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川岸のニムと洞窟の冷気(2)

 夜が明けきらぬうちに、ふたりはそれぞれの部屋で身支度を済ませた。パンと干し果実を軽くつまみ、水筒の確認と装備の点検を終えたころには、まだ町の空気も静かだった。


 夏の朝は早い。だが、陽が本気を出す前の空気はまだ涼しく、通りを吹き抜ける風が肌を心地よく撫でていく。

 町の通りには人影も少なく、パン屋の裏口だけが開いている。焼きたての匂いが通りに漂っていた。


「……今日も焼いてるなあ。あの匂いだけで二食目いけるわ、今」

 スンと鼻を鳴らすリアの言葉に、ルゴルはちらりとパン屋の方へ視線を向けた。

「戻りに寄るか」

「うん、それまでに売り切れてないといいな」


 そんな軽口を交わしつつ、ふたりは町外れの道へと歩み出した。


 今回の目的地は、昨日ギルドで聞いた洞窟。昨年のような湿地ではなく、比較的歩きやすい丘陵地帯を抜けた先だという。


「ルゴル、たしか川があるって言ってたよね? 途中でちょっと足だけでも浸かれたら最高なんだけど」


「流れによるな」


「ん、見て決めるってことか」


 陽が昇るにつれ、草の匂いが濃くなる。

 森に差しかかる頃、水音がかすかに聞こえはじめた。やがて木々の間から、静かな川が姿を現す。


 流れは穏やかで、水面には木漏れ日が揺れている。石がごろごろと転がる川べりには、苔と草が涼やかに茂っていた。

 リアはそっと歩み寄り、しゃがみ込んで指先を水に浸す。


「いいね。流れがあって、よく冷えてる」

 リアはしゃがみ込み、指先で水をひと撫でする。

「うん、入りたい。入りたいけど……」


 目を細めて川辺を見渡すと、すぐに視界に入ってきた。


「……いるね、ニム。背中つやっつやのが、甲羅干ししてる」


 川べりの石の上、黒光りする小さな甲虫が数匹、丸まるように張りついていた。

 わずかな身じろぎで甲羅がつるりと美しく揺れて見えるたび、その背が青く光る。


「この時期の川岸であれ見つけるってことは……」

 リアは川面に目を凝らし、指先をかすかに動かす。

「……やっぱいた。水の中、呼吸器だけ出してる幼虫もいる」


 陽の角度で時おり見える気門。

 小さな水中の影が、静かに揺れている。


「産卵期だな」

 頷くルゴルに、リアは小さくため息で返事をすると、立ち上がった。

「だね。……水浴びはナシか。残念」


 指先の水を払いながらルゴルに振り返る。

「背中の素材、取るなら今が狙い目かも。……どうする?とってく?」


 ルゴルは矢筒から一本を抜いた。


「当然だ」


「よし、じゃあ、回収していこうね」

 リアは腰の剣に手をかけながら、楽しげに笑った。

「久々に剣振る気がする。斧ばっかだったからな~」


 背中に朝陽を受けながら、ふたりはそれぞれ武器を手に持ち、川辺へとゆっくり近づいていく。


 風が止み、水面と甲虫たちが同時にぴたりと静まった。



---




 黒く光る甲虫たちは、日向の石に張りついたまま、びくとも動かない。

 その沈黙が、逆に不気味だった。川辺の湿った空気の中、リアがそっと一歩を踏み出す。


「……羽、閉じきってるね。飛んだ直後って感じでもないか」

 腰を落とし、剣を構える。


 最前の一匹が、脚をかすかに動かした。風に揺れたのか、こちらの気配に反応したのか――その程度の違和感。だが、リアの眼はその動きを捉えていた。


 そのままじり、と足を踏み込み、一気に地を蹴る。


 鋭い一閃が甲虫の頭部に走る――が、触れるよりも早く脚がばちばちと暴れ、ニムが羽音を立てて舞い上がった。


「飛んだ!」


 その声と同時に、ルゴルの矢が放たれる。

 矢は空を裂き、宙に浮いたニムの腹の接合部を正確に貫いた。羽がばちんと音を立て、甲虫は回転しながら地面に叩きつけられる。


 その振動に反応して、石の隙間で残る個体たちが一斉に脚を動かしはじめた。


 ジジジジ……という、節が擦れ合う不快な音が、湿った空気に染み込むように響く。


「来るね」


 リアが声を落とし、すばやく構えを取り直す。

 次の一匹が跳ねる。反応を読み、刃がその腹部を的確に突いた。ひっくり返った瞬間、また別の個体が反応して飛びかかってくる。


「ひとつ裏返すと他が反応するの、お行儀いいよな。ニムって」


 リアは軽く距離を取り、足運びを切り替える。

 ルゴルの矢が二本、続けざまに飛ぶ。一本目は外殻に弾かれるが、二本目が合わせ目を突き刺し、ぐらついた個体にリアが斬撃を加える。


「正面はほんっと硬いな……」

「裏側を狙え。飛ぶ直前も隙がある」


 ルゴルは矢を番えたまま位置を変え、陽の角度を見定める。


「影になる側に回れ。俺が陽側から引きつける」

「ああ、なるほど」


 リアが身を沈め、石の間を抜けて裏側へ回る。

 ルゴルの矢が日向から飛び、ニムたちが注意を向けた瞬間、リアが滑り込むように切り込んだ。


 一体、また一体と崩れていく。

 最後の一匹が高く飛び上がった瞬間、ルゴルの矢が静かにそれを迎え撃ち、地面に突き落とした。


 川辺に静けさが戻る。

 風が再び川面を撫で、黒い羽根のきらめきだけが残った。


 リアは剣を振って跳ねた泥を落とし、息を整える。


「はー、朝から良い運動だったな……」


「反応は速いが、飛び上がる瞬間は読める。上下の制御が甘い」


「ほんっと、見てると地味に嫌な動きするよね。虫型、意外と集団で連携するやついるよな。去年の川のやつもそうだったけどさ」


 リアは剣を腰に戻し、ひっくり返った個体を眺めた。

 密集した脚がぎちぎちに折り重なっている。


「……あー、これか。『裏返すと呪われる』ってやつ。確かに、あんまり見たくはないな」

 顔をしかめながらも、リアは指先で背を撫でるように確かめる。

「でもまあ、見た目は悪くないよね、背中。きらきらしてて」


 リアの言葉に、ルゴルは小さく頷いた。

「産卵期のニムがいる川に子どもを近づかせないための警句だな」

 小型のナイフを取り出しながら、ニムの様子を確認していく。


「素材の状態は……俺が選ぶ」

「了解」


 選別を終えた後、ふたりは、それぞれ手慣れた様子で素材の回収にかかった。

 朝陽の中、ニムの羽は青く、黒く、きらきらと陽光を反射している。


 リアは硬質の羽を一枚ずつ確認しながら、慎重にナイフを入れていく。手早く作業を終えたルゴルは、周囲に警戒を払いながら地面に落ちた矢を回収し、矢尻の損傷を静かに点検していた。


「……今回はいいのがとれたな。羽、傷も少ないし」

 リアが一枚の羽を光にかざし、満足げに目を細める。


「ああ」

 ルゴルは短く応じ、羽根を布袋に収めるリアの手元を一瞬だけ見やると荷袋を背負い直した。


 軽く水で指先をすすいだあと、ふたりは川辺を離れて道へ戻った。高くなりはじめた陽が地面を白く照らし、草の匂いが立ちのぼる。


ゲンゴロウを出したかったんです。タガメのアゴと迷いましたが、つやつやかわいい方を優先しました。

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