第21話:シスターと聖母
洞窟の奥底、ひんやりとした静寂が私たちの身体を包み込んでいた。
私の目の前でうずくまる修道女の少女は、その大きな瞳を潤ませ、震える唇で私の名前を呼んだ。
「……マリア様……。やはり、マリア様だったのですね……」
「え、あ、はい。そうなんだけど……」
思わず動揺を隠せず、たどたどしく答えた。
私の名前は確かに「真理亜」だ。けれど、彼女が呼んでいるのは、この世界に語り継がれる慈愛の聖母のことだろう。
否定すべきなのだろうが、極限の恐怖から解放されたばかりの彼女にとって、今の私という存在が安心の拠り所になっているのは明白だった。
ふと、視線を感じて杖の先に目をやった。
少女が足元に置いていたのであろう、消えかけた一本の蝋燭。
その小さな、けれど温かみのある橙色の火に照らされて、杖の先端に嵌め込まれた宝石が変色していた。
深みのある赤。
燃えるような、深紅色に染まっていた。
「……ああ。マリア様が、私のような者のために、救いの手を差し伸べてくださったのですね⋯⋯」
そう言うと、修道女の少女はそのまま私の足元にすがりつき、堰を切ったように泣き出した。
「怖かったです……、本当に、怖かった……マリア様……」
その細い肩が激しく上下するのを見て、私の胸が締め付けられる。
改めて彼女の姿を観察すると、まだどこか幼さの残る顔立ち。16、17歳ぐらいの年頃だろうか。そんな若さで、一人、死の恐怖に直面していたのだ。
(マリア様、か……。こんな私でも、聖母様だと思ってくれているのかな⋯⋯)
私は少し困惑しながらも、彼女を優しく抱き寄せた。私が纏う紺色の作業服も、今では少し汚れていて、彼女に申し訳ない気持ちになった。
(今の私の姿が、少しでも彼女の救いになるのなら……。きちんと説明するのは、彼女の心が落ち着いてからでもいいよね⋯⋯)
「……もう大丈夫。大丈夫だよ。怖かったね、よく頑張ったね」
私は彼女の背中を、一定のリズムで優しくさすり続けた。
不思議なことに、そうして彼女を慰めていると、私自身のささくれ立った心――みんなに無理をさせて、危険に晒してしまったという罪悪感までもが、少しずつ静まっていくような気がした。
ふと、彼女の足元に目がいった。修道服の裾から覗く彼女の足。岩場を逃げ回った際に激しく擦ったのか、広範囲にわたって赤く擦りむけていた。
「怪我してる。大丈夫? ……あ、ちょっと待って。その足、手当てさせて」
膝から下、砂汚れと混じってじわりと滲む鮮血。出血量は多くないが、痛々しい。
(本当は流水でしっかり洗浄して、滅菌ガーゼでも当てたいところだけど……今はこれしかない)
私は手を彼女の足元にかざした。ヴェリウスさんから教わった回復魔法。
先ほど黒田さんにも施したが、私の武力としてのレーザーの威力とは正反対に、癒やしの力はお世辞にも高いとは言えなかった。
患部を包み込む光は、私の焦りを映すように不安定に揺れた。
「うっ……」
「ごめんね、ちょっと痛いかな。すぐに終わるから」
細胞の再生を無理やり促す感覚に、彼女が小さく声を漏らす。
出力調整に四苦八苦しながらも、なんとか止血を行い、開いた傷口を塞ぐ。あくまで応急処置。それでなんとか痛みが和らぐことを祈るしかなかった。
しばらくして、少女の震えが収まったのを見計らい、彼女は足元の蝋燭を見つめた。
「……ありがとうございます、マリア様」
彼女が小さく息を吹きかけると、赤く揺らめいていた蝋燭の火が、一筋の細い煙を残して消えた。
暗転した世界で、私の杖の石もまた、その紅い熱を静かに失っていった。
「外に、仲間が待っているの。一緒に行こう」
洞窟の外に出ると、空はどんよりとした灰色の雲に覆われていた。日中だというのに薄暗く、寒々しい風が吹き抜けている。
