第25話:敗北の女神
診療所の扉を押し開けると、独特な匂いが鼻についた。
元々この場所には、先の激闘で負傷した黒田さんが入院している。そこへ、激しい精神疲労と頭痛を訴えたナギちゃんが加わった。
「……ナギちゃん、大丈夫?」
私はベッドの横で、ナギちゃんの青白い顔を覗き込みながら、冷たいタオルを額に乗せる。隣では、包帯姿の黒田さんも心配そうに上体を起こしていた。
私は医師を呼び、費用の確認をする。
「処置代と入院費。それに回復薬を使いまして、金貨2枚と銀貨50枚ですね」
提示された額に、私は思わず心の中で唸った。
(……ちょっと高くない? こんなもの? 保険なしで海外の救急外来に飛び込んだ時って、きっとこんな気分なのかな)
目の前の費用よりも、今は2人の回復が最優先だ。迷ってる暇はない。私は懐から金貨を取り出した。
「……金貨3枚、置いていくわ。これから先しばらくお世話になるから、余分な分は前払いだと思って」
「おいおい、河瀬さん! 俺はすぐにここを出るつもりだぞ」
「良いの良いの。無理せずしっかり休んで」
「だが……」
「それに、2人に話しておきたいことがあるんだ」
「……行くのか、1人で……」
黒田さんはすでに察していたようだった。
「ええ。あの魔導師のところへね。返さなきゃいけないものがあるから。それに聞かなきゃいけないこともできたし」
「そうか、わかった。必ず無事で帰ってきてくれ」
「姐さん、お気をつけて」
2人はただ、私の瞳に宿る覚悟を見て、静かに頷いてくれた。
そして私は、借りた金貨の返済に加えて、とある相談を2人にした。それも金貨にまつわる相談だったが、すぐに快諾してくれた。
これで準備は整った。
私は立ち上がると、一度も振り返らずに診療所を後にした。
街の正門を出たところで、私は足を止めた。
馬車で街を出る定期便を探していた。これほどの街ならあると思ったからだ。
しかし、そのすべてが、今は中止されていた。
聞くところによると、街の周辺のモンスターが凶暴化しているそうだ。そのため、身の安全を守る目的で運行を取りやめているということだった。
仕方なく私は馬が借りられる厩舎へ向かい、辺りをきょろきょろと見回す。
そして、1頭の荒々しい毛並みの馬を指差した。
「1頭、貸してくれない?」
「お嬢さん、乗馬の経験はあるのかい? 見たところ不慣れな様子だが⋯⋯」
「……たぶん大丈夫!」
馬の手綱を握った瞬間、診療所に残してきた2人とのやり取りが蘇った。
異世界に来たら、きっと馬に乗れるはず。いや乗れない。たしか、そんな賭けだった。
――だが。
馬がヒヒンッと激しくいななき、前脚を高く上げる。必死にしがみつこうとしたが、荒れ狂う背中を制御する術を、私は持っていない。振り落とされる寸前で、私は情けなく地面へ飛び降りた。
(こんな時くらい、都合よく乗馬させてよー!)
どうやら私に異世界補正はなかったみたい。
「賭けは、私の負けか⋯⋯」
ぽつりと呟いた言葉が、風にさらわれる。
いつもなら、そばで笑ってくれる2人の存在がいない。その事実が、孤独であることを改めて私に突きつけた。
「すみません、馬は大丈夫です。やっぱり歩きます」
私は泥を払い、たった1人で街道を歩き出した。
そして森へ差し掛かる。そこはひどく静かだった。自分の足音だけが響いている。
そのとき、前方から唸り声と悲鳴が響いてきた。冒険者パーティーと思われる男女3人組が、巨大な熊に追い詰められている。
「嘘だろ! こいつ……前に戦った熊より、倍は強えぞ!」
「まずい! 剣が折れた! どうする?」
「魔法も効かない! どうなってるの?」
「逃げよう!」
「あっ!」
魔法使いの女性がつまずき、体勢を崩す。
熊は火の粉を浴びても微動だにしなかった。
(間に合え……!)
私は思わず走り出した。
孤独で冷たいはずの胸の奥が、熱を帯びる。
熊は火の粉を撒き散らしながら、前脚を振り上げて、女性に襲いかかろうとしていた。
上がる悲鳴。舞い散る火の粉。
杖の先端の宝石は、炎の光を浴びた瞬間、深い緑色から燃えるような深紅へと変わる。
杖の先端から閃光が走る。
「――射抜け」
閃光が熊の喉を正確に焼灼した。巨体が沈む。
私は荒い呼吸を整える。
間に合った。
(1人だと、こんなに心細いんだ⋯⋯)
「助かった、の……?」
女性が、信じられないものを見るような目で私を見上げる。私は彼らの目にどう映っただろうか。
「あの……ありがとうございます。あなたは、一体……?」
私は名乗れるような大した人間じゃない。
「私は――」
言いかけた言葉を飲み込む。
それから誇らしく付け加えた。
「――私たちは、『ダリオスの翼』です」
驚きに目を見開く冒険者たち。
私はもう振り返らなかった。
背後で遅れて上がった歓声も、その後の感謝の言葉も、すべて置き去りにした。
賭けに負けちゃったし、これくらいは言ってあげても良いかなと思った。




