SHADE
風が吹く。
崩れた夢の隙間を技け、くたびれた死骸を砂に帰し、
吹き渡る風はどこからやってくるのだろう。
積み上げられた残骸を崩し、詰め込まれた思いを砕き、
風は夢の岩を地へと叩きつける。
粉々に砕けた砂は、一体どこへ消えたのだろう。
◆◆◆
「クラカナン。ここにいたのか」
ラシェンラガは上り詰めた最後の石段を上がるとそう言った。
クラカナンと呼ばれた者が振り返り、また背を向ける。
断崖から足を投げ出して崖下を覗き込んでいるクラカナンの側へ寄ると、ラシェンラガは吹き上がる強い風に足を取られないよう気を付けながらクラカナンの視線の先へと見入った。
クラカナンは、何も言わない。
「いつもいつもおまえはここだな。こんな岩くずの山に登り、座って、下の岩くずを見下ろす。顔を上げては違う岩くずを見る。 砂となり、龍巻となった岩くずを見る。
おまえは、いつもここだな」
小石を蹴り落とす。
カラン、カランと下の闇へ落ちていく虚ろな音が、渇いた空気に長く小さく響く。
何ひとつ返さず、音の消える先を覗くクラカナンに、ラシェンラガはもろ出しの肩を抱き、やれやれと背を向けた。
やれやれ。どうやら本当にやつには自覚がないらしい。自分と私が最後の人であるかも知れないという、自覚が。
そうして岩肌へと背を預ける。
クラカナンはまだ続く、音のかけらを拾っていた。いつ消えるかも分からない、風の音を。
下から吹き上がってくる風に目深に被った日除けのフードをはためかせて、ラシェンラガが後ろにいるというのに、クラカナンは独りだった。
そんなクラカナンの姿に、ラシェンラガは予期せぬ寒気に襲われ身を震わせる。
「クラカナン!」
堪えかねた叫びが口を突いた。
「いつまでここにいる気だ? 10日か? 20日か?
もうどれだけここにいると思う? どれだけいたか、おまえは覚えているのか?」
答えを求め、ラシェンラガがいくら間を取ろうとも、クラカナンは答えなかった。
そんなクラカナンの背に、不意にラシェンラガの胸は不安にかられる。
はたしてクラカナンは生きているのかと。
ラシェンラガが後を追い、ここまでようやく登ってきたとき。本当にクラカナンは呼び掛けに答え、振り返ってこのラシェンラガを見たのだろうか。
クラカナンの命が尽きないまでも、はたしてクラカナンにはラシェンラガが見えているのか。
「おいっ、クラカナン!」
たまりかねたラシェンラガの手が彼の腕へと触れたとき、初めてクラカナンはその面を上げた。
それだけのことに、われながら不自然に思えるほど、ラシェンラガはひるむ。
クラカナンの闇のような瞳に映る自分の姿を見て、まるで瓶の口いっばいに張り詰めた水を覗き込んでいるような気がした。
「ラシェンラガ」
クラカナンは静かな声でその名を口にした。
「な、何だ?」
「ここできみがどれだけしゃべろうと、何をしようと、一向に構わないが、そのことに際して僕に触れ、その問いの行方を僕に求めないでくれないか」
「クラカナン!?」
ラシェンラガが濡らしたのは、まるで小さな悲鳴だった。
引き攣り、短く消える。
思いももよらなかった、突き放すも同然の彼の言葉に、顔が蒼白しているのが自分でも分かった。
そんなラシェンラガを前に、なおもクラカナンは続けた。
「ずっと、長い時をかけてここまで来た。ここへ来るために僕は歩き続けた。そして僕はここへ来た。今、僕はここにいる。
ここより先はなく、もう、どこへも行かない」
「クラカナン! どうして!?」
ラシェンラガの悲鳴に、けれどもクラカナンは口を開こうとしなかった。
問われても、クラカナンは何も返さない。答えを求める限り。
止むことなど知らない風にびゅるるとあおられ、ラシェンラガの髪は燃えるように広がった。
同じ風に吹かれて、クラカナンの前髪も震える。ラシェンラガを見つめていると思われたその目は、実にその背より高くそびえ立つ背後の岩を見ているのだと分かり……彼は、ずっと砂ばかりを見つめていることが分かった。
クラカナンの前には、いくつもの岩の塔がある。
たくさんの砂を、瘤のように固めて、高く、細く、醜くとがってゆく岩の塔が。
先端にゆくにつれ、岩くずは崩れて砂となり、風に流される。そして砂は再び地に降りて、固く岩くずとなり、きっと、ラシャンラガやクラカナンの生きた歳月が風化しだすころ、また塔のように高くなるに違いない。
ラシェンラガは、その、気の遠くなるほどの先のことを、自分に向けられたクラカナンの広い背に垣間見た見たような気がして、 その途方もない長さに目くらみすら覚えた。
ではクラカナンはそうではないのか?
