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短編集(令嬢とかざまぁとか…)

幽閉されているのは、あなたたちの方ですよ?

作者: 雪月火

硬いベッドの上で、ロレッタは静かに目を開けた。

部屋には時計がないため正確な時間はわからないが、扉の下の隙間から漏れる光の具合で朝が来たことを悟る。


彼女の部屋は石造りの壁と床、そして最低限の家具しかない殺風景な空間だった。

窓は一つもなく、外の世界を知る術はなかった。


やがて扉の簡素な小窓が音を立てて開き、盆に乗せられた朝食が差し入れられる。

メニューはいつもと同じ、少し硬くなったパンと水気の多いスープ、そして一切れの果物。

政略結婚の道具として完璧な体型と肌を維持するため、食事は常に厳しく管理されていた。


「ロレッタ、食事です。今日も一日、おとなしくしているのですよ」


扉の向こうから聞こえる侍女の平板な声に、ロレッタは返事をしなかった。

返事をする必要も意味もなかったからだ。


彼女はゆっくりと起き上がると盆を受け取り、黙々と食事を始めた。


昼間の時間はひたすらに長く、静かだった。

本を読むことも楽器を演奏することも許されない。

ただひたすらに、その美しさを損なわないよう、静かに時が過ぎるのを待つだけ。

時折、どうしようもない孤独と無力感に襲われ、壁に爪を立てたくなる衝動に駆られることもあった。


しかし、彼女の瞳の奥の光が消えることはなかった。

彼女には、友人がいたからだ。


長い時間が過ぎ、夕食が運び込まれ、そして再び部屋が静寂に包まれる。

昼間とは違う、夜の静寂。


それが彼女にとっての始まりの合図だった。

ロレッタはベッドに横になり、耳を澄ます。

すると、壁の上の方にある小さな換気口から、カサリと小さな音が聞こえた。


「ロレッタ、起きてるか?」


聞き慣れた、少し生意気な声。

ロレッタは体を起こし、満面の笑みで換気口を見上げた。


「ええ、待っていたわ、リーフス」


声に応えるように、換気口の格子戸が器用に内側へ開かれ、中からしなやかな黒い影が飛び降りてきた。


月の光を知らないロレッタの銀髪とは対照的な、闇を溶かして固めたような漆黒の毛並み。

緑色の瞳を爛々と輝かせているのは、一匹の黒猫、リーフスだった。

彼はロレッタの足元にすり寄ると、満足げに喉を鳴らした。


「よぉ。退屈な一日の終わりに、今日も俺様が来てやったぜ」


「ええ、ありがとう」


ロレッタはリーフスを優しく抱き上げる。

リーフスは彼女の腕の中で得意げに胸を張り、小さな声で呪文を唱えた。


「いくぜ、『キャット・トランスフォーメーション』!」


リーフスの緑の瞳が妖しく光ると、彼の前足から放たれた柔らかな光がロレッタの体を包み込んだ。

彼女の体はみるみるうちに縮んでいき、手足はしなやかな四本の脚に、そして長く美しい銀髪は、そのままの色合いの輝く毛皮へと変わっていった。

ほんの数秒で、そこには美しい銀色の猫が一匹、たたずんでいた。

ロレッタは慣れた様子で体を伸ばし、自分の前足を見つめる。


「さあ、行きましょう。今夜の冒険へ」


銀色の猫ロレッタと黒猫リーフスは顔を見合わせて頷くと、軽やかに壁を駆け上がり、小さな換気口の中へと消えていった。


換気口の先は、屋敷の壁の中に張り巡らされた複雑な通路に繋がっていた。

二匹の猫は、その闇の中を迷うことなく進んでいく。


長い通路を抜けた先は、屋敷の屋根裏だった。

