第26話:おもしれー男
ハンマーを構えた大男の背中は、山のようだった。
スキンヘッドに、褐色の肌。半袖から覗く腕は、私の胴体より太いんじゃないかというほどで、両手でしっかりと握りしめた大槌は、それだけで人ひとりを軽く潰せそうな威圧感を放っている。
そして、その正面。
森の木々の影から、複数の唸り声。
熊だ。しかも一頭じゃない。
「……ねえ。手を貸さなくていいの?」
私は思わず声をかけた。
大男は振り返りもしない。分厚い首の筋肉が、ぴくりと動いた。
「大丈夫だ。あんたは下がってな」
短い言葉。でも、その声に迷いはなかった。
私はじわりと後退しながら、心の中でそっと呟く。
(……大丈夫かな、あれ)
熊、何頭いると思ってるんだろう。
話は少し遡る。
だいたい10分前のことだ。
◆◇◆
森の中を1人で歩くのは、想像以上に心細い。
木漏れ日が差し込む道は、確かに美しい。翡翠色の苔が岩を覆い、遠くで鳥のさえずりが響いている。絵本の挿絵みたいな風景だ。だが、いざ自分の足音だけが地面を叩いていると、その静けさはむしろ不気味に感じられた。
私は杖を抱えながら、ぼんやりと考える。
(黒田さんとナギちゃんがいたら、今頃こういう道も全然違って見えるんだろうけどな)
そんな感傷に浸っていたところで、前方から重い音が響いた。
ドン、という地響き。
思わず足を止めて、木の幹に身を寄せる。
そろりと顔を覗かせると、開けた場所に出た。小さな空き地のような場所。
そこに、いた。
スキンヘッドの大男。そして、1頭の熊。
熊は全長2メートルを超えているだろうか。牙を剥き出しにして、大男に向かって前脚を振りかざした。
大男は、笑った。
笑いながら、大槌を真横に薙いだ。
ドンッ。鈍い衝突音。
熊の巨体が、まるで木の葉のように横に吹っ飛んだ。地面を転がり、立ち上がり、それから雄叫びを上げて森の奥へ消えていく。
「……すごい」
思わず声が出た。
大男はゆっくりとこちらを振り返る。鋭い目が私を捉えた。一瞬の沈黙。それから眉をひそめた。
「あんたは、1人か」
「うん」
「女性は危ない。すぐに引き返せ」
「引き返せないんだよね、私、用事があって――」
「危ないと言ってる」
有無を言わせない声だった。圧がある。物理的に押されてる気さえした。
それでも。
「行かないといけないんだ」
私も、退けない理由がある。
大男はじっと私を見た。何かを測るような目つきだった。
「……ふん」
何も言わずに前を向く。会話終了、ということらしい。
(なにさ⋯⋯)
なんとなく悔しい。
でも確かに、彼と同じ方向に進むなら、あとをついていくのが一番安全かもしれない。
(まあ、少し楽できるし、いっか)
私はこっそりと、少し距離を置いてついていくことにした。
森の奥に進むにつれて、樹々の密度が上がっていく。日光が遮られ、空気が冷たく湿り気を帯びてきた。足元には落ち葉が重なり、踏み締めるたびにじっとりとした感触が伝わってくる。
先を歩く大男のペースは変わらない。
そのとき、先ほどの熊の雄叫びが、森に反響した。
一度。二度。
それに呼応するように、あちこちから重い足音が近づいてくる。
(まずい、雄叫びで仲間を呼び寄せた?)
大男の正面から、影が現れる。
一頭。二頭。三頭。四頭。
四体の熊が、じりじりと包囲するように大男を取り囲んでいた。
「かかってきな」
大男は、低く笑った。
あれは圧巻だった。
四体同時に突進してきた熊を、大男は一歩も引かなかった。
まず右から来た一頭に、大槌を横薙ぎ。ぼ、とも音がして熊の巨体が吹っ飛ぶ。左から来た一頭には、その大槌の反動を利用してくるりと体を回転させ、振り下ろす。骨に響くような鈍音。
残る二頭のうち一頭が爪を振るう。大男は身を沈めてそれを躱し、腰から巻き起こすような一撃で脇腹を打つ。
最後の一頭が背後から飛びかかろうとした瞬間、大男は振り返りもせずに後ろ手に槌を突き出した。
激突。
倒れた。
全員。
「……本当に強いんだね」
物陰から覗きながら、私は素直に感嘆した。
大男は少しだけ息を切らしながら、肩で風を切る。
「まあな」
謙遜しない。やるじゃん、この男。
しかし、そのときだった。
森の奥から、気配があった。
これまでとは、違う気配だ。
木々の間から、影が現れる。ゆっくりと。
どしん、どしんと、地面が揺れるような足音で。
現れたのは熊だった。でも、さっきまでの熊とは明らかにサイズが違った。肩の高さが、大男の頭を超えている。毛並みは濃い茶色。そして、額に白い雷光のような模様が走っていた。
(これ、ボス熊……!)