それは、永遠に近い時の長さだ。
「……おまえは、私にどうしろと言うのだ」
ラシェンラガはその背に向かい、なおも問いかけた。
「おまえはいい。ここを目差し、ここにたどり着き、ここを得ることができた。
だが私は何をすればいい? 私もいるのだぞ? クラカナン。ここには、おまえとともにここに来た、私もいるのだ。
見るがいい、クラカナン、おまえの目の先にあるものを」
ラシェンラガは遠く、クラカナンの視界に広がるすべてを両手を広げて指し示した。
「砂だ、夢の果てだ。これが世界の終点だ。クラカナン。おまえはここを目差していたのか? おまえは本当にこの景色を見ることを望んでいたのか?
ここがおまえの望んだ場所だと言うのなら、認めてもいい。だが私はどうすればいい? クラカナン。どうしろというのだ。おまえの求めた、おまえが独り なる場所で。
ここは果てだ。誰ひとりいはしない」
ラシェンラガは強く訴えて、強引にクラカナンを正面へと向けさせる。
フードの下のクラカナンの瞳は、風に変わっていく景色を何ひとつ映さず、今は何ひとつ変わらないラシェンラガの姿のみを映していた。
「クラカナンよ、なぜ私に答えない。私はどうすればいい? おまえが独りとなる場所で。
ああ、私には何もない。クラカナン。私の対よ。ここへ来るまで、おまえは私を見ていた。ここを知らず、おまえの目は今のように私の姿を映していた。
だがクラカナンよ。今のおまえが見るものは、渇いた砂漠のみと言うのか。おまえと対である私ですら、おまえの内へは入れなかったのか」
「ラシェンラガ。それは違う」
投げかける問いに何ひとつ返さないクラカナンへの絶望に涙していたころ。うなだれたラシェンラガの肩に手をかけ、ようやくクラカナンは口を開いた。
「クラカナン!」
期待に上がった顔を両手で挟み込み、クラカナンは彼女の頬を流れた涙を見つめる。
「ラシェンラガ。僕はここを目差してなどいなかった。ここを求めたのではなく、僕たちと同じ人を求めた。
僕たちだけであるはずがない。人類すべてが死に絶えてしまったわけではないと。
だから僕はきみを愛しんだ。愛しいラシェンラガ。
けれどここに着いたとき、僕の求めた物が何であったのかを思い知った。それを知るために、僕はあんなにも人を求めていたのだ。
それがきみを求めた、ラシェンラガ。僕の半身よ」
クラカナンの言葉にラシェンラガはかつてないほどひるんだ。
信じられないと目を見開き、1歩、2歩と後退し、ゆるゆると首を振った。
「クラカナン、ここを去ろう。ここは夢の果てだ。いてはいけない。
最後の人である私たちが絶望を知ってなろうか?
築き上げた夢の砕け散る様を見て、諦めに気付いてなろうか?」
「ラシェンラガよ。きみの言う人である者が、人の末路を見届けずにどこへとさまようのだ?