埃っぽい場所だが、二人にとっては自由への玄関口だ。

屋根瓦の隙間から外に出ると、ひんやりとした夜風が二匹の毛を撫でた。


「うーん、この風!今日もいい天気だ!」


リーフスが屋根のてっぺんで大きく伸びをする。

ロレッタもその隣に座り、深く息を吸い込んだ。


部屋の中の淀んだ空気とは違う、澄んだ夜の空気が肺を満たす。

眼下には、両親が眠るオルトルート子爵家の広大な屋敷と、その向こうに広がる街の灯りが見えた。


「今夜はどこへ行く?」


「そうね。今日は、あちらへ行ってみない?」


ロレッタが前足で示したのは、屋敷の壁際に広がる小さな庭園だった。


そこは、母親が客人の手前、体面を保つためだけに庭師を雇って手入れさせている場所。

昼間は人の目があるため近づけないが、夜ならば話は別だ。


二匹は音もなく屋根を伝い、庭園を見下ろせる木の上へと移動した。

月明かりに照らされた庭園には、色とりどりの花々が静かに咲き誇っていた。


赤、青、黄色、紫。

幽閉された部屋で色という概念を忘れかけていたロレッタにとって、その光景は息を呑むほど美しかった。


そして、彼女の鼻腔をふわりと甘い香りがくすぐった。

猫の鋭敏な嗅覚が、幾種類もの花の芳香を鮮明に捉える。

土の匂い、草の匂い、そして夜露に濡れた花々の甘く豊かで、生命力に満ち溢れた香り。

無機質な石壁と乾いた空気しかない自分の部屋には決して存在しない、命の息吹そのもののような香りに、ロレッタは心を奪われた。


「すごい…」


思わず漏れた呟きに、リーフスが彼女の顔を覗き込む。


「どうした?腹でも減ったのか?」


「違うの。この香り、なんて言ったらいいのかしら。心が温かくなるような…」


ロレッタは木から飛び降り、庭園の花に顔を近づけた。


白い薔薇、青い桔梗、黄色い百合。

一つ一つの花が、それぞれ異なる芳香を放っている。


彼女はその香りを一つずつ確かめるように、夢中で吸い込んだ。

その姿は、まるで楽園を見つけた子供のようだった。


しばらくの間、彼女はその場から動くことができなかった。

この香りにずっと包まれていたい。

そんな思いが胸の奥から湧き上がってくる。

その時、屋敷の窓の一つが開き、侍女が顔を出すのが見えた。


「やべっ、見つかるぞ!戻るぜ、ロレッタ!」


リーフスの声に、ロレッタははっと我に返る。

二匹は慌てて闇に紛れ、もと来た道をたどって部屋へと急いだ。


換気口を通り、再び窓のない殺風景な部屋に戻る。

リーフスがもう一度魔法を唱えると、ロレッタは元の少女の姿に戻った。


しかし、彼女の心はまだあの庭園にあった。

鼻の奥には、まだあの甘い香りが残っているような気がした。


「綺麗だったわ…」


ロレッタはベッドに腰掛け、うっとりとした表情で呟いた。


「花くらい、どこにでも咲いてるだろ」


リーフスは少し呆れたように言うが、彼女の表情を見て、それがただの「花」ではなかったことを察した。


「あの香り、もう一度嗅ぎたいな」


ロレッタはぽつりと、しかし切実な願いを口にした。


「この部屋の中で誰にも邪魔されずに、ずっと包まれていたい」


外の庭園は美しかった。

しかし、そこはいつ誰かに見つかるかわからない、束の間の楽園でしかない。

彼女が求めているのは、あの生命の喜びを心ゆくまで味わうことだった。


その痛切な願いを聞いたリーフスは、ふんと鼻を鳴らすと、得意げに尻尾をぴんと立てた。