待っていたナギちゃんと黒田さんが、こちらを見て顔を綻ばせた。
「無事でよかった」
「その子が、避難していたシスターさんですね」
私は二人を紹介し、そして彼女に告げた。
「私は、河瀬真理亜。あなたが思うような『聖母様』ではないんだ。たまたま名前が同じだけなの。紛らわしくてごめんね」
少女は一瞬、きょとんとした顔をした。そして、私の杖の先を、それから私の顔をじっと見つめ、少しだけ残念そうに、けれど納得したように頷いた。
「そうなのですね……。でも、あなたは私を助けてくださいました。その事実は決して変わりません。ありがとうございました」
少女は、『ノエル』と名乗った。
そして少女がふと、倒された竜の死体、その無惨な傷口に視線をやろうとしていた。私は咄嗟に彼女を庇うように立ち、その視線を遮る。
彼女の年齢では、まだ見なくてもいいはずのものだ。
私は彼女に「竜を見ないように」と声をかけた上で、空間魔法を発動させる。異次元の収納空間をスライドさせるようにして、竜の巨体を丸ごと収納した。
「おお……すごい」
ナギちゃんが感心したように声を漏らす。
そして、私たちは歩き始めた。
少女を保護し、休息させるために、近くの町か村を目指す必要があった。
「……ねえ、ところで、どうしてあなたは、あんな危険な場所にいたの? 竜がいることは知らなかったの?」
私の問いに、少女は俯き、握りしめていた一輪の赤い花を見つめた。
「……知っていました。でも、どうしても⋯⋯これが必要だったんです」
「無理に聞き出してごめんね。でも、あんな危ない真似は……」
「はい、ただ、『あの子』を助けたくて⋯⋯」
彼女が教えてくれたのは、その赤い花が、この地方に伝わる特殊な治療薬の材料であるということだった。その花は、この地にだけ生息しているということも。
「そうだったんだね。教えてくれてありがとう」
私は、彼女の小さな掌にある花を見つめた。まだ高校生くらいの彼女が、誰かのために命を懸けたのだ。
(私だって一緒だ。彼女に偉そうなことを言える立場じゃない。私も、何かを犠牲にしようとしていた)
「あ、また色が⋯⋯」
少女がそう言ったので目をやると、杖の宝石の色が変わっていた。
曇天の下、その石は、あの燃えるような赤を完全に失っていた。
今は、静謐な青緑色。
どこか寂しげなその色は、今の私の心境を映し出しているようだった。
「助けたい人が、いたんだね」
「はい⋯⋯あそこに竜がいることも、危ないことも、周りの人に言われていました。絶対に行っちゃダメだって……でも、急がないと、あの子は……」
「そう。あなたも、誰かを助けたい一心だったんだね」
私は彼女の細い手を、もう一度強く握りしめた。
「でもね、無茶しちゃダメ。あなたが死んじゃったら、あなたが助けようとした人も、きっと悲しむよ。そんなの、悲しいでしょ?」
「……はい」
「だから、二度と無理はしないで⋯⋯」
その言葉は、彼女に向けたものであると同時に、自分自身への戒めでもあった。
「でも⋯⋯よく勇気を出したね。私には、あなたがどれだけ強くて、優しい人か、ちゃんと伝わったよ」
命の重さを、その覚悟を、この少女が思い出させてくれた。
「⋯⋯さあ、行きましょう。その花を、待っている人のところへ」
その時だった。
重く垂れ込めていた雲の隙間から、一筋の鋭い光が差し込んだ。
それは、私たちを一点に照らし出した。
あまりに鮮烈な光に、私は思わず目を細める。
「あっ」
少女が息を呑んだ
「……ああ……やっぱり⋯⋯」
少女が、光に包まれた私を見上げて呟いた。
「⋯⋯あなたは、私の『マリア様』です……」
彼女の視線の先。
杖の先端で輝く、透き通ったエメラルド・グリーン。
その色は、私たちを見守るように、優しく輝き続けていた。




