ラタヴィニアの祝福
朝、通知音で目を覚ます。
ニュースを流し、コーヒーを淹れ、スマホを手に取る。
――そんな当たり前の朝の延長に、この物語の世界があります。
誰もが幸福を願い、平和を信じ、正義を疑わない。
けれど、その「当たり前」の裏側には、
ほんの少しだけ、見ないほうがいいものが隠れているのかもしれません。
ラタヴィニアという国は、架空の場所です。
でも、あなたのポケットの中にあるスマホが光ったとき、
その光が少しだけ冷たく感じたなら――
それはきっと、この物語の続きが始まった合図です。
朝七時。窓の外は、塩を1つまみ落としたみたいに白んでいた。
〈本日の抽選まで、あと五時間〉
枕元のスマホがやさしい音で震え、部屋の空気を薄く波立たせる。
「今日も、当たるといいわね」
台所で母がトーストを齧りながら言った。まるで天気の話みたいに。
ミラは曖昧に頷いて、スープを匙で掬った。湯気に混じるバターの匂いが、眠気をさらに薄くした。
テレビは明るいジングルを流し、司会者は笑顔の三人を背に手を広げる。
《昨日の当選者の皆さん、おめでとうございます! 報酬はすでに振り込まれました》
金色のテロップが画面の下で弾んだ。そのすぐ隣に、小さな文字がそっと貼り付く。
“本日午前零時、死刑囚三名の執行を確認”。
母はパンくずを指で払って微笑んだ。「犯罪、ほんと減ったわよね」
ミラは返事をしない。
当選の笑顔と、執行の報せ。声のトーンが、ほとんど同じだ。
トーストの焦げが皿に落ちる小さな音が、やけに耳に残った。
通学路。歩道橋の上で、誰もが画面を撫でている。
親指は迷いなく――抽選のページへ。
押すたびに微かな振動が返ってくる。それは祝福の拍手のようでもあり、何かの蓋が閉まる音のようでもあった。
ミラは立ち止まり、通知をスワイプで押し出して画面を暗くした。空は薄い雲に覆われ、街の色が一段やさしくなっている。
教室では、リオが机を叩いて跳ねた。
「見て見て! 当たった!」
画面には〈10万円獲得〉の文字。クラスが湧く。
「やば!」「おごって!」「神じゃん!」
リオは照れて笑い、ストラップをいじった。「ね、世界、ちょっと軽くなった感じしない?」
軽く、という言葉が、ミラの喉に引っかかった。
昼休み、購買のパンを二人で半分ずつ齧りながら、リオはまた言った。
「うち、さ、今日の晩ごはん豪勢なんだって。お母さん、ずっと笑ってた」
ミラは「よかったね」と答えた。ほんとうに、よかったのだろうか、と同時に思う。
放課後の駅前スクリーンは、青空と白い鳩を映していた。
《ラタヴィニアの祝福は、あなたとともに》
女性の声が柔らかく流れる。斜め下には今日の〈秩序確保〉の数字。
ミラは自販機で水を買って、喉を洗った。透明な液体は冷たく、無味だった。
夜。宿題を解くふりをして、ミラは検索窓に短い言葉を打ってみた。
「当選 死刑 関係」
結果はすぐに消えた。ページが一瞬白くなり、代わりに笑顔の広告が現れる。
“押す、というやさしさを。”
ブラウザを閉じようとして、スピーカーが唐突に話し出した。
《安全のため、不適切な語句は非表示に設定されています。安心して、よい夜を》
ミラは机に肘をつき、天井の四角い影を数えた。
安心、という言葉ほど、安心でないものはない。
眠りの浅い夜の端で、誰かの声がしているような気がした。
“当選=執行”
短い断片だけが、夢の底に浮き沈みした。
翌朝、リオはいつも通り教室へ来た。
でも、いつも通り、ではなかった。
声の抑揚が少しだけ平板になり、笑い方が録音の再生みたいだ。
「昨日ね、ケーキ、3つも食べちゃった」
「お腹こわさないでよ」
「うん。世界、ちょっと軽くなったよね」
その言い回しに、デジャヴの痛みが走る。
ミラは窓の外、遠くを流れる雲を数えた。数えきれないものは、いつもやさしいふりをする。
帰り道、図書センターの公共端末で、ミラは宿題の資料を探した。
検索バーに単語を入れようとして、指が止まる。
画面の端――普段は気づかない灰色のボタンが、脈のように瞬いた。
〈運用ログ〉
押してはいけない、と思った瞬間、指が触れた。
黒地の画面に列が現れる。数字、時刻、短いタグ。
“抽選ID:#0931/執行 完了”
心臓が、何かに掴まれる。
次の瞬間、端末のフレームが赤く薄く光った。
〈国家情報保全法に基づき、閲覧は記録されました〉
機械の声は丁寧だった。祝日のお知らせみたいに。
ミラは椅子を引く音をできるだけ小さくして、端末から離れた。受付の係の笑顔が、少しだけ固い。
家の前に、見慣れない黒い車が停まっていた。
制服ではないが、きちんとした服の男女が二人。
「ミラ・セランさん。少しだけ、確認に伺いました」
