川岸のニムと洞窟の冷気(3)
登り道はじわじわと暑さを増していく。頭上では蝉が鳴きはじめ、木立の隙間から陽が降り注ぐ。汗が一筋ずつ背を伝う。
「朝の涼しさ、もう跡形もないな。もう少し歩いたら、服から汗、しぼれそう」
「洞窟に入れば少しは涼しいだろう」
リアが笑い、ルゴルも小さく息をつく。
やがて道の先に、岩陰に口を開けた洞窟が見えてきた。崖の斜面がえぐれたような暗がりは、周囲の暑さと反比例するように、どこかほっとする空気を放っている。
「じゃ、行こっか」
リアが剣の鞘を軽く叩きながら言い、ふたりはそのまま暗がりへと歩を進めた。
洞窟に一歩踏み入れると、空気ががらりと変わる。涼しさとともに、湿った岩の匂いが鼻をかすめる。外の照りつける陽射しが遠く感じられた。
「……こういう洞窟、夏だけはありがたいよね。魔物さえいなきゃ、避暑地になりそう」
「いなきゃ、な」
ルゴルの返しに、リアは「それなんだよね」と苦笑いを浮かべる。
「魔物がいるからコウモリも出ないんだけど……魔物がいる時点で台無しだな」
リアが首元をパタパタと扇ぎながら笑う。
「スキタリド、今回は中型って聞いたけど、さてどうかなあ」
「昨年のよりは小さいらしいが、成長期ではある。確定ではない」
「剣でいけるといいんだけどな。……ダメそうなら、一回外に出るから、よろしくね」
「前回の個体も剣で十分戦えていた。慎重に動けるなら、深く刺せる剣の方が有利だ」
ひやりと湿った洞窟の空気の中、ふたりの声と足音が響く。
軽口を交わしながらも、ふたりの足取りは次第に慎重になる。
洞窟を進むにつれ、空気がまたわずかに変化した。湿り気とともに、土とは違う――湿った甲殻のにおいが混じる。
「……ここっぽいな」
リアが小声でつぶやき、立ち止まる。岩の裂け目のような横穴。その奥に、わずかな気配があった。
リアが剣を抜く。ルゴルも矢を番える。
「見えた。大きいのが一体と……小型が数体……10体はいないかな?まだ気づかれてないね」
リアの視線の先、洞窟の闇の奥に、節足の影がぴたりと張りついていた。
ギチ、と何かが擦れる音。続けて、ひときわ大きな殻の塊が、ゆっくりと姿を現す。
「……サイズは、中型よりちょい大きめ、かな」
「秋まで放っておけば、厄介だったな」
「うん。今が正解って感じ」
ふたりはごく短く言葉を交わすと、自然に呼吸を合わせた。
節足のうねりがじわりと加速し、音もなく距離が詰まってくる。
剣と弓が構えられる。
動き出す影に向けて、ふたりは静かに、一歩踏み出した。
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地を擦るような脚音が響いた。
スキタリドが姿勢を低くし、鋏脚を広げる。巨体の割に動きは鋭く、跳びかかろうとする気配を全身にみなぎらせている。
「来るよ」
リアが低く言い、斜めに構えた剣に重心をかける。捌きに寄ったその構えは、相手の勢いを殺すための準備だった。
次の瞬間、スキタリドが跳ねた。
地面を蹴る音と同時に、リアは一気に滑るように身を引き、横へ躱す。鋏脚が空を斬り、風を裂く音が響いた。
「目、狙って!」
リアの声が飛ぶよりわずかに早く、ルゴルが矢を放つ。
一矢は鋏脚に弾かれるが、二矢目が複眼を正確に射抜いた。鈍い音が響き、スキタリドの動きが一瞬たじろぐように緩くなる。
その隙を見逃さず、リアは素早く回り込み、腹の節に剣を滑らせようとする――が、刃は厚い皮膜に弾かれた。
「……っ、くっそ、浅い!」
リアが後退しつつ態勢を整える。すぐにスキタリドが体勢を立て直し、横薙ぎに鋏脚を振るう。リアが跳ね退った足元に、ルゴルの矢が突き立った。
リアは目を見開き、すぐにその意図を察する。
(危険域の印……)
