戦闘直前
森の奥は、静かだった。
湿った土を踏みしめる音と、時折鳴く鳥の声だけが、緑のトンネルに微かに響く。
陽はまだ高いが、木々が厚く茂るこの一帯では、光も斑にしか差し込まない。
昼だというのに、冷んやりとした空気が肌を撫でる。
「……空気、変わったな」
リアが立ち止まり、目を細める。
風向きがわずかに変わり、鼻腔をくすぐる、鉄錆のような匂い。
ルゴルも同じように鼻を利かせ、わずかに頷いた。
「血の臭いか……あるいは、魔物の体液かもしれん」
「どっちにしても、もうすぐってことだ」
二人は言葉少なに歩みを再開した。
かすかな緊張が、背中に入りはじめる。
依頼内容は「目撃された異形の魔物の調査と、必要に応じた排除」。
だが、その目撃情報が最初に上がったのは、もう十日以上も前。
森の奥深く、踏み入る者も少ないこの場所に、今なお同じ魔物が留まっているのだとしたら――。
「長居する奴なら、縄張りがある。……しかもよっぽど自信家ってことだ」
リアが呟いたその先で、鳥の声がふと止んだ。
静寂の中、リアは足元に視線を落としたまま、しゃがみ込む。
「……これ、移動の跡か。いや、でも……」
踏みしめた草が、妙に深く沈んでいる。そこに残った泥は、うっすらと光沢を帯び、紫がかった色を含んでいた。
「これ、血じゃないな。体液? しかも……新しい」
ルゴルが無言で矢筒を押さえ、一本抜いて弓にかける。
「近いな。ほんの数刻以内に、ここを通った」
「ってことは……どっかで、こっちを見てる可能性もあるってことか」
リアは立ち上がり、斧を背から抜く。金属音を立てず、慎重に構えた。
森の空気が、さらに冷たくなる。
カサ、と何かが枝を伝う音がして、二人が同時に顔を上げた。
ざわ……。
生い茂る葉が、わずかに揺れる。
――が、現れたのは一羽の大きな鳥だった。濃い藍色の羽を広げ、木から木へと飛び移っていく。
「……何だお前か。ビビらせやがって」
リアが肩の力を抜く。が、口元にはまだ薄い張りが残っている。
「いや、こういうのってさ。完全にフリだよね。『大したことない』って思わせといて、次は本番が来るってやつ」
「そんなこと言ってると、本当に来るぞ」
ルゴルが静かに言った、その直後――。
“グゥウオアアアア……!”
地の底から響くような唸り声が、森を裂いた。
鳥が一斉に飛び立つ。枝葉がざわめき、地面がかすかに震える。
「ほら来た!」
リアが笑いながら叫んだ。
「よしよし……待ってろよ、美容素材!」
木々の向こう、闇に蠢く巨影。
バリトルスが、姿を現しつつあった。
ルゴルが弓を引き絞る。その横顔に、微かな興奮が走る。
「……来るぞ。覚悟しろ」
森の奥から、低く、重たい音が響いた。
ズズ……ズズン……。
土を引きずるような、巨大な何かが這う音。鳥すら鳴かない沈黙の中で、それは不気味に大きく響いた。
ルゴルは弓を構えたまま、片目を細める。
「……こっちに、来てるな」
「正面から、か? いや、獣ならもっと速く走ってくる」
リアの声も低くなっていた。先ほどまでの軽口の余韻は消え、獣のように静かな緊張がそこにある。
風が再び動く。腐臭と鉄の匂いが入り混じり、鼻を突いた。
その瞬間、前方の茂みが音もなく揺れた。
リアが舌打ちする。
「何だよ、いかにも“出ます”って雰囲気じゃんか……」
「そういう依頼だからな。でかい、強い、やり辛い。……だから、高報酬だ」
ルゴルの冷静な声に、それはそうだとリアは微笑む。
「美容素材、希少部位、高報酬──か!」
その瞬間、木立が爆ぜるように開いた。
「何だお前か。ビビらせやがって」ができて満足です。