たける不在の夜、料理が死んだ
しずかは窓際の椅子に座ったまま、湯気の立つ茶を手に、ぼんやりと外を眺めていた。
その向かいの椅子では、エンデが人の姿のまま座っている。
先ほどの会話の続きを言いたいのか。
それとも、何か別の文句があるのか。
エンデは何度も口を開きかけては閉じ、ちらちらとしずかを見ていた。
だが、しずかは気づかないふりをして、あくまで外の景色を眺め続けている。
沈黙。
それが続いた、その時だった。
「ただいまです!!」
勢いよく扉が開き、元気な声が部屋に響いた。
ゆなが仕事から戻ってきたのだ。
しずかは静かに振り向き、いつも通りに返す。
「……おかえり」
「はいっ!今日も疲れました~!」
ゆなは靴を脱ぎながら笑顔を浮かべたが、ふと部屋の空気に違和感を覚えた。
そして視線を動かし――目を丸くする。
「あれ?猫ちゃんじゃないんですね!」
ゆなは嬉しそうに言った。
「また遊びたかったんですけど!」
その言葉に、エンデはふんっと鼻を鳴らす。
「遊ぶだと?私はそう簡単に遊べる相手ではないのだぞ」
やたらと偉そうな言い方。
だが、ゆなは一度、猫の姿のエンデとねこじゃらしで遊んだことがある。
ゆなは生ぬるい目を向けた。
「……そうなんですね」
口調は丁寧だが、目が完全に「はいはい」だった。
エンデはその視線に気づき、むっとする。
「な、なんだその目は……!」
だが、ゆなはスルーして、しずかに顔を向けた。
「しずかさん、今日の夕食どうします?」
しずかは少し考え、淡々と答える。
「……一緒に作る?」
「はいっ!!」
最近はたけるが料理を作ることが多かったが、本来ならこの二人が台所に立つことは珍しくない。
「何にしましょうか~」
「……いつも通りでいい」
「でも、たけるさんがいないんですよ?」
ゆなはにやっと笑った。
「これは……チャンスでは?」
「……チャンス?」
「たけるさんの料理より美味しいもの作れたら、びっくりさせられます!」
ゆなは拳を握り、謎の闘志を燃やす。
しずかは一瞬だけ考え――そして、頷いた。
「……いい」
その返事だけで、ゆなのテンションは跳ね上がった。
「よーし!作りましょう!!」
こうして、二人は台所へ向かった。
エンデはというと、椅子に座ったまま腕を組み、ふんっと偉そうに見守る。
「ふむ……人の食事作りを観察するのも悪くない」
しかし、内心では少しだけ期待していた。
たけるがいない日。
せめて、食事だけでもまともであってほしい、と。
台所では、ゆなが慣れた手つきで鍋を用意し、しずかが食材を並べていた。
普段なら慎重なはずのしずかが、今日は珍しく積極的だった。
「……これ、使ってみたら美味しいかも」
しずかが手に取ったのは、見慣れない調味料の瓶。
ゆなが目を輝かせる。
「いいですね!たけるさんも最近、色々試してましたし!」
「……真似する」
「はい!」
そこからは、妙にテンポが良かった。
しずかが提案し、ゆなが混ぜる。
ゆなが味を見て首をかしげ、しずかがさらに別の調味料を足す。
普段なら絶対にしないような大胆さ。
たけるへの対抗心が、二人を変に強くしていた。
そして――
完成した料理がテーブルに並んだ。
見た目は、悪くない。
いや、むしろ色合いだけなら「豪華」にすら見える。
だが。
香りが、どこかおかしい。
何かが主張しすぎている。
しずかとゆなは、互いに視線を交わし、微妙な沈黙を落とした。
エンデが眉をひそめる。
「……これは食べられるのか?」
ゆなとしずかは同時に言った。
「「……多分」」
不安しかない。
だが、もう引き返せない。
三人は手を合わせた。
「いただきます」
そして同時に、料理を口に運ぶ。
次の瞬間だった。
