第24話:夢見る女
消毒液の微かな匂い。
ナースコールの、短い電子メロディ。
どこかで、誰かが私を呼んでいる。
忘れたはずの場所――病棟にいた。
ナースステーションの表示灯が、すべて点滅していた。同じ旋律が何度も繰り返されていた。
病室に向かった。だが、誰もいなかった。
ただ音だけが鳴り響いていた。
ようやく交代の時間を迎え、私は足早に病院を後にした。
外に出ると、冬の朝の冷たい空気が肺に突き刺さる。疲れ果てた脳が、強烈に癒しを求めていた。
(……ぷよまるくん、買おう)
最近お気に入りの、ハードな弾力がクセになる『ぷよまるくんグミ』。
あの甘酸っぱさとパッケージのぷよまるくんが、私の精神を繋ぎ止めてくれる唯一の救いだった。
駅前のコンビニに寄り、ふらふらとした足取りでお菓子売り場へ向かう。だが、無情にもお目当てのものは売り切れていた。仕方ない、今日は代わりに別のグミを買う。
トボトボと、自宅アパートへの道を歩く。
早く横になりたい。泥のように眠りたい。
ようやく辿り着いた玄関の前で、私はカバンのサイドポケットに手を突っ込んだ。
……ない。
反対側のポケットも、メインの収納も、ポーチの中も。
「嘘……鍵がない……」
どこかに置き忘れた? 職場? 電車? それとも道に落とした?
焦燥感が一気に押し寄せ、あんなに重かった眠気が嘘のように吹き飛ぶ。心臓の鼓動が耳元でうるさく鳴り響き、冷や汗が背中を伝った。
(来た道を戻る⋯⋯?)
そう思って足を止めた時、首筋に冷たい何かが這い上がった。背後からの視線。
同時に、ナースコールの電子メロディが、脳を突き刺すように鳴り響く。
私は、それを確認するために、ゆっくりと踵を返し、振り返った。
ハッとした瞬間――。
視界が白く反転し、世界が砕け散った。
◆◇◆
目を開けると、ベッドの上だった。
窓から差し込む朝日は、刺すように鋭く、それでいて透き通っている。
「……夢、か」
だが、胸の奥に、あの音だけが残っていた。
脱毛クリニックに移る前、病棟勤務をしていた頃の記憶。実際に、あんな出来事があったわけじゃない。けれど、断片の一つ一つは、確かに私の記憶の中にあるものだった。
何度も聞いた、あのナースコールのメロディ。
新人の頃の私は、常に何かに追われていた。
そんな遠い日のことを思い出した。
私は身支度を整え、部屋を別に取っていたナギちゃんと合流した。
今日はギルドへ行き、あの漆黒の竜討伐を報告して、報酬を確認しようという話をしていたのだ。
けれど、目の前に現れたナギちゃんの様子が明らかにおかしい。
「ナギちゃん……? 体調、悪そうだけど大丈夫?」
「あ……姐さん……。おはよう、ございます……。すみません、なんだか体が重くて……」
少女の姿になっても、チームのムードメーカー。
しかし、今日は顔色が悪く、今は呼吸を整えるのさえ辛そうだ。
「大丈夫? 無理しないで。厳しいなら、今日は私一人で行ってくるしさ」
「ありがとうございます……。すみません、それなら僕は、今日は休ませてください……」
よほど辛いのだろう。素直に引き下がる彼をベッドへ促し、私は不安な心境で部屋を出た。
今日の私は目立たない格好に着替え、深々とフードを被っていた。
ギルドでその戦果を大々的に報告し、パーティー名や名前で呼ばれたりすれば、変な注目を浴びて、街中の噂になってしまうかもしれない。
チームの状況を考えると、今はなるべく目立ちたくなかった。
ギルドの扉を開けると、朝から多くの冒険者たちで賑わっていた。
私は騒がしい窓口を避け、手の空いていそうな係の人を小声で呼び出した。
「すみません、個別の相談なんですが、いいですか? あまり他の人の注目を集めたくなくて……」
「ええ、どうされましたか?」
怪訝そうな顔をする受付嬢に、私は声をさらに潜めて告げた。
「漆黒の竜を、討伐したんです」
「ええ!? ……あ、すみません」
彼女の驚く声に周囲の視線が一瞬いくつかこちらを向く。私は慌てて彼女を制した。
すぐに察した彼女によって、私は奥の別の場所へと案内された。広いホールのような部屋。
どうやら話が上層部まで届いたらしく、ギルドの中の偉い人たちが複数人、顔を揃えて待っていた。
「それでは、証拠を見せていただけますか?」
促されるまま、私は漆黒の竜――その亡骸を空間魔法で取り出した。
漆黒の竜の巨体が横たわる。
部屋にいた男たちが、一様に息を呑み、驚嘆の声を漏らした。
「なんということだ……」
「これは紛れもなく、あの漆黒の竜……」
「信じられん⋯⋯」
一人の男性が、私に尋ねた。
「この竜を、どうやって仕留めたのですか?」
「仲間と三人で。今はここにいませんが」
役職の高そうな男が、震える手で竜の鱗に触れる。
「このクエストは、我が国が誇る王国騎士団ですら手が出せず、事実上『不可能なクエスト』として長年放置されていたものです。報酬は設定されておりましたが……本来であれば、上限なく設定するような性質の依頼です」
私はゴクリと唾を飲み込み、核心を聞いた。
「それで、報酬は……?」
「……『金貨200枚』として、設定させていただいておりました」
(金貨200枚!? とんでもない大金だと思うけど、この世界の貨幣価値が正直ピンとこない……!でもこれなら借りてた金貨も返せる!)
