婚約解消をした理由
エレオーラは平凡な女性だった。
平均的な身長、栗色の髪、栗色の瞳。
大人しいが暗さはなく、友人もそれなりにいた。
お茶会では彼女たちと流行の話題を楽しむ、ごく普通の十八才の女性だった。
家柄は子爵家で、領地は質のいい綿が特産の穏やかな土地だった。
彼女の両親も親しみやすい人柄で、領民と共に綿花の収穫を楽しむ貴族としては珍しい存在だった。
困窮はしていないが分不相応に贅沢はせず、必要なものを家格に見合った質で揃える、それがエレオーラにとっては当たり前の日常だった。
そんな彼女には平凡とはかけ離れた婚約者のダリオンがいた。
婚約して数年経過していたが、待ち合わせには平気で遅刻する、お茶会の約束は守られない、エスコートも面倒がって放棄する、とても婚約者にしたいと思える相手ではなかった。
ダリオンは伯爵家の三男のため、一人娘のエレオーラと共に子爵家を継ぐ予定だった。
婿入り前からそんな態度の男でいいのか、とエレオーラの友人たちはダリオンに腹を立て、婚約を考え直せないかと何度もエレオーラに意見していた。
その度にエレオーラは首を傾げていた。
「ダリオン様に怒りはございません」
友人たちはのんびりした気質のエレオーラがダリオンに騙されているのではともどかしく思っていたが、当の本人が気にしていないのでそれ以上は言えずにいた。
家同士の柵があるのかもしれない、と考え、格上の家からの申し入れであればエレオーラに断る権利はなかったのかもしれない、と察したためだった。
友人としてはエレオーラに幸せになって欲しいが、内部事情が分からない以上はエレオーラの意見は反映されないのかもしれない、と予想をしていた。
エレオーラが蔑ろにされている様子を悔しく思いながらも半ば諦めていた。
結婚後はダリオンが心を入れ替えるように、と内心で祈るだけであった。
♦♦♦
厳しい寒さが薄れ、穏やかな天気が続く日が増えた頃だった。
エレオーラは気の置けない友人たちとのお茶会を楽しんでいた。
伯爵家のクレアと男爵家のリリアナは、それぞれ家格は違えどとても仲の良い関係だった。
お茶会が始まって早々、まるで最近食べた美味しいスイーツの話をするような軽やかさで、エレオーラは友人たちに告げた。
「そう言えば、ダリオン様と婚約解消したのよ」
ラズベリーのスコーンを手に取ったエレオーラは何の悲壮感もない様子だった。
「それは、急なことね?」
カップを落としそうになったリリアナは平静を装ってソーサーにカップを戻したが、その指先は忙しなく動いていた。
「やっとなの?遂にローラも我慢できなくなったのかしら?」
リリアナよりも落ち着いた雰囲気のクレアはダリオンを毛嫌いしていたためその声は少し明るさがあった。
エレオーラの様子に悲しみがなかったことも要因だろう。
「我慢?特に我慢はしていなかったわよ?」
クレアの問いにエレオーラは不思議そうに答えた。
「観劇に行く時に待ち合わせに半日遅れてきたり、ローラの誕生日のお茶会は無断で欠席してたわよね。パーティーのエスコートは全然してなかったし、我慢の限界だから解消したのではないの?」
ダリオンの行動を並べ立てて眉を顰めるクレアにエレオーラは軽やかに笑った。
「そんなことくらいで解消なんてしないわ。そんな人だって知っていたもの。ああ、そう言えば支払いのお金が足りないからと私の絹のリボンをどこかに売りに行ったこともあったわ。でもそれも原因じゃないのよ」
「何よそれ、最低じゃない。リボンは新しいものも戻ってこなかったの?」
額に青筋を立てたクレアはそれでも冷静を装って続きを促した。
「あのリボンはダリオン様からの贈り物だったから別に気にしてないのよ。きっと御両親に言われて予算内で選んだのでしょうね。町で換金し易い絹のリボンを選んだのだから最初からそのつもりだったのかもしれないわね。ありきたりのローズピンクだったわ。私よりもリリアナのハニーブロンドに似合いそうな、ね」