僕が最後であるというのは、それが義務であることの証左ではないか?」
「何が?」
ラシェンラガは純粋に問いかけた。
「このような場があるからと言って、なぜ義務などと思えるのだ、おまえは。砂となって崩れゆく夢の残骸を見るだけで、私たちには何ひとつできはしない。そうだろう? クラカナン。私たちに何ができると言うのだ。
見続けるだけのことが贖罪か? 全世界の人々の分までをも」
「では、なぜきみと僕だけが残ったのだ?」
クラカナンはラシェンラガを見つめ、その瞳の奥を覗き込んだ。
だがその目はやはりラシェンラガではなく、遠く、砂に消える果てを映しているとしか、ラシェンラガには思えなかった。
「人が消え、砂が残った。これは夢だ。一粒一粒が小さな夢だ。夢の残骸……きみがそう思うのも無理はない。だがそれではなぜきみと僕だけが残ったのだ?」
「クラカナンは私を拒絶するのか……?」
「それこそ間違っている、ラシェンラガ。僕がきみに考えてもらいたいのはただひとつ。なぜ僕ときみだけが残され、さまよっているのかということだ」
「クラカナン!」
「聞いて、ラシェンラガ。ここには何もない。流れる砂と、消え去る時と、砕けた夢と、再生する絶望が広がっている。なぜそのような場に僕たちはいるのか。
僕は必要とされているんだよ、ここに。この、人に積み立てられた夢の塔と、人に砕かれた夢の岩くずと.....。
人は、夢の砕けるのを見たいとは思わない。が、人のいない場では、これは余りにむなしい」
「おまえは分かっていない。 クラカナン、おまえを捕らえているのはこの地ではない、絶望だ! おまえは自身を否定しているのだ!」
ラシェンラガの涙に曇った言葉に、クラカナンはたとえようのない、曖昧な顔を見せて笑った。
「クラカナン。それでは私たちは何だ。なぜおまえは、残っているのは私たちだけだと識ったのだ?
世界に残っているのはわれわれだけかもしれないと、以前私に向かい、おまえは言った。だがそうでないかもしれない、とも言った。なのに、どうしておまえは決めてしまったのだ、私たちのみであると」
ラシェンラガはクラカナンの絶望を知った。
何日も歩き続け、なのにたどり着いた場所は変わらず広がる砂漠だった。
これは人の夢なのだ。人が見た、夢の残骸。片付けられなかった人の残しもの。
ではなぜそれを自分たちが見続けなくてはならないのか。何故さまよい歩き、埋め切れない絶望と一縷の慰めに身も心も弄ばれねばならないのか。
風に舞う砂のかけらのように。
クラカナンは絶望していた。人の残していった爪あとに。無惨な夢の置き忘れに。
人は、いずこかへと去ってしまった。
「ラシェンラガ。夢のかけら……。なぜ、いつから僕たちは、自分たちを最後の人であるなどと思ってしまったのか」
クラカナンはそう言って、伴侶を見つめた。
何も気付けないでいる彼女をあわれむように。
「彼らは夢を生み、はぐくみ。そうして割れた夢の中から生まれたのは砂であると知るとともに、彼らは消えてしまった。絶望と悲哀の想いを生まれたばかりの砂に託し、割れた殻とともに僕たちが残された。
ラシェンラガ。人の捨てた夢を歩む僕たちが、なぜ人であるなどと思えたのだ?」
「クラカナン? 何を言う。私たちは人に違いないだろう。
ではおまえはこの身体を何だと言うのか。私たちは砂ではない。決して、遠く、ただそびえ立つ岩くずなどではなく、ましてや巻き上がる龍巻ですらない。ただ2本の短かな腕と、幼稚な2本の足があるのみだ。
クラカナン。もっと西へゆこう。きっとそこには楽園がある。砂などどこにも存在しない。それを見れば、きっとおまえの気も変わるに違いない。
そこで私はおまえの子を生み、新しい子を幾人も成し、おまえのために家族を作ろう」
「無駄なあがきだ」
「あがきなどではない! 人として当然のことだ!」
ラシェンラガはクラカナンの言葉を強く否定した。 自分たちは人であると、クラカナンにも思いだしてほしかった。
人はいると。
まだ見つけられていないだけで、きっと、この世界にはわれわれ以外にも人はいるのだと。
けれどそれは慰めだった。失望を食い止めるために自らへとほどこした、壁のようなものだった。
ラシェンラガ自身、そのことを知っていた。だからこそ、クラカナンの言葉を否定しきれなかった。
否定しきれないということは、同じ考えが自分の中にもあったということだ。目をそむけ、暗闇に閉じ込め、芽吹いていなかっただけで……。
だからこそ、彼女は口にしても平然としていられたのだ。自分たちは最後の人であるかも知れないと。
しかしそれが真実であるなどと、願ったことは1度たりとない。
「クラカナン。私はおまえを愛している。人だからだ。人であるからこそ、このような想いが持てるのだ。クラカナン、おまえも私を半身と呼んだではないか!」
ラシェンラガは哀願していた。クラカナンが何を言いたいのか、うすうすと分かり始めていたのだが、それを否定するだけの言葉を彼女は見つけられなかった。
そんなラシェンラガを見て、クラカナンの瞳はかすかに揺れる。
「ラシェンラガ……愛しいラシェンラガ。きみの言うとおり、こんなにもきみを愛しいと想うのに、だがなぜだろう。僕はこの地を愛し始めている。強く、願いは強くなる。この地への愛が強く僕の想いを惹き付ける。
ラシェンラガ。きっと僕はこの地を求めていた。そのことに気付くためにきみを愛していたのだ」
「クラカナンッ!」
「ラシェンラガ……どうかこれ以上僕に近付くな。きみの求めるものはここにはないのだから。
きみはここに留まることを拒んでいる。ここが、きみの目差す場ではないからだ。
ここはきみの目的地ではない。きみの望んだ留まる地ではない」
「そんなこと……そんなこと、知っていた!」
クラカナン! なぜ分からない? 私の望むのは、人としての生き方だ。
クラカナンの子を生み、たとえそこから人類の芽をはぐくむことは不可能でも、私はクラカナンとともに、人として生きたいのだ!