「なんだ、そんなことか。俺様に任せとけ!」


彼はロレッタの前に立つと、目を閉じ、集中するように魔力を高め始めた。

彼の体から、淡い緑色の光が溢れ出す。


「主から教わった幻術魔法、なめんなよ!『イリュージョン・ガーデン』!」


リーフスが高らかに呪文を唱えると、信じられない光景が広がった。

何もないはずの石の床から、幻の蔦がにょきにょきと伸び始めたのだ。


蔦は壁を覆い、天井にまで達し、その先から次々と蕾が膨らんでいく。

そして、瞬く間に色とりどりの花が咲き誇った。


赤、青、黄色、紫。

先ほど庭園で見た花々とまったく同じ花が、部屋中を埋め尽くしていく。


それだけではなかった。

部屋中に、あの甘く豊かな花の香りが満ちていく。

庭園で嗅いだものと寸分違わぬ、生命力に満ちた芳香。


「すごい…リーフス…!」


ロレッタは言葉を失い、目の前の光景に立ち尽くす。

幻だとわかっている。

触れようとすれば、その手は空を切るだろう。


しかし、この香りだけは本物だった。

彼女は幻の薔薇にそっと顔を寄せ、深く香りを吸い込んだ。

至福の表情が、彼女の顔に浮かぶ。


「へへん、どうだ!俺様にかかればこんなもんよ!」


得意満面のリーフスに、ロレッタは心からの感謝を伝えた。


「ありがとう、リーフス。最高の贈り物よ」


その夜、ロレッタは幻の花畑の中で眠りについた。

それは彼女が生まれて初めて見た、最も美しい夢だった。





美しい夜を過ごした数日後。


ロレッタとリーフスは、いつものように猫の姿で屋敷内を偵察していた。

特に目的があったわけではない。

ただ、両親や使用人たちの日常を、壁の隙間や天井裏から観察するのが、二人にとっての娯楽の一つだった。


その日、二匹は両親の寝室の真上にある屋根裏に潜んでいた。

下からは、両親の潜めた、しかし興奮を隠しきれない声が聞こえてくる。


「…ふふふ、ついにまとまりそうですわ、あなた。例の商談」


「ああ。長かったが、これで我々の地位も盤石になる。ロレッタの結婚も、この商談を後押しするための最後の一手だ。実にいい駒になる」


父親の欲望に満ちた声が響く。

母親も満足げに頷いた。


「ええ、本当に。あの子の美貌も、ようやく役に立つ時が来たということですわ。無駄に食べさせてやったわけではなかったのですね」


「違いない。この結婚が成立すれば、莫大な富と伯爵家との強固な繋がりが手に入る。もはや我々の前に立つ者などいなくなるだろう」


金、地位、名誉。


彼らの会話は、無機質で乾いた欲望の言葉で埋め尽くされていた。

彼らは自分たちが手に入れる未来を語り、高揚した笑い声を上げている。


その会話を、ロレッタは静かに聞いていた。

ほんの数日前、彼女は生命の輝きそのものである花の香りに触れたばかりだった。

幻であっても、自分の心を豊かに満たしてくれた、あの美しい花畑。

それに引き換え、両親が追い求めているものは、なんと空虚で色褪せて見えることだろう。


彼らは富と地位という名の、窓のない部屋に自ら囚われている。

そのことに、本人たちだけが気づいていない。

ロレッタは静かにその場を離れた。


リーフスが心配そうに彼女の顔を覗き込むが、彼女は穏やかな表情をしていた。


哀れみ。

それが、彼女が両親に対して抱いた唯一の感情だった。

自分の部屋に戻り、少女の姿に戻ったロレッタは、壁に寄りかかって小さく息をついた。


(かわいそうに…本当に幽閉されているのは、あなたたちの方では?)


