香辛料の香りと喧噪と
石畳を叩く馬車の車輪が、軽快に小気味よい音を響かせていた。
風に押されるように進む乗り合い馬車は、そのまま商業都市の東門をくぐり抜ける。
馬車を降りると、朝の陽射しに白く照らされた石畳が、ゆるやかな坂道を成しながら町並みの奥へと続いていた。
段を重ねるように家々の屋根が並び、布張りの庇からは商人たちの呼び声が絶え間なくこぼれてくる。
「はー、着いた着いた」
リアは斧を担いだ肩を回し、背筋をぐっと伸ばす。
「前も思ったけど、ちょっとした旅行だな。……ってか、人多っ!」
すれ違う人波の中には、幅広の帽子をかぶった行商人、腕に鳥をとまらせた吟遊詩人、獣人の荷運びたちの姿があった。
道端では小さな竜人の子が駆け回り、屋台の前では母親に袖を引いてねだっている。
「収穫の時期だからな。交易品も増えているし、冬を前に支度を済ませたい者も多いのだろう」
荷袋を背負い直したルゴルが、通りを歩く人々の動きを追った。
「ま、こういうのも旅の醍醐味ってことだな。今度こそ仕事抜きの遠出ってやつだ」
人混みを器用に抜けながら、リアはにやりと笑う。
「よーし、香辛料を見に行こう! 今日はにぎわってるし、前より品揃えも増えてるかもな」
「矢の補充も必要だ。あとは……素材屋を見ておきたい。弓も」
ルゴルは短く告げる。
喧騒と香辛料の香りに包まれながら、二人は通りへと歩み出した。
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市場通りは朝のうちから人でごった返していた。
軒を連ねる露店には赤や黄の香辛料が山のように盛られ、陽射しを受けた粒は金色に光っていた。
干し果物の甘い香りが鼻をくすぐる通りの向こうからは、焼きたてのパンの香ばしさが風に混じって漂ってくる。
耳に飛び込むのは商人たちの威勢のいい声と、値切ろうと粘る客の笑い声。
色も匂いも音も入り混じり、歩いているだけで気分が浮き立つような賑やかさだった。
「いや〜、にぎやかだな! 目移りする!」
リアは大きな袋を抱えたまま店先を覗き込むと、並んだ瓶を指で示した。
「このスパイス、いつもの町じゃあんまり見ないよな。買っとく?」
そう言いながら、もう瓶をひとつ手にとって眺めている。
「用途が分からない物は無駄になる」
ルゴルは棚の奥にあった乾燥香草を手に取り、裏に貼られた札を確認する。
「こっちなら肉料理に使える。保存も利く」
すると、カウンターの奥から少女がぱっと顔を輝かせて寄ってきた。
「それ、おすすめですよ! ちょうど入荷したばかりで……良かったら他の調味料も見ていきませんか?」
声の調子が、どこかルゴルに向けて張り切っている。
隣にいた獣人の女性も、軽く耳を揺らして笑う。
「ここの調味料、おすすめよ。保存のことを考えて香辛料を選ぶの、冒険者らしくて素敵」
ルゴルは気づいた様子もなく、実務的な声音で返す。
「保存性が第一だ。値は?」
少女が小瓶を取り出し、熱心に説明を続けている横で、リアは呆れたような、どこか感心したような面持ちで口の端を上げる。
「……相変わらずだな、お前」
「何か言ったか」
「いや〜、なにも?」
結局、実用的な香草だけを買ってルゴルが金を払い、二人は店を後にした。
リアは袋を抱え直し、小声で笑う。
「せっかく一生懸命声かけてもらってんのに、保存性が第一とはね」
「当たり前だろう」
ルゴルはちらとリアを見やってから、手元の包み紙を荷袋にしまった。
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香辛料を買い終えた二人が市場を歩いていると、通りの向こうから獣人の子どもが駆けてきた。
耳と尻尾をぴんと立て、手にした木の剣をぶんぶんと振り回している。
「うわっ!」
足元がもつれた拍子に、勢い余ってそのままリアに突っ込んできた。
「おっとっと!」
リアは両腕でひょいと抱きとめ、そのまま持ち上げるようにして体勢を立て直す。
「大丈夫か? 今の、なかなかいい突進だったぞ」
子どもは目を丸くしたのち、ぱっと顔を輝かせる。
「お姉ちゃん、強い!」
追いかけてきた子どもたちがリアを見上げ、「すげー!」と声を上げる。
そこへ母親らしき獣人の女性が駆け寄り、深々と頭を下げる。
「すみません、怪我は……!」
「平気平気。こっちは頑丈だから」
リアは笑って子どもを下ろし、手をひらひら振って見せた。