矢は狙って外された。射線の先に潜む危険を知らせるためだ。リアは小さく頷き、短く返す。
「ありがと」
矢を次々と番えるルゴル。数本は間接に刺さったが、最後の矢が複眼の手前で弾かれると、スキタリドは一転して岩陰へと姿を消した。
その動きに合わせ、周囲で様子をうかがっていた小型の個体たち――リアが先ほど確認していた群れ――も、静かに岩の奥へと引いていく。
「あー……小さいのも一緒に隠れたか」
リアが目を凝らすようにして岩の奥を見ると、ルゴルは弓を肩にかけ、腰の道具袋に手を伸ばす。
「群れで連携してる可能性がある」
「ちょっと利口すぎない? やっかいだな……」
リアが小声で肩をすくめ、剣の柄を握り直す。
「引きずり出す」
ルゴルが煙玉をひとつ取り出し、風向きを確認する。
リアが息を整え、投擲の邪魔にならない位置へ動いた。
火をつけた煙玉が岩陰へ転がっていき、白煙が奥へと流れ込んだ。
次の瞬間、スキタリドが煙を嫌って姿を現す。
「よし、もう一回……!」
リアが踏み込む。今度は回り込むように、狙いを絞って殻の合わせ目を突いた。
刃が食い込む感触――確かに通った。
「……入った!」
軋むような声をあげるスキタリドの脚を、ルゴルの矢が正確に撃ち抜く。片脚が崩れ、よろめいた巨体に、リアが追撃を浴びせた。
ふたりの息は乱れていたが、動きに迷いはなかった。
タイミングを読むでもなく、自然に組まれる動線。
狙い、攻め、削り、支える――役割は既に共有されていた。
ルゴルが最後の矢を番えるのと、リアの剣が腹部に沈むのは、ほとんど同時だった。
スキタリドの巨体が、岩を揺らすように崩れ落ちる。
静寂が訪れた――かに見えた。
――カサ……カサッ。
奥の岩陰、暗がりから複数の脚音がこぼれた。
「……来るか」
ルゴルの手が弦にかかり、リアも自然に構え直す。
姿を現したのは、やや小ぶりなスキタリドたち。群れとしては小さいが、反応速度は速い。
「逃げ遅れ……というより、タイミングを見てた感じかな」
リアが剣を軽く振り、呼吸を整える。
矢がひとつ、音もなく放たれ、一体の胴に正確に突き刺さる。
「数を減らす」
ルゴルが淡々と矢を放つ。射るたびに、小型のスキタリドが一体ずつ地に伏していく。
リアも剣をひと振りし、背後から回り込もうとした個体を切り捨てた。
横から飛びかかってきた一匹の動きは素早かったが、着地よりも速く斬撃が振り抜かれる。
「……終わりかな」
リアが肩越しに振り返る。
「動きはない。これで全部だろう」
ルゴルが矢を収め、静かに応じた。
洞窟に、ようやく本当の静寂が戻った。
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スキタリドの巨体が沈黙してから、しばらく。
洞窟の奥にはまだ、戦いの熱と湿気がじんわりと残っている。
「ふぅ……」
リアが剣をひと振りして粘液を飛ばし、鞘に収める。
「毒のにおい、なんか前よりきつくないか? 刺さるような感じするんだけど」
「成熟していたな」
ルゴルは矢筒を確認しつつ答える。残りは少ないが、想定の範囲内だった。
「前回より小さいが、成長に時間をかけた個体だ。殻も毒も整っていた」
「……なるほどね」
リアは軽く頷き、息を吐く。
「よし。じゃぁ、回収始めよっか」
ふたりは素材の確認を始めた。
リアは巨体の横にしゃがみこみ、甲殻の合わせ目に指を滑らせる。無理なく開く角度を見極めながら、ぐっと指先に重さを乗せていく。
「うわ、これ間違って突いたら終わるやつだ……。すごいよ、この袋。張ってるし、薄い」
眉をひそめながらも、どこか面白がるような声。リアが少し身を引くと、すぐにルゴルが短剣を構えて横に入る。
切開は最小限。余計な力をかけず、毒袋と内臓の間にわずかな空間を作る。
