竹床へ当たる乾いた音が続いた。
* * *
二十日後、講の秤へ載せられた繭は、籠の底が透けるほど薄かった。つねは一つを指でつまみ、光へかざし、秤の錘を二つ戻す。それだけで値は落ちた。商いの返事は、旦那様の長広舌よりずっと軽い。
「去年と同じ育て方です」
宗一は胸を張った。人前では、失敗まで立派に言い切る。その度胸だけなら大繭でございます。
「同じだからでしょう」
つねは帳面へ値を書き、次の籠へ手を伸ばした。宗一の口が半分開いたままになり、須磨が横から袖を引く。二人で作った失敗にも、袖一枚ぶんの共犯の余地は残しておきたいらしい。
「薄くても繭は繭ですものねえ」
帰りの荷車で、須磨はわたくしへ笑いかけた。奉公人たちも、宗一の顔をうかがって口元を緩める。
「誰が掃いても同じですものねえ」
なるほど。同じなら、値が落ちてもわたくしのせいにできますものね。うまい仕組みですこと。桑は足りず、繭は軽く、それでもお義母様の自尊心だけはよく太っている。糸に引けたなら、たいそう丈夫な帯になったでしょう。
次の掃き立ての夜、わたくしは手銭をほどいた。嫁入り前から残していた銀を数え、町へ下りる桑売りの荷を止める。銀二枚で桑が三駄。須磨の櫛より安く、宗一の面目より腹にたまる。世の中、まだ捨てたものではございません。
荷を婚家の裏手まで引いてきたところで、縄が肩へ食い込んだ。月のない道はぬかるみ、桑の匂いだけが青々と鼻を打つ。ここで転べば三駄の桑と嫁一人が泥まみれ。どちらを先に拾うか、旦那様へ聞いてみたいところですわ。
反対側の縄が、ふいに持ち上がった。
「伊平さん」
「重てえ」
「桑が?」
「おめえが」
「まあ。わたくし一人なら、せいぜい繭八貫ほどでしてよ」
「口がだ」
伊平さんはそれきり前を向いた。曲がった指が縄へ食い込み、わたくしの肩から重みが半分消える。ありがたいと言えば、きっと重いほうを返される。ですから黙って歩いた。
裏戸から桑を入れると、棚の音が一斉に近くなった。わたくしは蚕室へ上がらず、床口で束をほどき、奉公人へ渡す。須磨は奥から出てきたが、銀の出どころは尋ねなかった。
「これで足りますわねえ。やはり家の手配に間違いはありませんでした」
宗一がその横で頷いた。わたくしの泥だらけの袖も、伊平さんの切れた指も見ず、増えた桑だけを家の力へ数え入れる。たいした算術である。払った者を消せば、家の財はいつでも減りませんもの。
戸を出る前に、棚から食む音が戻った。細く、揃って、夜の底へ降る。
わたくしは空になった財布を帯へしまった。今夜の音を守ったのが誰か、あの方々は知らない。知らないままで、次の春にも同じ顔をなさるのでしょう。
* * *
三度目に口を挟んだのは、夜の冷えが早く降りた日だった。眠りに入った棚へ須磨が手を入れようとしたので、わたくしはその手首ではなく、火鉢の縁を押さえた。蚕を起こせば、次の食みが乱れる。
「今夜は触れてはなりません」
「また母上を咎めるのか」
宗一が廊下の端から来て、わたくしと須磨の間へ入った。須磨は何も言わず、宗一の背へ半歩隠れる。さきほどまで奉公人へ「嫁は細かすぎるのよねえ」と笑っていた口は、つねが買い付けへ来たときと同じように、都合よく閉じていた。
「咎めてはおりません。起こさぬでほしいと申しただけです」
「同じことだ。母上のやり方を否定するな」
「蚕が眠っております」
「お前はいつもそうやって、家のやり方に逆らう。桑が足りぬときも、繭の値が落ちたときも、黙って見ていた」
自分で戸を閉ざしておいて、なぜ外にいたと問う。旦那様の理屈は見事な輪である。どこから入っても、わたくしだけが悪いところへ戻ってくる。
宗一は柱の脇へ置かれた種紙を取り、わたくしの前へ落とした。十年分の日付が、灯の下で斜めに光る。墨の濃い年、雨でにじんだ年、夜明け前に書いて筆先が震えた年。どれも紙の上では、細い線にすぎない。
「今後、蚕室のことへ一切口を出すな。桑を買うことも、夜に見回ることも、伊平へ差配することもだ。家のことは家長が決める」
わたくしは種紙を拾った。角についた桑の青い染みを親指で伸ばし、柱の釘へ紐を掛ける。一度では掛からず、二度目で輪が釘を捉えた。
「承知いたしました。では、一切手を出さずにおります」
「分かればよい」
宗一は須磨を連れて蚕室へ入った。戸が閉まり、内側で火鉢を引く音がした。わたくしはまだ柱の前に立っていた。
櫛なら桑二駄。帯なら一駄。銀なら三駄。いつもなら勝手に始まる勘定が、どこにも出てこない。