ラシェンラガはそう言おうとして、のどを詰まらせた。
それを、クラカナンは望んでいなかったのだと今さらに気付いて。
クラカナンの魅せられたもの。
それがクラカナンの向こうに続く限り、クラカナンはラシェンラガ1人のものにはならないだろう。
「 …………相手が、砂漠ではな……」
ラシェンラガは低く呻いた。泣きたくても、もう涙は出なかった。
「ラシェンラガ。僕たちは人ではない。いや、それどころかもしかすると僕たちは……僕たちが、最後の人類の見た夢なのかも知れない」
クラカナンは俯いたラシェンラガの頬を正し、静かに告げた。
「最後に消えた人類が願ったのは、1人でもいい、人がこの世界を見捨てないことだったのではないだろうか。その夢から孵化したのが僕ときみとすれば、僕たちが対なのも、どうして互いを愛しまねばならないと思い込んでいたのかも、分かる」
「思い込みだと!? それがクラカナンの考えか!」
ラシェンラガは強く突き放し、クラカナンの手の届く域を抜けた。
「クラカナン。私たちが夢だと……どこぞの誰かの生み出した夢と思うのか、クラカナンは! あの広大に広がる砂と私が……同じであると、言うつもりか! おまえは!」
ああ、だから私を愛したと、彼は言ったのか。この地を愛するために、私を愛する必要があったのだと、彼は思っているのか……!
ラシェンラガはもう、泣くことすらできずに、ただ奥歯を噛み締めた。
こんな思いでの泣き方など知らない。一体どうしてこんなことになってしまったかということも、クラカナンと出会ったことも、なぜ人が消えてしまったのかということも……。
ラシェンラガは思い詰めた目でクラカナンを見つめた。
「クラカナン。おまえへのこの愛しい気持ちも、おまえと離れたくないと願う気持ちも、すべて、他の者から与えられたものであると言うのなら、では、私はおまえを失うしか手立てはないのか」
おまえを失うことで、愛を持ち続けることで、それは違うということを証明するしかない。
「あるいは、違うのかも知れない。僕の思い違いかも知れない、ラシェンラガ」
深く被っていたフードを下ろし、クラカナンはその亜麻色の髪を風にはだけさせた。
真上から照る光に薄く透き通るような髪は、地に着くほどに長く、けれどその一端すらも触れない。
あと少しでラシェンラガに届くといった所で、ラシェンラガは退いた。
「愛しいラシェンラガよ。きみの望む地はここではないというのなら、それこそが僕ときみが添いきれない証となろう」
「……ここは、おまえ、クラカナンの望む地。だがおまえは独りとなる地を望んだのだ! それでは私の入る隙間など有り得ないのは当然ではないか!」
「……あるいは、夢は僕だけなのかも知れない。きみは人で、僕は夢なのかも知れない……。その逆かも知れない……」
「今度は私がおまえを生み出したとでも言うつもりかっ! それならば私はおまえが隣にいてくれることを願うぞ! ――だが、おまえはそれを願ってはくれなかった……。
クラカナン。お願いだ。私とともに、ここから離れてくれ。
あぁ、気が狂いそうだ……」
そう言うと、ラシェンラガは両ひざを落としてクラカナンの髪に身をゆだねた。
しなやかで柔らかな幾千もの糸髪が、風に吹かれてラシェンラガにまといつき、頬に触れる。その一端に唇を押し当て、何度も口付けて、ラシェンラガはクラカナンに哀願していた。
「ラシェンラガ……」
クラカナンは足下へ跪いたラシェンラガを見下ろし、その名を呼んだ。
「何も問いかけるな。 その身を僕に触れさせるな、 ラシェンラガ。きみを失いたくない。だが僕はこの地と契り合った。離れることはならない。
きみは去らねばならない。きみの望んでいる物はこの地にはない。ここは、僕独りがいなくてはならない地だ。
どうか僕に話しかけるな、ラシェンラガ。決して僕の心を揺り動かすな。きみへの情と、この地への思慕に、僕は引き裂かれそうになる……」
「クラカナン……」
「ラシェンラガ、僕たちは夢の子だ。僕はそう思う。だがこれは僕の思いだけで、きみがもし、あくまで自らを人であると言い張るのならば、きみは僕から離れられるはずだ。いや、離れなくてはならない。
僕たちは別れ、きみはここから去らなくてはいけない。それが証明だ」
その言葉に、ラシェンラガのうなだれた肩が、クラカナンにも分かるほどに強く震えた。
そうでなくてはならない。
『ラシェンラガ』は『クラカナン』を愛しているのだから。
(ではこの想いは、私の感情ではないのか?)