玄関で母が「あら」と笑って肩をすくめる。「娘に何か?」
「検索中に不具合がありまして。安全のため、端末の再設定を」
柔らかな口調。ゆっくりとしたまばたき。
ミラは靴を脱ぐふりをしながら、階段の影に身を隠した。
「不具合、ですか」
「はい。ご協力、ありがとうございます。ラタヴィニアのために」
最後の一文が、軽く、しかし重い。
彼らが帰ったあと、母は笑顔を崩さないまま、台所の棚を整え始めた。
「変なサイトでも見たんでしょ。気をつけなさい」
ミラはうなずく。「うん」
「知らないほうが、幸せよ」
母は背中を向けて言った。
その言い回しを、どこかで何度も聞いた気がした。
夜。リオからメッセージが来た。
〈あした、朝一緒に押そ〉
〈抽選する〉ボタンのスクショ。
ミラは入力欄に指を置いたまま、しばらく動けなかった。
〈うん〉
短い返事が、砂の粒みたいに乾いて送信された。
翌朝の広場。大型モニターが青空と鳩を映している。
リオは隣で笑って、カウントダウンを指差した。
「せーの、でいこう?」
「……うん」
数字がゼロになり、街中で一斉に小さな音が鳴る。
「せーの」
二人の親指が、滑った。
画面は短く震え、〈抽選を受け付けました〉と表示された。
広場のスピーカーは、晴れやかな音階でメロディを鳴らす。
同時に、モニターの右下で別のテロップが点滅した。
“本日午前零時、死刑囚三名の執行を確認”
ミラは息を吸って、吐き出した。肺の中身が少し軽くなる。
その日の午後、匿名掲示板に短い動画が上がった。
公共端末の黒い画面。
“抽選ID:#0931/執行 完了”
投稿者のIDはすぐに凍結され、動画は「事実に反する」と注記されて消えた。
代わりにトップに躍り出たのは、国営のアカウント。
《偽情報に注意。国の秩序を乱す行為は罰せられます。安心して、祝福を分かち合ってください》
コメント欄には拍手の絵文字が並んだ。
ミラの親指は、画面の端で止まっていた。
止めたところで何が変わるのか、止めないところで何が壊れるのか。
どちらも、よく分からない。
夜、街は金色に照らされ、人々はレストランのガラス越しに微笑み合っている。
店内のスピーカーが、臨時放送を告げた。
ステージに立つように、画面の中に男が現れる。
国家評議会の長。白いシャツの襟が正しく、ネクタイの結び目が美しい。
「ラタヴィニアの皆さん」
声は穏やかで、遠い水面の反射のように揺れていた。
「今日も世界は、美しく保たれました。三人が罪を償い、国は少しだけ軽くなりました。皆さんのご協力に、心から感謝します」
男は微笑んだ。
「これは、わたしたちの祝福です。
――知らないほうが、幸せなこともある」
拍手が鳴り、レストランのグラスが軽く触れ合う音が混ざる。
ミラは水を飲み、冷たさが喉をまっすぐに落ちていくのを感じた。
帰り道、風は少しだけ生暖かく、街路樹の葉は薄く震えている。
〈本日の抽選まで、あと五時間〉
いつもの通知。
ミラは画面を見つめ、指先をそっと乗せた。
指の腹に、微かな脈。
数えられた鼓動の合間で、誰かの息が途切れる想像をしてしまい、慌てて思考を振り払う。
なにも考えなければ、なにも起きない。そう教えられてきた。
家で靴を脱ぐと、母が台所から顔を出した。
「今日、押した?」
「……うん」
「よかった。いい夢見られるわ」
母はそう言って笑い、冷蔵庫から小さなケーキを取り出した。
フォークを二本並べて、電気の明かりを少し落とす。
「世界がね、ちょっと軽くなったの」
ミラは頷いた。
甘い生クリームは舌の上で溶け、何も残さない味がした。
テレビは食卓の向こうで薄く光り、幸福の笑顔を次々に映す。
画面の端の小さなテロップは、もう読まないことにした。
ベッドに横たわり、天井の白い四角を数える。
いくつ数えても眠れない夜に、ミラは声にならない独白を落とした。
結局、自分は何も知らない。
それでいい。この国では、それが正しい。
朝七時。窓の外はまた白く、空気はやさしい音で震える。
〈本日の抽選まで、あと五時間〉
ラタヴィニアの祝福が、今日も始まる。
「知らないほうが、幸せなこともある」――
それはこの国の支配者の言葉であり、
この世界を生きる私たち自身の逃げ道でもあります。
押す指先ひとつで誰かを救えるように思える時代に、
その指先が、いつか誰かを傷つけていないと
言い切れる人はどれくらいいるだろう。
ラタヴィニアの祝福は、遠い未来の話ではありません。
今日もどこかで、誰かが幸福を願い、
誰かが静かに消えていく。
そして私たちは、それを知らないまま“平和”と呼ぶ。
最後まで読んでくれて、ありがとうございました。




