ブレドーではなく、土熊でもなく
翌朝。
夜明けとともに霧が谷を渡り、木々の間を白く流れていた。葉の露が光を弾き、枝から落ちるしずくがぱらぱらと音を立てる。
リアは毛布を畳みながら大きく伸びをした。
「ん~……冷えたけど、悪くない夜だったな」
ルゴルは火の残りを確かめてから、手際よく土をかぶせて消す。
「焚き火がよく燃えた。風向きも悪くなかった」
「だろ? 私の石並べが効いてたんだって」
「……そういうことにしておく」
軽い言葉を交わしながら、ふたりは山の斜面を登っていった。
日が高くなるにつれ、空気はじわじわと暑さを増す。けれど標高が上がるほどに風は冷たく、肌に触れるたび汗をさらっていく。谷間を抜ける鳥の声が響き、岩肌には小さな草花が張り付くように咲いている。
「昼は暑いのに、風が冷たいってのが山だな。……体調崩すやつもいそうだ」
リアが息を吐きながら言う。
「ああ。足を止めすぎても汗が冷える」
「了解、ペース配分な」
そんなやり取りを続けながら、ふたりは斜面を回り込んだ。そこに、不自然な音が混じった。
――ずず、と地面をかくような低い響き。
リアが足を止める。ルゴルも同じく耳を澄ませた。
「……聞こえたか」
「ああ。土をえぐってるな」
木々の切れ間、斜面の下方で、大きな影が揺れている。
茶色がかった黒の塊が、鼻先で地面を掘り返していた。頭部は岩のように張り出し、横へ伸びた湾曲した牙がちらりと光を返す。
「……あいつだな」
ルゴルが低くつぶやく。
「何だあれ? 土熊……じゃないな。あんなに牙も体もデカくない」
リアが目を細め、斧の柄を握り直す。
「……あの牙、ブルドーの角くらいない?」
「そこまではないだろ」
ルゴルは黒い影をじっと見据え、少し間を置いて言った。
「……あの牙……体型や顔のコブ……ブロゴスかもしれないな」
「ブロゴス? 知ってるのか?」
「以前、聞いたことがある。ここよりもっと東……山をいくつか超えた地域に生息する魔物の筈だが……移動してきたのか」
「へぇ。どうりで見たことがないわけだ」
獣は顔を上げ、小さな目でこちらをとらえた。鼻先から息が荒く吹き出す。
「……攻撃は?」
「……突進してくるらしい」
「割と見た目通りだな」
「油断するな。見た目より重いという話だ」
「ふーん。スカリオみたいなものか……」
ブロゴスの前肢が土を踏みしめ、山肌がかすかに震えた。
「来るぞ」
ルゴルが弓を引き絞った。
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ブロゴスが荒い息を吐き、土を蹴り上げて突進してきた。
その巨体は岩の塊のようで、走るたび地面が揺れ、足元の土がわずかに震える。
「っと! やっぱ速いな!」
リアが身をひねり、すぐ脇を通り抜けた巨体に舌を巻く。
ルゴルはすかさず矢をつがえ、獣の脇腹を狙う。
放たれた矢は音を立てて毛皮を貫いたが、硬い剛毛に力を奪われ、深くは入らない。
「硬いな……! でも方向は読める」
リアが肩越しに叫び、ブロゴスを誘導するように走る。
「グルルル……グアァッ!」
獣は低く唸り、方向を変えて地面を蹴った。
リアが横に飛び退いた直後、巨体が細めの木の幹に激突する。
ごうん、と腹の底に響く衝撃音。木肌がきしみ、幹全体が大きくしなる。
「おお、効いた効いた!」
リアが笑い、斧を構え直す。
「このまま木にぶつければ、結構楽勝で――」
――言いかけたそのとき、揺れていた幹が、ぎし、と重たく軋む音を立てた。
リアの目の前で、木が根元からわずかに傾き、土が裂けて盛り上がる。
根が半ば剥き出しになり、土がゆっくり崩れていった。
「……嘘だろ」
リアが顔をしかめ、慌てて後退すると、木が重い音を立てて倒れ込み土煙が盛大に立ちのぼる。
ブロゴスはそれを気にも留めず、鼻息を荒く吐きながら再び肩を落とし、突進の姿勢を取っている。
「楽勝じゃないな」
ルゴルは淡々と矢を番え、視線を逸らさずに言った。
「むしろ危険増えてない!?」
リアが息を弾ませながら叫ぶ。声には緊張が滲んでいるが、どこか笑ってもいる。