彼女は心の中で、まだ欲望の夢を見続けているであろう両親に向かって、静かに呟いた。




* * *




オルトルート子爵家はにわかに活気づいていた。


いつもは静まり返っている屋敷が、使用人たちの慌ただしい足音と声で満たされている。

客間の大掃除、銀食器の準備、厨房からの香ばしい匂い。

何かが起ころうとしているのは明らかだった。


その理由をロレッタに伝えたのは、彼女に同情的な若い侍女だった。

彼女はロレッタの昼食を運んできた際、小窓越しに声を潜めて興奮気味に話しかけてきた。


「お嬢様、お聞きになりましたか?近々、このお屋敷で大きなパーティーが開かれるそうですわ」


ロレッタは無表情のままスープを口に運び、静かに先を促す。


「なんでも、お嬢様のご婚約と旦那様の大きな商談の成立を祝う盛大なお披露目のパーティーだとか。王都中の貴族たちが招待されるそうですよ」


侍女はまるで自分のことのように頬を赤らめていた。


しかし、ロレッタの心は少しも動かなかった。

婚約、商談、パーティー。

どれも自分の人生とは何の関係もない、遠い世界の出来事に思えた。


「そう。ご苦労さま」


ロレッタが短く返すと、侍女は少し寂しそうな顔をしたが、すぐに「失礼いたします」と言って小窓を閉めた。


部屋に静寂が戻る。

隅で丸くなっていたリーフスが、大きなあくびをしながら体を起こした。


「ふん、くだらねえ。人間ってのは、何かにつけて集まって騒ぐのが好きだよな」


彼はそう言って、ロレッタの膝に飛び乗る。

ロレッタはリーフスの背中を優しく撫でながら、静かに呟いた。


「私たちには関係のないことよ。お父様たちが成功しようと失敗しようと、この部屋の壁がなくなるわけではないのだから」


彼女にとって、両親の計画はただの傍観すべき出来事のはずだった。

彼らがどのような結末を迎えようと、自分はただこの部屋で夜の訪れを待つだけ。

そう、この時までは本気でそう思っていた。




その夜、猫の姿になったロレッタとリーフスは、パーティーの準備で騒がしい屋敷の中を探検していた。

大広間には豪華な飾りが施され、厨房では料理長が部下たちに怒鳴り声を上げている。

その光景を二匹は梁の上から面白そうに眺めていた。


「へっ、あのデブ、威張ってやがるぜ」


リーフスが料理長を指して言う。

ロレッタはくすくすと笑いながら、さらに屋敷の奥へと進んだ。


父親の書斎に明かりがついているのが見えた。

普段は厳重に鍵がかけられているが、今日は少しだけ扉が開いている。

中から、父親と見知らぬ男のひそひそ話が聞こえてきた。


「…これで万全ですな、子爵様」

「うむ。相手もまさか、契約書にこのような仕掛けがしてあるとは夢にも思うまい」

「この取引が成立すれば、子爵様は莫大な利益を。そして私共も、そのおこぼれに与れるというわけですな。ひひひ…」


下卑た笑い声。

ロレッタとリーフスは顔を見合わせ、息を殺して聞き耳を立てる。

やがて、男が満足げに書斎から出て行った。

父親も上機嫌な様子で鼻歌を歌いながら、別の部屋へと消えていく。


書斎に誰もいなくなったのを確認し、二匹は音もなく中に滑り込んだ。


机の上の重要な引き出しには鍵がかかっていたが、リーフスにとっては無意味だった。


「こんなもん、俺様にかかれば赤子の手をひねるようなもんだぜ。『ロック・ピッキング』」


リーフスが前足を鍵穴にかざすと、カチリと小さな音を立てて錠が開いた。

ロレッタが器用に引き出しを開けると、中には羊皮紙の分厚い束が二つ、並べて置かれていた。