アクセサリーでは換金するにも手間がかかると思ったのか、ダリオンからの初めての贈り物だったリボンがエレオーラの髪を彩った時間は短かった。
珍しく町に誘われ、リボンをつけてくるようにと言われた理由は恐らくエレオーラに言った通りだろうと思われた。
初めての贈り物に淡い期待を抱いたが、あっという間にその期待は打ち砕かれたのだった。
「それならどうして?もっと早くてもいいくらいだと私は思っていたけれど……」
「ダリオン様ったら、男爵令嬢と恋に落ちたそうなのよ。だから婚約は解消いたしましょう、とお伝えしたの。私の父から向こうにももうお話は通っているわ。真実の愛って素晴らしいわね」
頬に掌を添えてうっとりと溜息を吐くエレオーラにクレアは目を丸くした。
「何よそれ、まるっきりローラが当て馬みたいじゃない。そんな勝手が通ってしまうの?」
「勝手かしら?私としては嬉しい限りだったわ。待ち合わせに遅れることも、エスコートをされないこともどうでもいいの。婿入りしても重要なお仕事は任せられない程度のことよ。領地で綿花の数でも数えてくれればいいと思っていたの。でもね、立派な後継ぎがいる男爵家の令嬢と恋に落ちたのよ。いい御覚悟でしょ?婚約解消するしかないわよね」
リリアナは人差し指で親指を押さえ込みながら口元に笑みを浮かべた。
「エレオーラはその恋を応援する気でいるの?」
エレオーラはリリアナの問いに弾けるように笑った。
「応援なんてする訳ないじゃない! 常識あるご令嬢なら婚約者のいる男性に近寄らないわ。それも知人の婚約者と知っていながら」
クレアはエレオーラの台詞を反芻していたが頭を振った。
「ごめんなさいローラ、彼が恋に落ちたから婚約解消したのよね?応援しないなら何故解消したのか分からないわ。しかも知人の婚約者って、相手は私達の知っている方なの?」
エレオーラは少し考えてから申し訳なさそうに眉を下げた。
「ごめんなさいね、はしゃぎすぎたわ。ダリオン様が銀の牡鹿亭に通っていた頃は、まぁ、そんなこともあるかしら、って思えたの。質のいい女性達がお揃いですもの、夢中になるのも仕方ないかしら、って。婚姻後でもダリオン様に割り当てる予算内でお好きになさればいいと思っていたわ。義務さえ果たしていただければね」
紅茶を一口飲んだエレオーラは顔色を悪くしたリリアナを見ることもなく言葉を重ねた。
「けれど、まさか未婚の男爵令嬢と恋に落ちるなんて。お相手の方はもうお子様を授かっているのですって。そうよね?リリアナ」
リリアナの肩が大きく震えた。
クレアはリリアナを見詰め、呆然としていた。
「……嘘でしょ?」
顔色を失くしたリリアナにクレアの表情には徐々に嫌悪感が広がっていった。
伯爵家のダリオンの誘いを断り切れず、望まない形で始まった関係ではない、とエレオーラの言い方でクレアは気付いていた。
「……あ、私、だって……」
震える声で何かを言おうとするリリアナにエレオーラは笑いかけた。
「ああ、いいのよ。貴女から誘ったことは分かっているの。まさか私がダリオン様と婚約解消しないと思っていたのかしら?まぁ、確かにクレアにはさっさと婚約解消すればいいと言われていたのにしなかったからそう思っても仕方ないかしら」
リリアナは、初めてエレオーラの瞳が冷えたままだと気が付いた。
「どちらが先に誘ったのか、それは問題ではなかったわ。ただ、彼がこの程度の相手で満足できることに失望したのよ」
「っこの程度って……」
リリアナの顔には羞恥と怒りが見えていたがエレオーラは笑みを崩さなかった。
「私は貴女を友人だと思っていたけれど、貴女は違ったのかしら?どちらにせよ、友人の婚約者を寝取るような身持ちの悪い方で満足できる男なんて冗談じゃない、と言っているのよ」
大きな溜息を吐いたエレオーラは立ち上がった。
「今後の交流は遠慮するわ。貴女の家にも正式に報告しているからそのつもりで。継ぐ爵位のない男性と家庭を築く覚悟があるなんて素晴らしいわね。私にはとても真似できないわ。―お似合いですこと」