遮蔽物が増えれば有利になるはずが、倒木のせいで逃げ場が減っていく。
山の静けさが消え、獣の荒い息と地鳴りだけが響き始めていた。
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倒木を踏み越えたブロゴスが、再び土をえぐるように地を蹴った。
突進のたび、岩が揺れ、土が跳ねる。
ルゴルの矢が放たれ、獣の片目をかすめた。鋭い悲鳴が響き、巨体がわずかに横へぶれる。
「今だ!」
リアが地を蹴り、斧を振り抜く。厚い毛皮と皮膚を割り、鮮血が散る。
ブロゴスは狂ったように体を揺さぶり咆哮すると、傍らの岩へ突進した。
ごうん、と腹に響く衝撃音。岩片が四方にはじけ飛び、硬い破片が顔をかすめる。
「おいおい……倒木に投石って……本体よりも飛んでくる物の方がよっぽど危ないんじゃないか!?」
リアが身を伏せ、飛んできた石を避けながら叫ぶ。
「遮蔽物は罠にも武器にもなる」
ルゴルは短く返し、次の矢を素早くつがえる。
ブロゴスの鼻息は荒く、肩が大きく上下している。
巨体は疲労の色を見せはじめていたが、ふらつく足取りでなおも突進を繰り返していた。
ルゴルの矢が後脚を貫き、突進の速度がわずかに鈍る。
「足が乱れてきた! 行ける!」
リアが声を上げ、前へ飛び出し一気に距離を詰める。
斧の一撃がブロゴスの肩口に深く食い込み、苦悶の咆哮を上げて暴れる。
なおも牙を振り回すが、重心は大きく揺れ、足元は落ち葉を踏んでよろめいている。
ルゴルが最後の矢を番え、わずかな隙を逃さず引き絞った。
弦が鳴り、矢は残った片目を正確に射抜く。
「グアッ……!」
ブロゴスが絶叫し、巨体が前のめりに崩れかけた。
そこへ、リアが斧を振り抜く。
刃がうなりを上げて首筋に沈み込み、骨を断つ鈍い感触が腕に返ってくる。
ブロゴスは一度大きく痙攣し、そのまま重々しく地を揺らして崩れ落ちた。
深い静寂が戻る。
乱れた呼吸の音だけが、土煙の舞う初秋の山に残っていた。
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巨体が崩れ落ちたあとも、しばらく地面が低く震えていた。
舞い上がった土煙がゆっくり晴れていくと、リアは大きく息を吐き、肩で斧を支えながら笑った。
「……ふぅっ、やっと止まったな。まったく、重さで押してくるにも限度があるだろ」
ルゴルは弓を下ろし、倒れ伏すブロゴスの巨体を見据える。
「まだ動くかもしれん。確認を」
リアは頷き、慎重に近づいて斧を振り下ろした。首筋を裂かれた獣は、わずかな鼻息も止め、ついに静かになった。
しばしの沈黙のあと、ルゴルが膝をついて牙の付け根を探った。
「……頑丈だな。加工すれば武器にも防具にも使える」
「牙と剛毛は持って帰ろう。重いけど、きっといい金になる」
リアは血のついた斧を拭き、口元に笑みを浮かべた。
「いやー、これはヤルクに自慢できるな」
二人は慣れた手つきで血抜きと解体を進め、必要な素材を袋に収めていった。
ルゴルが牙を切り落とすと、ずしりとした重みが腕に響く。
「重っ……! これ、ほんとに持って帰るのか?」
「持って帰る」
「はいはい。腰やらないように頼むよ」
「これくらいどうということはない」
「……力あるんだよなぁ」
リアが呟くと、ルゴルは淡々と次の作業を続けた。
陽が傾き始め、山の影が濃く伸びていく。二人は荷袋を背負い直し、足場の悪い斜面を下りていった。
「雪が降る前に、もう一度くらい遠征出られそうだな」
リアが息を整えながら言う。
「湖魚を狙うのもいい。保存も利く」
「おっ、それいいな。よし、次はそれにしよう」
そうやって言葉を交わしながら下るうちに、木々の切れ間に小さな町の屋根が見えてきた。煙突から白い煙が上がり、夕暮れの空に溶けていく。
リアは荷袋を持ち直し、笑った。
「ほら、あそこ。今日はあの町で一泊だ」
視線を交わし、ふたりは足取りを少しだけ速めた。
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山裾の町に着いたころには、もう空はすっかり藍色に沈んでいた。