一つは金糸で縁取られた豪華な装丁の、いかにも公式文書といったもの。

ロレッタがそれをめくってみると、当たり障りのない取引内容が記されていた。


問題は、もう一つの地味な装丁の束だった。

ロレッタがそれに目を通し始めると、彼女の表情が険しくなっていく。


それは一見すると最初の契約書と同じ内容に見えた。

しかし、ページをめくるごとに、巧妙に隠された不誠実な条項がびっしりと書き込まれていた。

それは、取引相手の資産や権利を、数年かけて合法的に、そして完全に奪い取るための罠が仕掛けられた「裏契約書」とも呼べるものだった。


この契約が成立すれば、父親は莫大な富を得るだろう。

しかしその裏で、取引相手の会社は倒産し、そこで働く多くの従業員たちが職を失い路頭に迷うことになる。

彼らの家族も生活の糧を失う。


一つの家族の欲望のために、数えきれないほど多くの人々が不幸になる。

それは、決して許されることではない搾取だった。

これまで自分のことしか考えてこなかった。

他人の不幸など、自分には関係のないことだと切り捨ててきた。

しかし、目の前の羊皮紙の束から立ち上る冷酷な悪意を前にして、ロレッタの心に初めて波紋が広がった。


「…これは…許されることではないわ」


静かな、しかし強い意志を込めた声だった。

リーフスが彼女の顔をじっと見つめている。


「どうするんだ、ロレッタ。見なかったことにするか?」


ロレッタはゆっくりと首を横に振った。

そして、リーフスに向き直り、その緑色の瞳をまっすぐに見つめて言った。


「リーフス。少しだけ、悪戯をしてあげましょう」


彼女の口元には、いつもの穏やかな笑みとは違う、いたずらな笑みが浮かんでいた。

それは純粋な正義感からというよりは、むしろ退屈な両親の計画を台無しにしてやるという、壮大なゲームを前にした子供のような高揚感に近いものだった。


自分の人生を支配しようとする者たちへの、ささやかな、しかし決定的な抵抗。

リーフスは彼女の意図を瞬時に理解した。

彼の緑の瞳が、楽しそうにキラリと光る。


「おう、面白くなってきたじゃねえか!どうせなら、あいつらが泡吹いてぶっ倒れるくらい、派手にやらかしてやろうぜ!」


「ええ、そうね。ただ邪魔をするだけではつまらないわ」


ロレッタは裏契約書を元の場所に戻しながら、思考を巡らせる。


「お父様たちが最も執着し、誇りに思っているもの…『地位』と『体面』。それを、大勢の前で木っ端微塵に打ち砕いてあげるの」


二人の小さな共犯者は、顔を見合わせて不敵に笑った。

壮大で痛快な「悪戯」の計画が、この瞬間始まった。




計画を練るにあたり、ロレッタは情報収集を始めた。

昼間、食事を運んでくる侍女に、それとなくパーティーの招待客について尋ねる。


「王都中の貴族が来るのでしょう?お父様が特に気にしている方とか、いらっしゃるのかしら?」


侍女は、ロレッタが珍しく外のことに興味を示したのが嬉しいのか、喜んで知っていることを話し始めた。


「ええと、確か…旦那様がいつも苦々しい顔をされている、バルトロメウス侯爵様もいらっしゃるとか。とても公正な方、という噂ですわ」


バルトロメウス侯爵。

その名前を聞いて、ロレッタの頭の中に計画の最後のピースがはまった。


父親はなぜ自分を快く思わない人物を、わざわざ晴れの舞台に招待するのか。

答えは一つしかない。

侯爵の目の前で、この大きな契約を堂々と成立させ、自らの才覚と権勢を見せつけたいのだ。

なんという傲慢さ、そしてなんという愚かさ。


「その傲慢さが、あなたの命取りになるのよ、お父様」