リリアナが言葉を発する前にエレオーラは背を向けて歩き出した。
「―私も、金輪際貴女との交流はいたしません。爵位がないのでしたら、もうお会いすることもないでしょうけれど。……恥を知らない人だったのね」
クレアも立ち上がり、エレオーラの背を追うように歩き出した。
座ったままのリリアナだけが青白い顔で残されていた。
♦♦♦
「ローラ!」
「クレア、貴女なら追いかけてくると思っていたわ」
エレオーラに追いついたクレアは少し息を切らせていた。
エレオーラは先ほどとは違う笑みでクレアの隣に並んだ。
「信じられないわ、リリアナが……」
「もう、いいのよ。次は少しでも誠実な方に出会えるように祈るだけだわ」
肩をすくめたエレオーラの表情には後悔はなかった。
「ローラ、貴女本当に大丈夫なのね?」
クレアの声には、エレオーラの元婚約者と元友人に対する怒り、エレオーラへの心配が滲んでいた。
エレオーラは歩みを緩め、息を大きく吸い込んだ。
暖かくなってきた季節の中、日陰には冬の名残がある冷たい空気が漂っているように感じられた。
「それがね、驚くくらい何とも思っていないの。私……ダリオン様に期待するのを止めてしまっていたのね」
「最初は違ったの?」
「そうね。最初はお互い尊重できればと思っていたわ。折角のご縁ですもの。……でもね、待ち合わせをする度に五時間以上待ったわ。誰か人を寄越すこともなかった。半日待った時ですらね。お茶会は当日、開始時間後に不参加の連絡があったの。最近では連絡がないことの方が多かったかしら。エスコートは、知っての通りカードの一通もこなかった。期待はしていなかったけれど、疲弊はするの。解消を決めたのは、リリアナとのお茶代を私に贈ったリボンで賄ったことかしら」
クレアは眉を寄せた。
「本当にどうしようもないわね、あいつ。待ち合わせの時点で抗議できなかったの?何も言わずに許していたなんて優しすぎるわ」
「リリアナがね、お茶代はダリオン様が私のリボンを売って工面したのだと知っていたの。笑っていたのですって。ねぇ、あの子私のリボン程度のお茶代しか使って貰えないのに満足する子だったのかしら。そんな子を選んだ見る目のなさが私には許せなかったの」
エレオーラはふっと笑った。
その笑みは、先ほどリリアナに向けた冷たいものではなく、信頼する友人に向ける柔らかい笑みだった。
「優しいのとは違うわ。私、家のために役目を果たすのが当然だと思っていたの。でもね、自分を安売りする必要はないって思ってしまった。私、嫌な女だわ。リリアナのことを嫌いになってしまったのだもの」
「……ローラ」
クレアは立ち止まり、エレオーラの手をぎゅっと握った。
「違うわ。あの二人は、それだけのことをしたのよ。ローラを大事にしない人を大事にする必要はないわ」
エレオーラはその手を強く握り返し、微笑んだ。
「ありがとう、クレア。貴女がいてくれてよかった」
二人は手を繋いだまましばらく無言で歩いた。
やがて、クレアが思い出したように口を開いた。
「そういえば……ダリオンとリリアナ、あの二人はこれからどうするのかしらね」
エレオーラは肩をすくめた。
「どうかしら。男爵家は後継ぎがしっかりしているから、婿入りの必要ないわね。ダリオン様は伯爵家の三男だから爵位は継げない。真実の愛で乗り越えるのではなくて?でも、婚約解消はしない、って泣き叫んでいたのですって。きっと感動して錯乱したのね」
「そうね。お幸せに、と餞別代りに言えばよかったわ」
クレアの言葉にエレオーラはころころ笑う。
「待ち合わせに遅れる度に、貴族の男は忙しい、と言っていたの。その苦悩から解き放たれたのだから最後に花束でも贈ろうかしら。きっと売られる前に枯れてしまうでしょうけれど」
柔らかな日差しに目を細めたエレオーラは心からの笑みを浮かべていた。
終
綿花の花束だったら紡いで売れると思ってしまいました。
エレオーラがされたことはほぼ実体験です。
繁華街に夜中取り残されたこともあったような。山中じゃなくてよかったです。