種紙が、夜気にわずかに揺れた。十年、暑い朝も指の割れる夜も、わたくしはこの紙へ日を書いた。誰かに褒めてもらうためではない。ここにいてよいと、毎年同じ春に言ってもらうためだった。
「わたくしはこの一枚に、十年、わたくしの春を書いておりました」
返事はない。戸の向こうで、須磨が棚へ触れた。食む音が途切れ、ばらばらに戻る。
わたくしは部屋へ戻り、着物を二枚と財布を風呂敷へ包んだ。種紙は柱に残した。持って出れば、まだこの家の春を背負っていることになる。
伊平さんが裏口に立っていた。何も聞かず、風呂敷を見て、道の先へ目をやる。
「行くのか」
「約束いたしましたから」
「そうか」
その二文字だけを受け取り、わたくしは門を出た。背後で蚕室の戸が開き、宗一が誰かを呼ぶ声がしたが、振り返らなかった。
* * *
一月後、伊平さんが講の座敷へ来た。わたくしは端で桑枝を束ねており、つねは帳面から顔も上げない。伊平さんの足についた泥が三つ落ちる間に、婚家の春がひどく短い言葉で運び込まれた。
「音が揃わねえ。桑も切れた」
「そう」
「あの人が寝ずに聞いてたから、繭が上がってたんだ」
伊平さんはわたくしを見なかった。つねも見ない。見られたら、束ねた紐をきつくしすぎて桑枝を折ったかもしれない。
「前の桑は」
「あの人の銭だ」
つねの筆が止まった。墨が一点だけ帳面へ濃く落ちる。
「二十年前、わたしも同じ言葉を呑みました」
それ以上は話さず、つねは筆を置いた。二十年がどんな春だったか、わたくしには分からない。分からないままでよいと思った。古傷を品定めして値をつけるほど、わたくしの査定癖も無作法ではない。
つねは束ね終えた桑枝を一本抜き、芽の揃いを確かめた。
「佐和。自分の名で掃く気はあるかい」
「わたくしの、名で?」
「嫌なら別を当たる。商いは待たないよ」
差し出されたのは慰めではなく、仕事だった。だから手を伸ばせた。憐れみなら腹の足しにならないが、役目なら桑を買えますもの。
「ございます」
「なら、次の春の日を読みな」
「外しましたら?」
「買わない」
「まあ、たいへん分かりやすい」
「蚕も商いも、分かりやすいほうがいい」
つねは桑枝をわたくしへ返した。伊平さんが脇で、ほんの少し顎を引く。祝うでも励ますでもなく、それで決まりだった。
わたくしは芽を親指で測った。雨は足りている。夜の冷えも、今はまだ浅い。誰かの家格でも、昔からの日付でもなく、この芽と音を読んで決める。
次の春が、初めてわたくしの名を待っていた。
* * *
ひと春が終わる頃、つねは婚家の門前で買い付けの札を裏返した。わたくしは講の手伝いとして秤を持ち、伊平さんは空の籠を抱えて後ろに立つ。奉公人たちは、以前なら宗一の冗談へ笑った口を閉じ、戸口ばかり見ていた。
蚕室へ入ると、桑の匂いより冷えた藁の臭いが強かった。棚の半分は空き、残った繭は指で押せばへこみそうに薄い。待つべき三日を待たず、冷える夜にも火を足さず、眠りの棚まで触った跡が、乱れた藁に残っている。
柱には、十年分の種紙が掛かったままだった。新しい日だけが須磨の筆で書き足され、例年と同じ場所へ、例年と同じ墨で並んでいる。紙は間違っていない。ただ、紙しか見なかった者がいる。
宗一は空いた棚の前で足を止めた。
(蚕など、誰が掃いても同じことだ——)
括るように閉じた口が、食む音を待ってわずかに動いた。けれど何も返らない。あの棚に満ちていた細かな雨音は、わたくしと一緒に家を出ていた。
「桑の出来が悪かったのです。今年はどの家も難しかったと聞きます」
宗一はつねへ向き直り、腰を折った。わたくしへは一度も下げなかった頭が、買い付け札にはよく曲がる。人の背というものは、銭の匂いで柔らかくなるのですね。
「うちは古くから講を支えてきました。次は必ず立て直します。母も年を取り、手が回らぬところはありましたが、家の格まで落ちたわけではありません」
理由を足すたび、声が細くなった。須磨は宗一の後ろへ下がり、目を伏せている。佐和一人を相手にしていたときの、語尾を伸ばす笑いはどこへしまったのでしょう。櫛の箱かしら。桑二駄ぶんの、立派な箱へ。
つねは籠から繭を一つ取り、指の間で回した。それから買い付け用の袋の口を閉じ、秤の分銅を木箱へ戻す。奉公人の一人が受け取りを待って差し出していた荷札も、表へ返さず宗一の前へ置いた。
「あいにく、おたくの繭は引けませんので」
「つね殿、そこを何とか。値を下げていただいても構わない」
「糸にならないものへは、値をつけないよ」
