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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。

ラタヴィニアの祝福

作者: れおにゃり
掲載日:2025/11/12

朝、通知音で目を覚ます。

 ニュースを流し、コーヒーを淹れ、スマホを手に取る。

 ――そんな当たり前の朝の延長に、この物語の世界があります。


 誰もが幸福を願い、平和を信じ、正義を疑わない。

 けれど、その「当たり前」の裏側には、

 ほんの少しだけ、見ないほうがいいものが隠れているのかもしれません。


 ラタヴィニアという国は、架空の場所です。

 でも、あなたのポケットの中にあるスマホが光ったとき、

 その光が少しだけ冷たく感じたなら――

 それはきっと、この物語の続きが始まった合図です。

朝七時。窓の外は、塩を1つまみ落としたみたいに白んでいた。




 〈本日の抽選まで、あと五時間〉




 枕元のスマホがやさしい音で震え、部屋の空気を薄く波立たせる。




 「今日も、当たるといいわね」


 台所で母がトーストを齧りながら言った。まるで天気の話みたいに。


 ミラは曖昧に頷いて、スープを匙で掬った。湯気に混じるバターの匂いが、眠気をさらに薄くした。




 テレビは明るいジングルを流し、司会者は笑顔の三人を背に手を広げる。


 《昨日の当選者の皆さん、おめでとうございます! 報酬はすでに振り込まれました》


 金色のテロップが画面の下で弾んだ。そのすぐ隣に、小さな文字がそっと貼り付く。


 “本日午前零時、死刑囚三名の執行を確認”。


 母はパンくずを指で払って微笑んだ。「犯罪、ほんと減ったわよね」




 ミラは返事をしない。


 当選の笑顔と、執行の報せ。声のトーンが、ほとんど同じだ。


 トーストの焦げが皿に落ちる小さな音が、やけに耳に残った。




 通学路。歩道橋の上で、誰もが画面を撫でている。


 親指は迷いなく――抽選のページへ。


 押すたびに微かな振動が返ってくる。それは祝福の拍手のようでもあり、何かの蓋が閉まる音のようでもあった。


 ミラは立ち止まり、通知をスワイプで押し出して画面を暗くした。空は薄い雲に覆われ、街の色が一段やさしくなっている。




 教室では、リオが机を叩いて跳ねた。


 「見て見て! 当たった!」


 画面には〈10万円獲得〉の文字。クラスが湧く。


 「やば!」「おごって!」「神じゃん!」


 リオは照れて笑い、ストラップをいじった。「ね、世界、ちょっと軽くなった感じしない?」




 軽く、という言葉が、ミラの喉に引っかかった。


 昼休み、購買のパンを二人で半分ずつ齧りながら、リオはまた言った。


 「うち、さ、今日の晩ごはん豪勢なんだって。お母さん、ずっと笑ってた」


 ミラは「よかったね」と答えた。ほんとうに、よかったのだろうか、と同時に思う。




 放課後の駅前スクリーンは、青空と白い鳩を映していた。


 《ラタヴィニアの祝福は、あなたとともに》


 女性の声が柔らかく流れる。斜め下には今日の〈秩序確保〉の数字。


 ミラは自販機で水を買って、喉を洗った。透明な液体は冷たく、無味だった。




 夜。宿題を解くふりをして、ミラは検索窓に短い言葉を打ってみた。


 「当選 死刑 関係」


 結果はすぐに消えた。ページが一瞬白くなり、代わりに笑顔の広告が現れる。


 “押す、というやさしさを。”


 ブラウザを閉じようとして、スピーカーが唐突に話し出した。


 《安全のため、不適切な語句は非表示に設定されています。安心して、よい夜を》


 ミラは机に肘をつき、天井の四角い影を数えた。


 安心、という言葉ほど、安心でないものはない。




 眠りの浅い夜の端で、誰かの声がしているような気がした。


 “当選=執行”


 短い断片だけが、夢の底に浮き沈みした。




 翌朝、リオはいつも通り教室へ来た。


 でも、いつも通り、ではなかった。


 声の抑揚が少しだけ平板になり、笑い方が録音の再生みたいだ。


 「昨日ね、ケーキ、3つも食べちゃった」


 「お腹こわさないでよ」


 「うん。世界、ちょっと軽くなったよね」


 その言い回しに、デジャヴの痛みが走る。


 ミラは窓の外、遠くを流れる雲を数えた。数えきれないものは、いつもやさしいふりをする。




 帰り道、図書センターの公共端末で、ミラは宿題の資料を探した。


 検索バーに単語を入れようとして、指が止まる。


 画面の端――普段は気づかない灰色のボタンが、脈のように瞬いた。


 〈運用ログ〉


 押してはいけない、と思った瞬間、指が触れた。




 黒地の画面に列が現れる。数字、時刻、短いタグ。


 “抽選ID:#0931/執行 完了”