ラシェンラガは一瞬ためらった。そのためらいが、彼女に決意させた。
ラシェンラガの噛み締められた唇が血の涙をしたたらせ、地に落ちたそれを手のひらで砂に紛れさせる。
そうしてラシェンラガは立ち上がった。
「クラカナン。おまえの言うとおり、私は去ろう。今、この足で私はここを離れ、戻らないと誓おう。
だがクラカナン。私はおまえを見捨てるのでも見捨てられるのでもなく、おまえを愛するがゆえに、私はこの地を離れるのだ。
そうだ、私は破れた。おまえの疑惑と、夢を愛しむ信念に。
だが。……ああクラカナンよ。ただ1度でいい。答えてくれ。
おまえは私を愛してくれていたのか? 本当に、人として、私を愛してくれたのか?」
クラカナンは沈黙を守り、背後へと退いた。
逃げではない。放れだ。
ラシェンラガは最後の時の長さに悲鳴を上げかけ、それもできず。
ただ、乱れた髪を梳き上げた。
「……クラカナン。私の半身よ。私は人だ。 おまえはこの夢の地に殉ずるとしたが、そんなおまえを見続けることは、私には到底堪えることなどできはしない。ましてやここは私の目差す地でもない。
人は、絶望に慣れてはいけないのだ。狂いかける独りにも。
だから私は捜すとしよう。私を受け入れてくれる人々がいる地を。そこがきっと私の目差す所なのだ。……今までの、おまえであったように……。
クラカナン。ここは、私たちは来てはいけなかった場所だ。ここは聖域なのだ。なのにおまえは……いや、やめよう。今のおまえは夢だ。私の知るおまえではなく。であれば、私に何を表わすことができようか。
だからおまえはいつまでも、そうして自らの信じるとおり、もういない人の見た夢の残骸として、この地にいるがいい。そう、守人としてでも。
自分は夢のくずを守る守人として作られた夢であるとでも思い込み、いつまでもここにそうしているがいい。そうすれば、堪えることもできるだろう。そしてきっといつか、だれかがこの地にたどり着き、おまえの元を訪れるだろう。そのとき、おまえはようやく私の言葉を真実として知ることができるに違いない。長い、永い、時の果てに。人であれば、押し潰されそうな孤独の果てに。
この地にておまえが見つけるその姿は、もしかすると私かも知れない。けれど今、私は待つよりも、捜したいのだ。探さずにいられない。
クラカナン。おまえを心から愛しているよ。おまえは私の……。
でも、さよなら」
さよなら……。
その言葉が生まれ、消えるまでの間。なぜか風は凪いだ。
高く舞い上がった砂粒が地に向かって落ち着く瞬間、また巻き上げられる。その間が『クラカナン』と『ラシェンラガ』の別れだった。
クラカナンはこのときになって、ようやく、ほんの半瞬だけ、ひるんだ。
完全に背を向け切れずに、けれど一歩一歩踏み出すラシェンラガの足は確実に石段へと吸い寄せられていく。その、憐れんで見つめる目が自分を映さなくなった瞬間。クラカナンは小さくラシェンラガの名をつぶやいた。
聞き違い、幻聴であると思いながらもラシェンラガは敏感に振り向いた。初めは肩越しに、そしてやがて全身で振り返る。
クラカナンの手は軽く広げられ、そしてその唇は笑みのように引かれていた。
淡い、光の膜がクラカナンの周囲を取り巻いている。
「ラシェンラガ。きみのその問いには答えないほうがいいのだろう。きみもまた、その答えを知っているようだ。僕はすでにきみの知るそれではない。
僕は人としての思いなど、忘れてしまったよ。忘れることは、覚え続けることよりもはるかにたやすい。