つねは帳面の婚家の欄へ一本線を引いた。墨が乾くまで、誰も動かない。買われない繭だけが籠に残り、宗一の家格も、須磨の昔からの手順も、まとめて蔵へ戻されることになった。
「佐和」
須磨が、宗一の背から顔を出した。以前は「あなた」か「若い嫁」としか呼ばなかった口が、今さらわたくしの名を思い出す。
「佐和、帰っていらっしゃいな。家の者なのですから、少しくらい手を貸してくれても——」
つねが顔を向けると、須磨は口を閉じた。返事を宗一へ押しつけるように、その袖をつまむ。奉公人たちは一斉に戸口を見た。そこへ戻る佐和を探しているらしい。
あいにく、その女はもうおりません。おりますのは、買わない繭を一匁も軽くしてやる義理のない、講の佐和でございます。
「なぜ黙って見ていた」
宗一の声だけが、わたくしへ戻ると少し太くなった。
「旦那様のお言いつけでございました」
「それは、家の中での話だ。出ていけという意味ではない」
「では、どこから蚕室へ入ればよろしかったのでしょう。戸には閂がございましたわ」
宗一は種紙を見た。次にわたくしの手を見て、最後につねの帳面へ引かれた線を見る。惜しいのが紙なのか、手なのか、線の向こうへ消えた家の名なのか、その顔はどれとも決めかねていた。
十年分の手間は、なくしてから勘定へ載るらしい。まあ、ずいぶん利息の高い算術ですこと!
つねが踵を返し、伊平さんも空籠を持ち直した。わたくしは秤を抱えたまま、空いた棚の前を通り過ぎる。宗一も須磨も追っては来なかった。買われなかった繭だけが、音のない蚕室に残った。
* * *
翌年の春、講と本家筋から掃き立てを任された。種紙の白さが朝日にまぶしかった。新しい蚕室の柱へ紙を押し当て、わたくしは筆を取る。桑の芽は揃い、夜の冷えは昨日で抜けた。今日ですわ。古い暦ではなく、わたくしの指が選んだ今日。
まず「佐和」と書いた。その横へ、掃き立ての日を入れる。自分の名の墨が乾いていくのを待つあいだ、講の女衆が戸口から次々に声を投げた。
「佐和さん、籠はこちらでいいかい」
「佐和さん、火は落とすよ」
「佐和、汁が冷める」
「最後のご命令だけ、たいそう急ですわね!」
筆を置いて膳へ向かうと、湯気の立つ椀が一つ空けてあった。大根と豆の入った汁に、刻んだ葱が浮いている。十年、冷えた蚕室の隅で握り飯をかじり、白湯を春の御馳走だと思い込ませてきた舌には、湯気だけで五匁ほど得をした気分である。
向かいに座った伊平さんが、椀をすすった。
「遅え」
「日を外しては、つねさんが買ってくださらないのですもの」
「汁がだ」
「まあ。伊平さんの舌は蚕より待てませんのね」
女衆が笑い、つねは「食べたら働きな」と豆を一つ箸で追った。笑い声の下で、今度は誰もわたくしを値踏みしていない。されても構わない。腕と仕事の値なら、こちらもきっちり量り返せる。
「これですわ、春は温みが命ですのよ。人も蚕も、冷やして働かせるものではございません」
「口が温まりすぎだ」
「汁がよろしいからですわ」
椀を空にしたところで、門の外に人影が立った。宗一だった。去年より細い羽織を着て、供も連れず、閉じた門の前で帽子を握っている。
「話がある」
「こちらで伺いますわ」
「家へ戻ってくれ」
言い切ったあと、宗一は理由を重ねた。須磨の手が利かなくなったこと。奉公人が辞めたこと。講から外され、繭を売る先がないこと。種紙は今も柱に掛けてあること。最後にやっと、わたくしの名が出た。
「佐和、お前なら立て直せる。十年もいた家だ。今度はお前の意見も聞く。母にも言い聞かせる。だから——」
「旦那様」
宗一の視線が、わたくしの背後へ動いた。新しい柱の種紙。そこへ書かれた佐和の名。棚を整える女衆と、桑籠を運ぶ伊平さん。自分の家へ持ち帰れないものばかりを、順に数えている顔だった。
「ここは、わたくしが日を決め、わたくしの名で掃く蚕室でございます」
「分かっている。だから、その腕を家でも——」
「蚕室に手は出させぬ」
宗一の口が止まった。
返してみれば、たった九文字。十年の春を閉め出すには軽く、これからの春を守るには、ちょうどよい重さだった。
「佐和さん、音が変わったよ」
奥の棚から呼ばれた。細かな口が桑へ触れ、やわらかな雨のような音が満ち始めている。
「今、参りますわ」
宗一を門の外へ残し、わたくしは振り返った。湯気の名残を袖にまとった手を、新しい棚へ伸ばした。
ここまでお付き合いいただき、ありがとうございます。
作者ページには他の短編も並んでいます。よろしければどうぞ。