目が合った気がした。
目の奥は、どこまでも黒かった。
そばに倒れる熊に目もやることなく、ただ一点を見つめて近付いてくる。倒れ伏した熊など、最初から存在しないかのように。
「おもしれえな」
大男がぼそりと言う。口元に笑みが浮かんでいた。
「やってやるよ」
それからが大変だった。
大男は大槌を真上に振りかざして突進した。全力の一撃だったと思う。地面が割れるんじゃないかと思うほどの踏み込み。槌が風を斬る音。
熊は、躱した。
信じられないことに、あの巨体で、すっと横に体をずらした。
振りかぶった槌が、空を切る。
その一瞬の隙。
熊は頭を低くして突進した。肩からの体当たりが、大男の胴体に直撃する。
ズドン。
大男は吹っ飛んだ。私のいる茂みのすぐ横の太い木にぶつかり、どさりと地面に落ちる。
「大丈夫!?」
思わず駆け寄る。
大男はゆっくりと上体を起こした。口の端から、少し血が滲んでいる。それでも目は、熊を捉えたまま離れていなかった。
「早えな、こいつは」
言い訳でも、泣き言でもない。純粋な賞賛だった。
「あんたは逃げろ」
「でも――」
「俺は、強い相手とやりてえんだよ」
立ち上がる。ゆっくりと、でも確実に。
大槌を握り直す手は、震えていない。
一瞬、いつかの黒田さんの姿と重なった。
でもすぐに気づく。彼との違いに。
(誰かのためではなく、自分のために。彼はただ純粋な強さを追い求めているんだ)
「誰にも邪魔させねえ」
その背中に、迷いはなかった。
(つまり、手を出すなってことだよね……。うーん、本当にそれで良いの?)
私は思わず杖を構えかけた手を止めて、そっと背中に掛け直した。
大男は再び熊と向き合った。
二度目の突進。今度は大男も学習していた。熊の躱し方を読もうとしている。足の踏み込み、肩の向き。少しずつ熊の動きを測りながら、槌を振る。
熊の前脚と槌が正面からぶつかった。
ガキン、という衝撃音。
大槌がはじき飛ばされた。遠く、茂みの中に落ちる。
大男は、両膝をついた。
静かに、ゆっくりと。まるで最初から決めていたように。
「……俺の負けだ」
吐き捨てるようでも、祈るようでもなかった。
ただ、事実を述べた声だった。
熊の影が覆いかぶさる。
そのとき、彼は笑った。
強い敵と全力でやり合い、負けて死ぬ。それが自分の価値だと、本気で信じている笑みだった。
下を向き、頭を垂れる。
熊を見上げもしない。
「あんたは逃げるんだな、あばよ」
覚悟を決めた人間の声だった。
男はゆっくりと目を閉じた。
熊が前脚を振りかざす。
その瞬間。
「はぁ⋯⋯」
私はため息をつき、杖を握る。
「――行け」
閃光。
熊の胴体を正確に焼いた。一瞬、熊は静止した。それからゆっくりと、右に、倒れた。
地響き。
砂埃。
静寂。
「あんた、いったい……」
大男が顔を上げる。信じられないものを見るような目が、私を捉えた。
杖の先端の輝きは、迷うように赤と緑を行き来していた。
「昔読んだ本の、うろ覚えなんだけどさ⋯⋯」
私は杖を肩に担いだ。
「理想のために死ぬより、理想のために生き続ける方が、よっぽど難しいって」
一拍おいて、続ける。
「だからさ、あなたも泥臭く生きてみたら?」
大男はしばらく、ぴくりとも動かなかった。
膝をついたまま。地面を見つめたまま。
風が吹いた。木の葉がさらさらと揺れる。
そして。
「……姉貴」
ぼそりと、言った。
(姉貴⋯⋯?)
私は自分の耳を疑った。
「姉貴、いや……」
大男がゆっくりと顔を上げる。その目は、真剣だった。ものすごく真剣だった。
「姐さんと呼ばせてください!」
「あなたの姐さんは、嫌です!!」
「そんなぁ……」
大柄な男性が、肩をすくめていた。
◆◇◆
大男は『ドロワ・マルテル』と名乗った。
年齢は、18歳。
「嘘だ!!」
思わず声に出てしまった。
「え?」
ドロワが、目をぱちくりさせる。
(え、いや、待って。どんな修羅場くぐったら、そんな貫禄が出るの⋯⋯?)
顔はまあ、若い。よく見れば確かに若い。肌も綺麗。
でも全体の風格が、完全にベテラン戦士のそれに達している。
(……でも、人のことは言えたもんじゃないか)
「なんでもない。気にしないで」
途中の町まで一緒に歩くことになった。
夕方の森は、橙色の光が木々の間に溶けて、さっきまでの緊張感が嘘みたいに穏やかだった。
「ところで姐さんは、なんであんなに強いんですか?」
「いや、まあ、たまたまかな?」
「たまたまで、あの熊は倒せないですよ」
真顔で言われると、反論しにくい。
「はは……それに私、仲間がいるんだよね。彼らのおかげで強くなれたんだ」
「仲間……」
ドロワの声が、少しだけ静かになった。
「あなたは、いつも1人で行動してるの?」
「ええ。俺が強ければ、それで問題ないので」
「でもさ、仲間がいれば、違う結果になったかもよ」
「違う結果⋯⋯」
「あの熊に負けなかった」
「なるほど。それはつまり⋯⋯これから姐さんと一緒に旅を――」
「それは違う」
即答した。
そして静寂が、辺りを支配した。
近くの町が見えてきたところで、道が分かれた。私は町の入り口で立ち止まる。
「じゃあ、ここで」
「姐さん、必ずまたどこかで」
「はは。姐さんはやめてー。またねー」
手を振って別れを告げる。
ドロワは眩しそうにこちらを見ると、恥ずかしそうに不器用に片手を上げた。
それから、別の道へ歩いていく。
その背中を、しばらく見送った。
(おもしれー男だったな⋯⋯)
いや、うーん。
どっちかというと、めんどくさい男かな。
でもとにかく――愚直で、強い男だった。
正直、嫌いじゃない。
ただ、あれは⋯⋯嫌な姐さんだったね⋯⋯。
町の入り口から、沈みゆく夕陽を眺める。空の端が燃えるように赤く、雲が金色に縁取られていた。
さて。
目指す場所は、まだ遠い。