ロレッタは心の中で呟いた。

計画の鍵は、バルトロメウス侯爵。

彼に、この不正の証拠を渡せばいい。


彼女は裏契約書に書かれていた、最も悪質な条項が記されたページを正確に記憶した。


「この部分を彼に見せればいいのね」


計画は固まった。

あとはそれを実行するための舞台装置を整えるだけだ。


「リーフス、お願いがあるの。パーティーの当日、会場中を大混乱に陥れるような、とびっきりの幻術魔法は使える?」


ロレッタの頼みに、リーフスはニヤリと笑って胸を叩いた。


「任せとけ!俺様の幻術は、主のお墨付きだぜ!どんな魔法がいい?料理を踊らせるか?それとも招待客全員をカエルに変えるか?」


「ふふ、そこまでしなくていいわ。少しだけ、皆さんの目をくらませてくれれば、それで十分」


二人は天井裏の秘密の空間で、来るべき日に向けて綿密な打ち合わせを重ねた。




* * *




パーティーの夜が訪れた。


オルトルート子爵家の屋敷は、煌びやかな光と音楽、着飾った人々の喧騒に満ちていた。

大広間には王都中の貴族たちが集い、シャンパングラスを片手に談笑している。

その中心で、主役であるオルトルート子爵夫妻は、満面の笑みを浮かべて客たちに愛想を振りまいていた。


「皆様、今宵は我が家のパーティーへようこそ!存分に楽しんでいってください!」


父親の自信に満ちた声が響き渡る。

母親も、高価な宝石を身につけ、扇を揺らしながら優雅に微笑んでいる。

彼らは、自分たちの人生が今、絶頂を迎えようとしていることを疑っていなかった。


特に父親は、会場の隅で静かに様子を窺っているバルトロメウス侯爵を見つけると、わざと見せつけるように声を張り上げた。

彼の傲慢さは、計画通り、最高潮に達していた。


その全ての光景を、大広間の天井に渡された太い梁の上から、二つの小さな影が見下ろしていた。

銀色の毛並みを月光のように輝かせる猫と、闇に溶け込むような黒猫。

ロレッタとリーフスだった。


「すごい人ね…」


ロレッタが感嘆したように呟く。


「ふん、烏合の衆だ。さあ、準備はいいか、ロレッタ?」


リーフスの緑色の瞳が、獲物を狙う肉食獣のように鋭く光る。


「ええ。いつでも大丈夫よ」


ロレッタは静かに頷いた。

彼女の心は、不思議なほど落ち着いていた。


眼下で繰り広げられる華やかな宴は、自分たち二人だけが結末を知っている壮大な舞台のように見えた。

二匹の猫は、主役の登場を待つ舞台監督のように、静かにその時を待っていた。




宴が最高潮に達した頃、父親がパンと手を打ち鳴らした。

音楽が止み、会場の注目が彼に集まる。


「皆様、ご静粛に!これより、我がオルトルート家と、ここにいらっしゃるマーチャント商会との歴史的な契約の調印式を執り行いたいと思います!」


父親はそう宣言すると、仰々しい足取りで書斎へと向かい、金庫に厳重に保管していた「裏契約書」を抱えて戻ってきた。


そして、広間の中央に設えられたテーブルの上に、それを広げる。

取引相手であるマーチャント商会の会長も、満足げな笑みを浮かべてペンを手に取った。


その時だった。


「…今よ、リーフス!」


「おうよ!喰らいやがれ!『カオス・カーニバル』!」


梁の上のリーフスが、前足を振り下ろす。

彼の体から放たれた魔力が、会場全体を包み込んだ。


次の瞬間、テーブルに並べられていた豪華なローストチキンが、突然立ち上がってタップダンスを始め、給仕が運んでいたワインのボトルがひとりでにコルクを飛ばし、赤い液体を噴水のように吹き上げた。