リアが殻を支え、ルゴルが黙々と作業を進める。
「いつも思うけど、ほんと器用だよなー。剣で殴ってるほうが百倍楽じゃない?」
「剣はお前に任せる」
「だよね~。私もこういうの、嫌いじゃないけどさ」
素材がひとつ、またひとつと布に包まれ、麻袋に収まっていく。
リアが牙の根本を確かめながらつぶやいた。
「今回、毒液の質いいかも。今回も矢じり用に保存しておく?」
「ああ。そのつもりだ」
ルゴルが短く応じる。指先の動きは丁寧だが速い。
やがてすべての素材が袋に収まり、ふたりは同時に立ち上がった。
洞窟の奥に、ふたたび静けさが戻っていた。
「……さて、撤収かな」
リアが伸びをしながら言う。
「外は暑いだろうなー……。この涼しさ持って帰れないかな?」
「袋に入るならな」
「惜しい……あと一回り小さければ」
ふたりは肩の荷を整え、岩肌の通路へと歩き出す。
洞窟の出口へ向かううちに、空気の層がわずかに変わる。
ひんやりとした風が揺らぎ、やがてほんのりと熱が混ざり始めた。
石を踏む音がだんだんと乾いていく。
やがて、開けた出入口にまぶしい光が差し込む。
目を細めながら、ふたりは深く息を吸い込む。
草葉を光らせる夏の陽射しが、肌を焼くように照りつけていた。
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町の輪郭が見えてくると、空の青さがぐんと広がったように感じられた。
昼前の陽射しはもう強くなってきていたが、山道を抜けて町へ下る風にはまだ涼しさが残っている。
「いやぁ、やっぱ夏は朝に限るね。昼になったらもう、動きたくなくなる」
リアが大きく背伸びをし、肩を軽く回すと、装備がカシャリと鳴った。
「帰って昼飯食ったら、午後は休みでいいよな」
「当然だ」
ルゴルの即答に、リアはふっと笑う。
町の門をくぐって石畳を進むと、ギルドの扉の向こうから、ちょうど一組の冒険者が出てくるところだった。
「はい、気をつけてな」
と声をかけて見送るヤルクが、ふたりに気づき、手を上げた。
「おう、戻ったか。お疲れさん。元気そうで何よりだな」
「うん、楽勝だったよ。中型ひとつ。ちょっと賢かったけど、去年ほどじゃなかった」
リアが皮袋をカウンターに置きながら答える。
「幼体は数体いたが、すぐ処理した」
ルゴルが補足しつつ、帳面を開いて記入に取りかかる。
「さすがだな。……去年のが立派すぎたんだな。今年のは育ちかけってとこか」
ヤルクが皮袋を受け取り、ちらりと中を覗く。
「毒液は処理済み。一部は冷却してある」
ルゴルは簡潔に言いながら、納品書にさらさらと記入していく。
「はいよ、ギルド分はこっちで保管しとく」
「それと、洞窟に向かう途中の川でニムを見たよ。甲羅干ししてた」
リアが水袋の栓をゆるめながら言うと、ヤルクは「あー……」と眉をしかめる。
「産卵期か。子どもに近づかせないよう、注意の貼り紙出しとくかな。……“裏返すと呪われる”ってな」
ふっと息をつくように言ってから、続ける。
「昔から、ああいうのは水辺で事故が起きる前に“怖がらせて止めさせる”もんだからな」
「分かる。実際、裏返すとまあまあ呪われそうな見た目だったけど」
リアがくつくつと笑うと、ルゴルもわずかに口の端をゆるめた。
すべての確認が終わり、ヤルクが袋をひとつ、カウンターに置く。
「ほれ、今日の分だ。よく働いたな」
「ありがと。じゃ、またね」
リアが軽く手を振り、ルゴルは静かに一礼する。
外に出ると、町には夏の光とざわめきが広がっていた。
「さて、昼か。宿戻って、荷物置いて、それからだな」
「飯は外か?」
「外がいい。汗も引いたし、おなか空いたしね」
石畳を踏んで歩き出すふたりの背に、夏の白い光がまっすぐに降り注いでいた。
盛夏の虫祭りができて満足です。