そしてクラカナンは負けたのだ。独りの苦しみに。悩み続けることの辛さに。そんな僕がきみを愛していると口にしたところで、その想いを忘れるのはこの瞬間にもできる。
クラカナンは何ひとつ答えられない。答えることなどできはしない。けれどラシェンラガ。これが僕の、きみとの別れへのはなむけだ」
そしてゆっくりと青と緑の衣ははためく。 上に、下に、横に、無限に。その狭間へと堕ちるように――――――
「クラカナン!」
その行為に、ラシェンラガは引き攣った声で叫んだ。
クラカナンの姿はもうそこにはない。 ゆっくりと背後の存在しない地へと踏み出し、クラカナンの身体は消えた。
退くその潔さには怖れもなく、ただ笑みだけを向けて。
クラカナンは消えた。
ラシェンラガは不意に思い出す。出会ったとき、肩までもなかったクラカナンの亜麻色の髪を。
しかしそれもやがては尽きて、視界より見えなくなる。
クラカナンはもう見えない。闇に飲まれた。今まで2人で過ごした日々の重さに引きずられ、そして振り切ることもできずにともに堕ちたのだ。その心の弱さに裂かれて。
彼の消えた先を覗き込みながら、ラシェンラガはそう思った。
クラカナンは、もうどこにもいない――――
◆◆◆
ラシェンラガが最後の石段から擦るようにして地へと降り立ったとき。そこには半分砂に埋もれた青と緑の衣があった。
クラカナンの姿はない。 ラシェンラガもあえて砂を掘り返したりして、そこに埋もれているかもしれない身体を捜そうとはしない。
ラシェンラガはただ一度だけ身を折って、その布を取った。
砂がこぼれ落ちて、風に舞って散っていく。
クラカナン。ラシェンラガの恋人であったクラカナン。クラカナンは最後までラシェンラガを拒絶した。全てに絶望し、人を捨て、そのくせそうして夢になってまでもクラカナンはラシェンラガへの愛が真実であったことを認めない。
……いや、もしかするとクラカナンはラシェンラガを愛してくれていたのかも知れない。それは、ラシェンラガの望む愛の形ではなかったにせよ、その弱さで、精いっぱいラシェンラガを包んでくれているのかも知れない。ただそれが、ラシェンラガの望むものとは違っていただけで。
あまりにかけ離れ過ぎていたのだ。だからクラカナンは死を選び、ラシェンラガより永遠に離れた。
それは視覚的・触覚的な死である。そうして砂となった。自らの望んだとおり、夢の一端となってこの地に留まる。砕けた夢の礎と交ざり合い、いつか再生する夢を持ち続ける。
ラシェンラガは手の中のそれに唇を寄せ、押し付けると仰ぎ見た。
そこにクラカナンの姿を見たような気がして。
「クラカナン、おまえは待つことを義務とした。だが私は捜したい。夢を、私はこの手で造り出したいのだ。人として、それが私の愛だ。
おまえとは違う、おまえには持ち得ない……」
くっとのどをそらして上を向く。
ラシェンラガの手が大きく振り上げられ、布を張ると、それをまとう。そして高く巻き上がる竜巻の接近を避けて、ラシェンラガは西へと向かって踏み出した。
永遠に広がっているかも知れない砂の向こうへ思い馳せ、今はもう、クラカナンを眺めやることもなく。振り返りもせずにただ去って行く。
不思議と今の彼女の心にはクラカナンへの断ちがたい思慕もなく、ただ、空いてしまった空間を感じていた。
そんなラシェンラガが果ての先で 『アシュト』と出会うのは、まだもう少し先のことだ。
もう少し。ラシェンラガの髪がクラカナンほどの歳月を迎えるころ。
そうしてラシェンラガとアシュトは出会うのである。
『SHADE 了』