優雅に流れていたワルツは、調子っぱずれの不気味な葬送曲へと変わり、壁の燭台の炎は青や緑に色を変えて不気味に揺らめく。


「きゃああああっ!」


「な、なんだこれは!?」


「悪霊だ!悪霊の仕業だ!」


突然の超常現象に招待客たちは悲鳴を上げて逃げ惑い、会場は一瞬にしてパニック状態に陥った。

高価なドレスはワインで汚れ、見事な髪型は宙を舞うゼリーで台無しになった。


「な、何が起こっているのだ!?」


子爵夫妻も、あまりの出来事に狼狽し、目の前の契約書から完全に注意を逸らしてしまう。


その一瞬の隙。

それこそが、ロレッタが待ち望んでいた瞬間だった。


彼女は梁の上から、まるで一枚の銀色の羽のようにひらりと舞い降りた。

誰一人、天井から猫が降ってきたことになど気づかない。


彼女は一直線に契約書が置かれたテーブルへと駆け寄ると、計画通り、近くにあったインク壺にトンと前足を浸した。

そして、父親がこれから署名するはずだった場所に、くっきりと可愛らしい肉球の足跡をスタンプした。


しかし、彼女の真の目的はそれだけではない。

彼女はインクのついた前足を体毛でふき取ると、事前に記憶していたあの最も悪質な不正条項が書かれたページの一部分を鋭い牙で素早く破り取った。


そして、その小さな紙片を口にくわえると、混乱の中でもただ一人、冷静に、そして興味深そうに状況を見つめている人物の元へと駆けた。


バルトロメウス侯爵。

ロレッタは、侯爵の磨き上げられた革靴の上に、くわえていた紙片をそっと置いた。


侯爵は、足元の銀色の猫と、その口から置かれた紙片に一瞬驚いた顔をしたが、すぐに何かを察したようだった。

彼は誰にも気づかれぬよう、素早くその証拠の紙片を拾い上げ、懐深くしまい込んだ。

ロレッタは、任務完了とばかりに小さく頭を下げると、再び混乱に紛れ、いつの間にか近くに来ていたリーフスと共に、開け放たれたテラスの扉から闇の中へと姿を消した。




やがて、リーフスの幻術が解けると、会場にはめちゃくちゃになった料理と、呆然と立ち尽くす人々だけが残された。


パーティーは当然、お開きとなった。

父親は、神聖な契約書につけられた猫の足跡を見て激怒したが、それどころではない大惨事だった。

オルトルート子爵家主催のパーティーは、王都中の笑いものになった。


しかし、本当の悲劇は、数日後に訪れた。

バルトロメウス侯爵が、王宮に決定的な証拠を提出したのだ。


彼が懐から取り出した小さな紙片は、専門家による分析の結果、子爵が調印しようとしていた契約書の一部であると断定された。

そこに記された悪辣な条項は、王宮の役人たちを震撼させた。


徹底的な調査が行われ、オルトルート子爵家の長年にわたる不正や搾取が、次々と明るみに出た。

判決は、あまりにも早く、そして重いものだった。


財産は全て没収。

爵位も剥奪。

かつての栄華は、一夜にして崩れ去った。


オルトルート子爵夫妻は、街の裏通りにある陽もほとんど差さない薄汚い長屋の一室に追いやられた。

その後の顛末を、ロレッタに同情しこっそりと情報を伝えに来てくれた侍女が、涙ながらに語った。


「旦那様も奥様も、まるで牢獄に囚われたかのように、一日中、薄暗い部屋に閉じこもって、誰とも口を利かないそうです…。本当に、お気の毒に…」


侍女の言葉を聞きながら、ロレッタは静かに窓のない部屋の壁に寄りかかっていた。

彼女の心に、同情はなかった。

ただ、確信があるだけだった。


(だから言ったでしょう)


彼女は、今や本当の牢獄に囚われた両親を思い浮かべながら、心の中で静かにはっきりと告げた。


(本当に幽閉されているのは、あなたたちの方だったのよ)




* * *




オルトルート家の名は地に落ち、一族は混乱の渦中にあった。

親族たちは、没収を免れたわずかな資産を巡って醜い争いを繰り広げようとしていた。


しかし、その流れを断ち切る人物が現れた。

バルトロメウス侯爵である。


彼は王宮に働きかけ、今回の不正に一切関与しておらず、むしろ、幽閉までされ政略結婚に使われそうになった、最大の被害者とも言える令嬢ロレッタに同情が集まるよう世論を導いた。

