第30話:夜明けを待つ人
フィリアの診療所は、夜も静かだった。
息が、まだ上がっていた。ヴェリウスさんの屋敷を出たときは歩いていた。でも、気づけば早足になっていた。最後には、走っていた。
夜の道は、暗かった。足元が見えない場所もあった。転びそうになった。そのたびに、二人の顔が浮かんだ。
それでも、走らずにはいられなかった。
胸が苦しい。足が重い。
それでも、止まるという選択肢はなかった。
森を抜け、いくつもの町を過ぎた。ただこの場所だけを目指して進んできた。
空はまだ暗かった。薄い月だけが、道を照らしていた。
診療所に着くと、担当の医師と短い話をした。
二人の様子は相変わらずのようだった。
「我々にできることは、彼らの回復を祈ることだけです」
そう言って、先生は部屋を出ていった。
残されたのは、私と、眠る二人だけ。
同じ病室にしてもらっていた。二つのベッドが並んでいる。
ナギちゃんの銀髪が、枕の上に静かに広がっていた。黒田さんは包帯の巻かれた両手を胸の上に置いたまま、穏やかな顔をしている。
ただ眠っているだけなのに、二人はどこか遠い場所にいるようだった。
(⋯⋯始めよう)
私はヴェリウスさんから教わった方法を、頭の中で丁寧に辿り直した。
まず、ナギちゃんの前に立つ。
思い出す。
『中村の器には魔力が足りない。枯渇しかけている。外から補填してやる必要がある。お前の魔力を、そいつに捧げるんだ。その量も、負荷も、実際にやってみないと分からない』
やり方は教わった通りだ。
『覚悟はあるか?』
あの言葉が蘇る。
言葉を振り払い、意識を自分の内側へ向けた。
奥底にあるもの。自分の中にある魔力のイメージ。その感触を確かめる。地中深い泉から、水を汲み上げるように。
そして、ナギちゃんへ向けて、両手を差し出した。
青い光の玉が、彼の胸元へゆっくりと沈んでいく。砂漠に水が染み込むように、どこまでも深く、沈んで消えた。
その瞬間、私の視界がぐらりと揺れた。
私は診療所の壁に思わず手をついた。息が上がっている。何かが欠落した。
きっと、上手くやれたはずだ。言われたことはできたはず。
でも、ナギちゃんの様子に変化はない。
(これで本当にいいの⋯⋯?)
もう、信じるしかない。
深く息を吸った。
今度は黒田さんの前に立つ。
ヴェリウスさんの声が、頭の中で蘇った。
『黒田に溜まった負債を取り除く魔法だ。この魔法に関しては何が起こるかは分からない。私もやったことがない。おそらく精神をすり減らすもの、何らかの代償を伴うものだろう、としか言えない』
言葉が反芻する。
『覚悟はあるか?』
(構わない。私には関係ない)
私は黒田さんの両手をそっと見た。包帯の上から、触れるか触れないかの距離で、手を添えた。
手に触れて念じる。
これが、教わった唯一の方法だった。
(ごめんなさい、痛くないようにするから⋯⋯)
私たちのためなら、犠牲を厭わない。
そんな人の手。
『覚悟はあるか?』
(私を誰だと思ってる⋯⋯)
『覚悟はあるか?』
誰に言うでもなく、声が出ていた。
「私は、あなたたちを、誰よりも『推してる』んだよ」
教わった方法で念じる。
世界が、傾いた。
白に包まれた――
目を見開く。
(ここは⋯⋯?)
視界が黒い靄に包まれる。
崖道を、誰かが駆け上がってくる。
黒髪のショートカット。紺色のスクラブ。杖を握った女。
『ありがとう! 二人とも!』
(あれは……私?)
黒田さんの目から見た、私だ。
『内部の熱は限界に来ているはず! ナギちゃん、黒田さん、行きましょう!』
『ああ!』
これは、あの日の記憶。
直後、凍結魔法。
レーザーの一撃が、竜に向けられる。
鱗が、砕け散った。
それを見て、地を蹴る。跳躍する。
竜の体に飛び乗る。
頸部を狙って、拳を振り抜く。
衝撃。
右拳の骨が粉砕されたかのような激痛が、脳を焼く。
けれど、止まる気はなかった。
もう一度、振り抜く。何度も、何度も。
叩き込むたびに、熱が拳を灼いていく。
腹の底から、声が出ていた。
痛みで悲鳴を上げているのか。
それとも、己を鼓舞する叫びなのか。
もはや、区別がつかなかった。
竜の頸部に、最後の一撃を叩き込む。
そして、のめり込む巨頭を強引に踏みつけるようにして、後方へ跳んだ。
『今だ、リーダー!』
後方へ跳んだ瞬間、視界の端に杖を構える女の姿があった。
小さく、呟いた。
『後は、頼んだ⋯⋯』
その瞬間、光が竜の喉を突き刺した。それを見届けると、意識が遠ざかっていく。
落下の感覚。
意識が、飛ぶ――
今度は、地面の上で仰向けになっていた。
厚い雲に向かって、右手を伸ばす。
全身が鈍く痛んだ。呼吸がうまく整わない。
目の前に、自分の手があった。
ボロボロの掌。
指の関節が、ひどく腫れていた。血が滲んでいた。
その手を、しばらく見つめていた。
『なんだか誇らしいんだ』
その声を聞いた瞬間、白い光が視界を埋め尽くした。
とても、静かだった。
ゆっくりと、目が開いた。
窓の外。街の空が、白み始めていた。
二つの顔が、そこにあった。
どちらも、笑っていた。
「姐さん、おはよう」
「……良かった、河瀬さん」
返事をしようとした。
話したいことが、沢山あったんだ。
でも、うまくいかなかった。
代わりに、何かが溢れた。