 心臓が、何かに掴まれる。


 次の瞬間、端末のフレームが赤く薄く光った。


 〈国家情報保全法に基づき、閲覧は記録されました〉


 機械の声は丁寧だった。祝日のお知らせみたいに。


 ミラは椅子を引く音をできるだけ小さくして、端末から離れた。受付の係の笑顔が、少しだけ固い。




 家の前に、見慣れない黒い車が停まっていた。


 制服ではないが、きちんとした服の男女が二人。


 「ミラ・セランさん。少しだけ、確認に伺いました」


 玄関で母が「あら」と笑って肩をすくめる。「娘に何か?」


 「検索中に不具合がありまして。安全のため、端末の再設定を」


 柔らかな口調。ゆっくりとしたまばたき。


 ミラは靴を脱ぐふりをしながら、階段の影に身を隠した。


 「不具合、ですか」


 「はい。ご協力、ありがとうございます。ラタヴィニアのために」


 最後の一文が、軽く、しかし重い。




 彼らが帰ったあと、母は笑顔を崩さないまま、台所の棚を整え始めた。


 「変なサイトでも見たんでしょ。気をつけなさい」


 ミラはうなずく。「うん」


 「知らないほうが、幸せよ」


 母は背中を向けて言った。


 その言い回しを、どこかで何度も聞いた気がした。




 夜。リオからメッセージが来た。


 〈あした、朝一緒に押そ〉


 〈抽選する〉ボタンのスクショ。


 ミラは入力欄に指を置いたまま、しばらく動けなかった。


 〈うん〉


 短い返事が、砂の粒みたいに乾いて送信された。




 翌朝の広場。大型モニターが青空と鳩を映している。


 リオは隣で笑って、カウントダウンを指差した。


 「せーの、でいこう?」


 「……うん」


 数字がゼロになり、街中で一斉に小さな音が鳴る。


 「せーの」


 二人の親指が、滑った。


 画面は短く震え、〈抽選を受け付けました〉と表示された。


 広場のスピーカーは、晴れやかな音階でメロディを鳴らす。


 同時に、モニターの右下で別のテロップが点滅した。


 “本日午前零時、死刑囚三名の執行を確認”


 ミラは息を吸って、吐き出した。肺の中身が少し軽くなる。




 その日の午後、匿名掲示板に短い動画が上がった。


 公共端末の黒い画面。


 “抽選ID:#0931/執行 完了”


 投稿者のIDはすぐに凍結され、動画は「事実に反する」と注記されて消えた。


 代わりにトップに躍り出たのは、国営のアカウント。


 《偽情報に注意。国の秩序を乱す行為は罰せられます。安心して、祝福を分かち合ってください》


 コメント欄には拍手の絵文字が並んだ。


 ミラの親指は、画面の端で止まっていた。


 止めたところで何が変わるのか、止めないところで何が壊れるのか。


 どちらも、よく分からない。




 夜、街は金色に照らされ、人々はレストランのガラス越しに微笑み合っている。


 店内のスピーカーが、臨時放送を告げた。


 ステージに立つように、画面の中に男が現れる。


 国家評議会の長。白いシャツの襟が正しく、ネクタイの結び目が美しい。


 「ラタヴィニアの皆さん」


 声は穏やかで、遠い水面の反射のように揺れていた。


 「今日も世界は、美しく保たれました。三人が罪を償い、国は少しだけ軽くなりました。皆さんのご協力に、心から感謝します」


 男は微笑んだ。


 「これは、わたしたちの祝福です。


 ――知らないほうが、幸せなこともある」


 拍手が鳴り、レストランのグラスが軽く触れ合う音が混ざる。


 ミラは水を飲み、冷たさが喉をまっすぐに落ちていくのを感じた。




 帰り道、風は少しだけ生暖かく、街路樹の葉は薄く震えている。


 〈本日の抽選まで、あと五時間〉


 いつもの通知。


 ミラは画面を見つめ、指先をそっと乗せた。


 指の腹に、微かな脈。


 数えられた鼓動の合間で、誰かの息が途切れる想像をしてしまい、慌てて思考を振り払う。


 なにも考えなければ、なにも起きない。そう教えられてきた。




 家で靴を脱ぐと、母が台所から顔を出した。


 「今日、押した?」


 「……うん」


 「よかった。いい夢見られるわ」


 母はそう言って笑い、冷蔵庫から小さなケーキを取り出した。


 フォークを二本並べて、電気の明かりを少し落とす。


 「世界がね、ちょっと軽くなったの」




 ミラは頷いた。


 甘い生クリームは舌の上で溶け、何も残さない味がした。


 テレビは食卓の向こうで薄く光り、幸福の笑顔を次々に映す。


 画面の端の小さなテロップは、もう読まないことにした。




 ベッドに横たわり、天井の白い四角を数える。


 いくつ数えても眠れない夜に、ミラは声にならない独白を落とした。


 結局、自分は何も知らない。


 それでいい。この国では、それが正しい。




 朝七時。窓の外はまた白く、空気はやさしい音で震える。


 〈本日の抽選まで、あと五時間〉


 ラタヴィニアの祝福が、今日も始まる。

「知らないほうが、幸せなこともある」――

 それはこの国の支配者の言葉であり、

 この世界を生きる私たち自身の逃げ道でもあります。


 押す指先ひとつで誰かを救えるように思える時代に、

 その指先が、いつか誰かを傷つけていないと

 言い切れる人はどれくらいいるだろう。


 ラタヴィニアの祝福は、遠い未来の話ではありません。

 今日もどこかで、誰かが幸福を願い、

 誰かが静かに消えていく。

 そして私たちは、それを知らないまま“平和”と呼ぶ。


 最後まで読んでくれて、ありがとうございました。

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