そして、自らが彼女の後見人となることを公式に申し出たのだ。


彼の尽力により、オルトルート家の完全な崩壊は免れ、家名と最低限の資産はロレッタが継承するという形で存続が許されることになった。

その決定を、侍女がロレッタの部屋に伝えに来た。


「お嬢様…お嬢様が、これからのオルトルート家の当主様にと…」


侍女は感極まったように声を震わせた。

ロレッタは、その言葉を静かに受け止めた。


そして、ゆっくりとベッドから立ち上がると、生まれて初めて自らの意思で、固く閉ざされた部屋の扉に手をかけた。

重い木の扉は、ギシリと音を立てて外の世界へと開かれた。




扉が開かれ、廊下の窓から差し込む陽の光がロレッタの銀髪を照らした。

その光の中に立つ彼女の姿に、廊下に集まっていた使用人たちは息を呑んだ。


噂に違わぬ、いや、噂以上の神々しいまでの美しさ。

そして、長く幽閉されていたとは思えないほど、全てを見透かすような穏やかで理知的な瞳。


誰もが畏敬の念を抱き、自然と頭を垂れた。


新しい当主となったロレッタは、しかし、高度な政治を行ったり、難しい経営判断を下すことはできなかった。

彼女が行ったのは、屋敷で働く使用人全員を大広間に集めることだった。

執事も侍女たちも、料理長も庭師も、誰もが緊張した面持ちで新しい主人の最初の言葉を待っていた。

しかし、ロレッタが口にしたのは、命令ではなかった。


「皆さんの話を、聞かせてください」


ただ、それだけだった。


彼女は一人ひとりと向き合い、その目を見て静かに耳を傾けた。


両親から受けた理不尽な扱いの数々。

劣悪な労働環境。

低すぎる給金。

家族への心配。


彼らが抱える不満や困難を、ロレッタは一つずつ丁寧に取り除いていった。


給与は正当な額に引き上げられ、休日もきちんと確保された。

厨房には新しい調理器具が導入され、古くなった寝具は一新された。


その的確で、何よりも思いやりに満ちた改革は、屋敷のよどんだ空気を変えていった。

使用人たちは、恐怖ではなく心からの敬愛と忠誠を彼女に誓い、自発的に、そして生き生きと屋敷のために働くようになった。





屋敷の主となったロレッタだったが、彼女自身の生活は実はそれほど大きくは変わらなかった。

執事が用意した陽当たりの良い豪華な主寝室を、彼女は丁重に断った。


「私は今まで通り、あの部屋で結構です」


使用人たちは皆、不思議そうな顔をした。

なぜ、あの暗く狭い、忌まわしい思い出しかないはずの部屋にわざわざ留まるのかと。


しかし、彼女にとってあの窓のない部屋は牢獄などではなかった。

そこは、リーフスと二人だけのかけがえのない思い出が詰まった、世界で一番安心できる聖域だったのだ。


彼女の生活は新しいリズムを刻み始めた。

昼間は、当主として穏やかに務めを果たす。

バルトロメウス侯爵が手配した家庭教師から帝王学を学び、執事と屋敷の運営について話し合う。


そして、夜。

帳が下りる頃、壁の換気口から現れるのは、変わらぬ友人の姿。


「よう、当主様。今日も一日ご苦労さん」

「もう、からかわないで、リーフス」


ロレッタはリーフスの魔法で銀色の猫に変身した。

当主として正面玄関から堂々と外出することもできるのに、彼女はあえてあの小さな換気口からこっそりと抜け出すことを好んだ。


「おいおい、お前もう当主なんだから、堂々と正面玄関から出りゃいいじゃねえか」


屋根の上で、リーフスが呆れたように言う。


「うふふ、これが一番落ち着くのよ。それに、この方が冒険みたいで楽しいでしょう?」


ロレッタは楽しそうに笑った。


二匹は屋根の上を散歩し、眼下に広がる街の灯りを眺めた。

時には、街の菓子屋で買ったケーキを屋根の上で分け合って食べた。

物理的な自由と、精神的な自由。

その両方を手に入れた今、彼女は真の意味で解放されたのだった。




ある日の夜、街の散策を終えたロレッタは、慣れた足取りで換気口を通り自室へと戻った。

部屋の真ん中では、先に帰っていたリーフスが尻尾をぱたぱたと揺らしながら、彼女の帰りを待っていた。


「よう、おかえり、ロレッタ。今日も満足したか?」


リーフスの、いつもと変わらないぶっきらぼうで、けれど温かい声。

その何気ない一言に、ロレッタの胸は満たされるのを感じる。

彼女は猫の姿のまま、リーフスの体にそっとすり寄る。


「ええ、もちろん」


豪華なベッドも高価なドレスも、人々の賞賛も、このひと時には敵わない。


失われたものは、最初から何もなかったのだ。

彼女はずっと前から、この小さな部屋で世界で一番の幸せと自由を手にしていたのだから。

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