横で様子を見ていたルゴルが、落ち着いた声でひとこと添える。
「……走るなら、足元も見たほうがいい」
たしなめられた子どもは一瞬しゅんとしたが、すぐに「はいっ!」と元気に返事をし、仲間のもとへ駆け戻っていった。
母親がもう一度頭を下げ、子どもたちの後を追う。
リアは手を振り返しながら笑みを残し、歩き出した。
ルゴルも荷袋を持ち直し、何事もなかったようにその後に続く。
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市場通りを抜けかけたところで、荷車を押していた年配の男が声をかけてきた。
「すまん、若いの。鍛冶屋へはどっちへ行けばいいかね?」
リアが首を傾げるより早く、ルゴルが通りの先を指す。
「この坂を上がって、噴水を右に。赤い庇の店の隣だ」
「おお、助かった! いやぁ、歳を取ると地図も頭に入らなくてな」
男は笑いながら礼を言い、荷車を押して去っていった。
「よく覚えてるな~……」
リアが感心して振り返る。
「頭の中に地図でも入ってるのか?」
「見たものは忘れにくいだけだ」
ルゴルは素っ気なく答え、歩みを進めた。
やがて二人が香辛料屋の角に差しかかると、棚に並んだ小瓶へ同時に手を伸ばす。
その瞬間、横から伸びた別の客の手とぶつかった。
「あ、すまん」
「いやいや、どうぞ」
互いに譲り合い、笑い合う客たち。
その隙に、リアがさっと瓶を取って自分の袋に入れた。
「こういうのは早い者勝ちだぞ?」
にやりと笑うリア。
「……子どもと変わらないな」
ルゴルがぼそりと呟くと、隣の客まで吹き出した。
「ははは! いい連れ合いだな!」
リアは軽く手を振って受け流し、軽やかに歩き出した。
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市場を一回りしたあと、二人は通り沿いの茶店に入った。
屋根付きのテラス席は布張りの庇から光がやわらかく差し込み、涼しい風が抜けていく。
街のざわめきは遠くなり、そこだけ少し落ち着いた空気が漂っていた。
リアは椅子に腰を下ろすなり、どっかと背をあずけた。
「いやー、歩いた歩いた! やっぱり商業都市は広いな」
注文を済ませて窓の外を眺めていたリアが、ふと思い出したように口を開く。
「そういやさ、このあいだの湖の魔物……あれ、何だったんだろな。ずっと棲んでたにしては、急に暴れだしたのは変だよな?」
片手で頬杖をつき、首を傾げながら考え込む。
「魔素が水底で湧いてたとか? リトゥミオの時みたいに」
ルゴルは小さく首を振った。
「いや、あの大きさになるほど魔素が湧いていたなら、名産になるほど魚は増えない」
「あぁ、そうか。確かにな」
リアは納得したようにカップを置き、片肘をついた。
「じゃあ、なんだろな? ハイロスやブレドーならともかく、魚型の魔物だし……運ばれるには大きすぎるし」
「……移動してきた可能性はある」
ルゴルは少し考え込み、簡潔に答える。
「え、運ばれて?」
リアが愉快そうに笑うと、ルゴルは受け流すように続けた。
「いや、自力で泳いでだ。湖の底が他の湖と繋がっていたのかもしれない。魔素の湧く湖で成長したが、餌が減って……魔素が薄く餌が豊富そうな方へと移った、ということだろう」
「なるほど。それで、あの湖に来たわけか」
リアが指を鳴らすと、ちょうど運ばれてきた茶を口にし、ルゴルも頷いた。
「ああ。推測にすぎないが、可能性はある」
「じゃあ、それもギルドに報告だな」
「そうだな。あの辺りの湖を調査した方がいいかもしれん」
「確かに」
リアは茶を一口ふくみ、ふぅと息を吐く。香りが鼻に抜け、気持ちが緩んでいく。
「やっぱり、いつもの町とは違うな」
カップを傾けるリアに、ルゴルは「また来ればいい」と返し、焼き菓子を一つつまんだ。
「お前って意外と付き合いいいよな。それとも、適当に流してんのか?」
リアがにやりと笑って茶を掲げる。
「付き合いはいいと思うが。でなければ、お前と仕事はできない」
ルゴルは当然のことのように答え、茶を口に運んだ。
リアは一瞬驚いたように目を瞬かせ、それから声を立てて笑った。
「違いない!」
軽く杯を合わせると、陶器の澄んだ音が鳴った。
賑やかな都市の一角で、ふたりの時間は穏やかに流れていった。
湖の主、どこにいたの?そんなに大きくなるまでどうしてたの?という疑問が拭い切れなかったので、少しスッキリしました。