王妃の湯浴みと、しずかの帰る場所
服だけでなく、靴、髪飾り、装飾品、寝間着に至るまで。
ガラテアが用意したものは想像以上に多く、しずかはただ淡々と身に着けていった。
だが、その淡々とした態度の裏で、確実に疲労は溜まっていた。
着せ替えられ、整えられ、確認され、また別のものを試される。
それは王族の世界では当たり前なのだろうが――今のしずかにとっては、少し息苦しい。
そんな長い時間がようやく終わり、二人は城の浴場で湯に浸かっていた。
広い湯船。
柔らかな香りのする湯気。
湯の温度は丁度よく、身体の力が自然と抜けていく。
しずかは小さく息を吐いた。
「……今日はありがとう」
その言葉は、しずかにしては珍しく素直だった。
ガラテアは湯船の中で、にっこりと微笑む。
「いいえ。お姉さまの為に何かするのは、妹として当然ですわ」
(妹ではないのだけど)
しずかは内心そう思ったが、口には出さなかった。
こういう時のガラテアは、正論と勢いで押し切ってくる。
沈黙が落ちる。
湯の音だけが静かに響き、ようやく落ち着いた空気が戻ってきた――その時だった。
浴場の扉が静かに開く。
「ガラテア、しずかさん。少しお邪魔しますね」
柔らかい声と共に入ってきたのは、王妃ユリアナだった。
湯気の向こうに見えるその笑顔は、相変わらず穏やかで優しい。
「お母様!?」
ガラテアが驚き、思わず声を上げる。
ユリアナは上品に笑いながら湯船へ近づき、何のためらいもなく湯に浸かった。
「ガラテアと一緒にお風呂に入るのはいつぶりかしら?
……大きくなったわね」
その言葉だけで、ガラテアの表情が一気に明るくなる。
嬉しさが隠せていない。
「まだまだ成長途中ですわ。
これからしずかさんのような素敵な女性になると確信しています」
胸を張り、どこか誇らしげに言うガラテア。
その様子が可愛らしく、ユリアナはくすっと笑った。
「ふふ。頼もしいわね」
こうして、湯船には三人。
不思議な空気が流れながらも、どこか穏やかな時間が始まった。
ユリアナは湯に肩まで浸かり、ふと思い出したように口を開く。
「色々していたみたいだけど、明日の服装は決まったの?」
「もちろんですわ!」
ガラテアは即答し、得意げに頷く。
「明日のお姉さまの姿を、どうぞ楽しみにしていてくださいませ」
「そう。楽しみにしているわね」
親子の会話なのに、会話の中心はしずか。
それが妙におかしくて、しずかはなんとも言えない顔で二人を見た。
その視線に気づいたのか、ユリアナがしずかへ目を向ける。
「しずかさん。明日の謁見が終われば、またいつもの家へ戻ることになるかもしれませんけど」
ユリアナの声は柔らかいが、言葉にはしっかりとした重みがある。
「ガラテアも、あなたのことを気に入っています。
今日だけでも、この城の者として過ごしてくださいね」
しずかは湯船の中で静かに頷く。
「……わかった」
ユリアナは微笑んだ。
「遠慮をするなと言われても難しいと思います。
けれど、あなたに接触できる人間は、こちらで選定しておきました。
居心地が悪いことはないはずですよ」
しずかは少し目を伏せる。
――この人は、本当にまともだ。
しずかの中で、そう思えるだけの安心感があった。
ユリアナは湯の中で肩を回し、ふと別の話題を口にする。
「それと……たけるさんにも衣装を用意しておきなさい」
「たけるに……ですか?」
ガラテアが首を傾げる。
ユリアナは穏やかに笑った。
「明日、しずかさんがこれだけ整っているのに、隣に立つ彼がいつもの格好だと――見劣りするでしょう?」
しずかは、少しだけ驚いた。
だが、言われてみれば確かにそうだ。
ユリアナは続ける。