「「「っ!!!!!」」」
空気が凍った。
ゆなの目が見開かれ、しずかの眉がぴくりと動き、エンデの顔がみるみる歪む。
全員が、同時に飲み込めず止まった。
そして。
「うっ……!」
「……っ」
「……ぬぉっ!?」
三人の口から、ほぼ同時に変な声が漏れた。
沈黙。
その沈黙を破ったのは、エンデだった。
「なんだこれは!?人が食べていいものではないぞ!!」
机を叩く勢いで怒鳴る。
しずかは淡々と呟いた。
「……これはちょっと失敗したかもしれない」
ゆなも苦笑いで頷く。
「色々混ぜすぎたかもしれませんね……」
水が、やけに美味かった。
たけるが用意してくれていた水差しが、どんどん空になっていく。
エンデは信じられないものを見る目で二人を見た。
「食材をこれほど無駄にするとは何をしている!?普通に作れば食べられるものを作れていたではないか!!」
エンデの言葉に間違いはない。
今まで、ゆなとしずかの料理でここまでの惨事になったことはなかった。
しずかは表情のない顔で、少しだけ胸を張った。
「……たけるが言っていた。失敗は成功の元だと」
どこか、ドヤ顔に見える。
エンデは顔を引きつらせた。
「成功したものだけ食べさせろ!!」
だが、作った以上、残すわけにもいかない。
結局。
三人は無言で、その料理と呼べない何かを、根性で食べ切った。
食後、全員が同じ表情になった。
――虚無である。
夜。
問題は次だった。
風呂だ。
たけるがいないと、この家の風呂はまともに入れない。
ゆなとしずかは濡れた布で身体を拭き、なんとかやり過ごそうとしていた。
だが、エンデが不満そうに言った。
「なぜ、たけるがいないだけで風呂に入れない?沸かせばいいだろう」
ゆなは困った顔で笑う。
「沸かし方が……分からなくて……」
しずかも頷いた。
「……私も分からない」
その瞬間、エンデの目が細くなる。
「……はぁ」
深いため息。
まるで大人が、どうしようもない子供を見た時のようなため息だった。
「おぬしたちは……たけるがいなければ何もできんのか……」
しずかは少しだけむっとする。
「……できることもある」
「できることを言ってみよ」
「……窓の外を眺める」
「役に立たん!」
エンデのツッコミが鋭すぎて、ゆなが噴き出した。
「ぷっ……!」
「ゆな、笑うな!」
「す、すみません……!」
だが、ゆなは肩を震わせていた。
しずかも少しだけ目を細めた。
この状況が悔しいのか、面白いのか、自分でも分からない。
そうして夜は更けた。
今日はもう寝るだけ。
だが、ゆながふと思いついたように言う。
「……たけるさんもいないですし」
そして、にこっと笑った。
「今日は三人で寝ましょう!」
「……?」
しずかが首をかしげる。
エンデも眉を上げる。
「なぜだ」
「え?だって、なんか寂しくないですか?」
ゆなのその言葉に、しずかは何も言わなかった。
否定しない。
それが答えだった。
エンデは腕を組んで考え込み――
「……まあ、よい。たけるの寝床を占領するのも一興か」
結局。
三人はたけるの部屋に布団を敷き、並んで寝ることになった。
たけるの匂いが、少しだけ残る部屋。
ゆなが布団に潜りながら言った。
「たけるさん、早く帰ってきてくれないかなぁ……」
しずかは小さく返した。
「……うん」
エンデは目を閉じたまま、ぼそっと呟く。
「……帰ってきたら、私は忙しくなるのう」
「……?」
「なんでもない」
そう言って、エンデは背を向けた。
しずかは天井を見上げながら、静かに目を閉じた。
いつもと違う夜。
だけど、これも日常。
たけるがいないだけで、日常の輪郭が少し変わって見える。
そんな、不思議な夜だった。




