第14話:女装する男
「あ、あの⋯⋯ねえ、さん」
扉の向こうから響くのは、清らかな泉のせせらぎのような、透き通ったソプラノボイス。
あまりに清楚で可憐なその響きに、私の冷静沈着(?)なメンタルは、一瞬で消し飛んだ。
「え……?」
「ねえさん……?」
再度、同じことを尋ねられる。
「え⋯⋯?」
(『ねえさん』って何? まさか『姉さん』? いやいや、まさかね。私、一人っ子だし? ああ、可愛い! 声好き! 睫毛長い! 可愛い! これ以上は無理です! ああ、むり!)
銀髪の美少女が、不安げに小首を傾げながら、一歩。こちらへ足を取り直す。
私は反射的に、一歩、後ろへ下がった。
「ボク、変ですか⋯⋯?」
「え、あ、その⋯⋯」
(むりむりむり! 近づかないで! その顔、その声、むりむり! しかも、『ボクっ娘』かよ!その属性まで乗せてくるのかよ! ズルいぞ! )
「どうして、下がるんですか……?」
「それは⋯⋯」
(なに、哲学? ソクラテス? では、どうしてあなたは前に進むのですか? 私は何も知りません!)
彼女はさらに、一歩。潤んだ瞳で私を見つめながら距離を詰めてくる。
フリルが揺れるたびに、甘く優しい香りが漂い、私の鼻腔を、そして理性を、直接攻撃してくる。
「いや、あの、その……! どなたか存じませんが、あまり近づかれると……私は⋯⋯ッ!」
(攻撃受けてます! ああ、もう、考えるのをやめます⋯⋯!)
「そんな! ひどい! ボクのこと、そんなに嫌いになっちゃったんですか……?」
「いや、その⋯⋯」
(はぇー、私は、推しとは、適切な距離を取りたいタイプなので⋯⋯!)
今にも泣き出しそうな可憐な声で、さらに一歩、二歩。
私は後ずさりし続け、ついには冷たい壁に背中を押し当てられた。いわゆる「壁ドン」ならぬ「壁追い詰め」状態である。これ、実は禁止行為なんですよね。
目の前には、美少女の顔。良い匂いする。髪綺麗。睫毛長いよ。
……もうだめ。やばい⋯⋯。
そこに――勢いよくドアが開いた。
「おい河瀬さん、遅くなった! 良いものを手に入れたぞ、この図鑑なんだが……って、えええええ!?」
買い出しから戻ってきた黒田さんが、扉の前で石化した。
彼の視線の先には、壁際まで、謎の美少女によって追い詰められて、顔を真っ赤にして震えている私の姿。
「……河瀬、さん? 何やってんだ……? それに、その女の子は⋯⋯? あ、すまん、もしや、取り込み中だったか⋯⋯?」
「ち、違うの! 誤解、黒田さん! 違うの、これは……!」
「あ、クロさん!」
猫が駆け寄るように、黒田さんのそばに近づいた。
黒田さんは持っていた荷物を、床にぶちまけた。
「あなたは、どなた、ですか⋯⋯?」
「クロさんまでそんなこと言う。ボクです、中村凪です!」
「ごめん、それはない」
突然訪れた静寂。
私たちは、しばらくその場に立ち尽くしていた。
◆◇◆
それから数十分。
私たちはようやく椅子に座り、混乱している頭を整理し始めていた。
黒田さんは腕を組み、目の前に座る「銀髪の美少女」を、鋭い視線でまじまじと観察している。
「……なるほどな。つまり、こういうことか」
黒田が、こめかみを押さえながら、重々しく口を開いた。
「中村、お前は魔法使いの『役作り』をするにあたって、男の自分じゃイメージ通りにならないと思った。そこで、女の子の方が、より魔法使いらしいと考えて、街でこの衣装やウィッグなんかを買って、女装してみた、と」
黒田さんは一旦言葉を切り、信じられないものを見る目で、中村さんと思われる少女を見つめた。
「にわかに信じられないが、話している内容は中村しか知り得ない内容ばかり。だが、骨格も、声帯も、完全に女の子にしか見えない。中村、というのも違和感あるが⋯⋯自分が今、どうなってるか分かってるか?」
「はい……自分でも、いつの間にか、なんだか身体がフワフワしてるなと思ったら、声が高くなってて」
「なるほど。うーん、明らかに通常では考えられないことだ。これは推測なんだが、もしかすると、お前のスキル、えーと、『メソッド・アクト』が、役に入り込むことで発動して、容姿から何から変えちまったのかもしれないな。お前のそれは、もはや女装という域を遥かに超えているからな」
黒田さんの、低くて落ち着いた声とは対照的に、清楚なソプラノボイスで答える少女に、私は再び机に突っ伏した。
……ダメだ。喋るだけで、尊い。内容は頭に全然入ってこない。なんだか頭がぼーっとしてきた。
だけど、美少女が喋っているという事実だけで、脳が溶けていきそう。しかも、めっちゃ良い匂いする。あんた、どこのシャンプー使ってるのさ。
「よし、事情は分かった。とりあえず元の姿に一回戻るか。そうだな、服装もそうだし、そのウィッグも外そう。俺もなんだか調子が狂う」
黒田に促され、少女が「そうですねー」と可愛い声で言いながら、銀髪に手をかけた。
「この街のお店、ウィッグも色々売ってたんですよ? 茶色とか黒色とか! 長さも選べて、すごいなあと思って!」
私は、彼女の声を、いつまでも、聞いていることができます。
英訳せよ。
だが――
「……あれ? 外れない。いたたた! あれ、これ、地毛と絡まってる……っていうか、生えてる!? 地毛になってるー!?」
「ちょっと見せて!」
私が慌てて彼の(彼女の?)頭部を確かめる。
……嘘。境目がない!
地肌から、シルクのような銀髪が直接生えている。
「ちょ、中村さん、……あなた、身体、どうなってるの?」
「え、どうって……。あれ? なんか、服がぶかぶかになってる気が……。あ、あれ?」
少女が自分の胸元に手をやり、そして凍りついた。
「え……あれ……なんかある。それに、ない⋯⋯!」
少女は顔を真っ青にしている。
「ボク、女の子になってるーー!!?」
可憐なソプラノの絶叫が、コテージに響き渡った。
顔を真っ赤にして、半泣きでスカートを振り乱してパニックになるその姿。
私は、その様子を、ただ黙って見つめる。
(えーと⋯⋯できた⋯⋯っ!)
私は、今日、本物の天使に出会いました。
I met a real angel today.