「本人は気にしないでしょうけど、周りは勝手に騒ぎます。
あの子は……そういう面倒に巻き込まれやすい人ですからね」
それは確かに、しずかも否定できなかった。
ユリアナは最後に微笑むと、先に湯船を出た。
「それでは、お先に。
二人とも、あまり夜更かししないようにね」
静かに扉が閉まり、浴場には再び二人だけが残る。
ガラテアは湯船の中でぽつりと呟いた。
「……お母様は、やっぱり凄いですわ」
「……うん」
しずかは短く返す。
それから二人も風呂を上がり、髪を整え、部屋へ戻った。
ガラテアは相変わらず質問が多く、しずかは淡々と答える。
けれど、今日だけは不思議と苦ではなかった。
やり取りを続け、夜も更け、ついに寝る時間になった。
本来なら別々の部屋で寝る予定だった。
しかし――ユリアナの助言は、予想以上に強かった。
『別々に寝ると、余計な接触が増えるかもしれないわ』
その一言で、侍女たちが当然のように一つのベッドを整え始めたのだ。
ガラテアは頬を赤らめながらも、嬉しそうだった。
しずかは特に何も言わず、淡々とベッドに入った。
「……おやすみ」
「おやすみなさい、お姉さま」
灯りが落ち、静寂という名の沈黙が降りる。
しばらくして。
ガラテアが小さな声で囁いた。
「お姉さま……まだ起きております?」
「うん」
しずかの返事は短い。
ガラテアは少し迷うように息を吸い、思い切ったように言った。
「……お姉さまさえよければ、このまま城に住んでもいいのですよ?」
しずかはすぐに答えなかった。
ガラテアは続ける。
「この城なら困ることはありません。
食事も、寝具も、衣服も……」
少し言葉を詰まらせる。
「……あの家より、ずっと良い暮らしができますわ」
しずかは静かに目を閉じたまま答える。
「……無理」
即答だった。
ガラテアは少しだけショックを受けたように息を止める。
「どうしても……あの家でなければならないのですか?」
ガラテアの声は、珍しく弱い。
しずかは少し考え、ゆっくりと口を開いた。
「気持ちは嬉しい。
でも……あの家だから、普通に過ごせる」
ガラテアは黙って聞く。
「たけると、ゆながいるから」
しずかの言葉には、迷いがなかった。
そして、少し間を置いて続ける。
「それに……」
「それに?」
ガラテアが促す。
しずかは、ほんの少しだけ声の温度を上げた。
「最近作ってくれたたけるの料理とデザートは、城のものより美味しい」
「……」
ガラテアは、一瞬固まった。
そして――吹き出した。
「ふふっ……!」
思わず笑いが漏れる。
「そんな理由で断られるとは思いませんでしたわ……!」
しずかは真顔のまま言う。
「本当。
たけるは今、色々試してる。
これからもっと美味しいものが食べられると思う」
ガラテアは笑いながら、少しだけ羨ましそうに呟く。
「それほどの料理なら……わたくしも今度食べに行こうかしら?」
「うん。それがいい」
しずかの返事は即答だった。
「本当にたけるの料理は美味しい」
「……ふふ。では、その時はよろしくお願いいたしますわ」
「うん。作るのはたけるだけど」
「そうですわね」
その会話が終わった時、ガラテアは思った。
――こんな何でもない話ができるのも、きっとあの家で過ごしているからなのだ。
しずかが城へ来ない理由も、少しだけ理解できた。
それと同時に。
こんな会話をできたことが、どうしようもなく嬉しかった。
ガラテアは静かに微笑み、目を閉じる。
「……おやすみなさい、お姉さま」
「……おやすみ」
その声を最後に、部屋は静かな眠りに包まれていった。
城の夜は静かで、深い。
だが、その静けさの中で――しずかの心は、どこか温かかった。