驚きで固まっている私をどう解釈したのか、男性は申し訳なさそうに言葉を続けた。
「あ、立ち話もなんですし、別の場所へ移動しましょうか?」
「はい、ぜひお願いします」
私はさらに奥の、重厚な扉に閉ざされた応接室へと案内された。
ふかふかのソファに腰掛けながら、私は場違いなことを考えていた。
(宝くじの高額当選したら、こんな感じなのかな⋯⋯? 当たったことないけど⋯⋯)
やがて、仰々しく金貨の入れられた専用の小さなケースが運ばれてきた。
ケースを受け取ると、その重たさが伝わってきた。両手で支えなければ、落としてしまいそうだった。
そして私は、最後に一番気になっていたことを尋ねた。
「あの、すみません。これ、誰が討伐したとかって、外部の人に分かってしまうものですか? 先ほど立ち会いにいらっしゃったギルドの皆さんは、当然分かるとは思うんですが……」
「ええ、私ども上層部の限られた人間は、管理のため必然的に把握することになります。ですが、むしろ皆さん、これほどの偉業を達成された際は、ご自身から情報を開示されることが多く……結局、周知の事実になるというのが通例でございます。何かご懸念でも?」
私は真剣な顔で頷いた。
「いや、大金を持ってることが知られたら、変な人から狙われないかと心配で……」
(今、道中で遭遇した盗賊団みたいな連中に、寝込みを襲われたりしたら大変だ。ナギちゃんも黒田さんも本調子じゃないし、仮に私がそばにいても、二人を守りながら戦うのはリスクが高すぎる……)
私の言葉を聞き、男性は少し考え込む仕草を見せた。
「でしたら、通常はクエスト達成者の情報を記載の上で開示するのですが、ご希望でしたら、今回は非開示で討伐実績を残すことも可能です。個人名、またはパーティー名を公的な記録に残さない形ですね。私共も、秘密を厳守します」
「でしたら、それでお願いします。絶対に、名前は出さないでください」
「承知いたしました。ですが……初めてのケースです。これほどの偉業を自ら秘密にするなど、これまでの経験がございませんでして。自ら名声を放棄されるようにも思えますが⋯⋯」
私はただ、「はは……」と力なく笑って誤魔化した。
(意外と、個人情報の管理しっかりしてくれるんだな⋯⋯)
手続きを終え、私はギルドの裏口からこっそりと外に出た。
宿に戻り、ナギちゃんの部屋へ向かう。
彼は少しだけ体力を取り戻したのか、ベッドの上で上体を起こしていた。
「ナギちゃん、ただいま。終わったよ」
「姐さん……。お疲れ様です……。どうでした?」
私は金貨の詰まったケースを見せ、これまでの経緯を説明した。
ナギちゃんは目を丸くし、「さすが姐さん、抜かりないですね」と、いつものように私を称えてくれた。私も、元気な顔を見て、ようやく肩の力が抜けた。
けれど、やはりナギちゃんの疲労は激しいようだ。
少し話をしただけで、また眠るように目を閉じてしまった。
私は次に、黒田さんのもとへ様子を見に行った。
彼もまた、竜との激闘で肉体を酷使し、部屋で静養していた。
「黒田さん、討伐報告、完了しました。報酬はなんと金貨200枚ですよ!」
「おお……そうか。本当に良かった。これでしばらくは、金に困ることもなさそうだ。借金も、魔導師にたたき返せるな!」
黒田さんも喜んでくれたが、心なしかその声にはいつもの張りがなかった。
私はナギちゃんと黒田さん、それぞれと話し合い、二人の回復を待つことに決めた。
しかし――
一向に、二人の回復傾向は見られなかった。
彼らの看病を開始してから、一日が過ぎ、二日が過ぎ、一週間が経過した。
ナギちゃんの精神疲労とも呼べる状況に、変化はなかった。
それに、黒田さんの怪我の状態も優れない。担当の医師によると、外傷以外の何らかの要因が、回復を阻害しているのではないかと私だけに教えてくれた。
ベッドに横たわる、二人の姿が脳裏に焼きつく。
(彼らが呼んでいる。私を待ってる⋯⋯)
診療所の窓から外を眺めると、人々が何事もなく歩いて談笑していた。世界は日常そのものだった。
あの頃、言われたこと以外のことは、何もできなかった。いつも、あの呼び出し音に心がざわめいていた。
でも、今は違う。
呼ばれるのを待つんじゃない。私が行くんだ。
私にナースコールは、もう要らない。
私は窓のそばから離れ、前を見据えた。
拳を強く握っていた。
向かうべき場所は、もう決まっている。
胸の奥は、不思議なほど静かだった。
あのメロディは、もう聞こえなかった。