ふたりが入った酒場は、黒光りする梁と厚い木壁に囲まれた大広間で、燻った煙と肉の匂いが満ちている。
ざわめきと笑い声が絶えず重なり、壁際では楽師が笛を吹き、奥ではサイコロを転がす音が響いていた。
卓に腰を下ろしたリアは、汗をぬぐいながら大きな杯を一息にあおる。
「あーっ、生き返る! やっぱ大きな仕事の後は酒だね、酒」
焼いた根菜とチーズの香りが漂う皿を前に、ルゴルは淡々と肉を切り分けていた。
「栄養の方が先だ。腹に入らなければ、酒は回るだけだ」
「分かってるって。ほら、ちゃんと食べるから」
リアは笑いながら串焼きをかじり、それを酒で流し込む。
ちょうどその時、横から大きな手がリアの肩越しに現れ、快活な声が響いた。
「おいおい、珍しい組み合わせだな!」
振り返ると、赤ら顔の冒険者が杯を片手に立っていた。
「エルフとオークの二人組なんて、初めて見たぜ! 冒険者として組んでるのか?」
「ああ」
ルゴルは短く答える。面倒そうな素振りは見せないが、絡まれ慣れている気配がある。
「俺も冒険者なんだけどよ」
男はどかっと隣に腰を下ろし、勝手に杯を掲げた。
「昨日、パーティー解散しちまってな。上手くいってると思ったんだけどなぁ……」
陽気な口ぶりだが、その目は少し寂しげだった。
「なぁ、なんでお前らは組んでんの?」
そう言って、ルゴルの肩に腕を回す。
リアは笑い、愉快そうに答えた。
「仲良しだからさ!」
「仲良し!? ああ~いいなぁ!」
男は目を丸くしてから大声で笑い、勢いよく杯をあおった。
「俺も仲良しな仲間と楽しく仕事してえよ! なぁ、兄弟!」
揺さぶろうとした肩はびくともせず、男は「うぉっ、全然動かねえ! ちっさくてもやっぱオークだな!」と感心したように声を上げる。
そのまましばらく、談笑は続いた。
男は上機嫌に杯を傾け、やがて「さっきは珍しい組み合わせって言ったけどさ」と笑った。
「話してると分かるわ! アンタはエルフにしては明るくて大雑把だし、こっちはオークにしては静かで細けぇのな!」
にかっと笑ったその顔は、どこか羨ましそうでもあった。
「……よし、俺も仲間探し頑張るわ。お前も頑張れよ! 兄弟!」
勢いよくルゴルの杯に自分の杯をぶつけると、男は手を振って去っていった。
リアはそれを見送り、口元を緩めた。
「ほら、こっちとも乾杯してくれないか? 兄弟」
ルゴルはわずかに息をつき、杯を掲げる。
「……兄弟ではないが」
かちん、と杯の音が響いた。
酒場の賑やかな夜は、まだしばらく続いていった。
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翌朝、まだ冷えの残る空気の中、ふたりは宿を後にした。
町を抜けて街道に入ると、朝日を受けた山の稜線が赤く染まっていた。
木々は少しずつ色を変え、緑に混じって黄や橙が目立ち始めている。
風が吹くたび、乾いた葉が一枚二枚と音を立てて落ち、土の匂いと混ざった。
「秋だな~……」
リアが息を吐き、斧を背に担ぎ直す。
「雪が降れば、もう山の仕事は限られる」
ルゴルは歩調を崩さずに答えた。
「その前に魚をやろう。昨日の酒場で聞いたろ? 湖の漁師が今年は豊漁だって」
「覚えている。保存できるなら、遠征にも役立つ」
そんなやり取りをしながら、ふたりは街道を辿り、拠点の町へと戻っていった。
――昼前。
ギルドの扉を押し開けると、見慣れた喧噪が出迎えた。
人々の笑い声と紙をめくる音が混じり、窓から差し込む秋の光が、磨かれた床板を柔らかく照らしている。
カウンターの奥で帳簿をめくっていたヤルクが、ふたりの姿を見つけて目を丸くした。
「おいおい……本当に仕留めてきやがったのか!」
リアがにやりと笑い、肩の袋をどさりと置く。
中には防水布に包まれた黒茶色の剛毛と、切り落とされた巨大な牙が収まっていた。
「重かったんだからな、丁寧に査定してくれよ」
ルゴルは一礼し、説明を加える。
「報告も兼ねている。ブロゴスだ。……この地方には本来いない筈だが」
ヤルクは険しい顔で牙を手に取り、しげしげと眺めた。
「……間違いねぇな。確かにブロゴスだ。お前ら、よく無事で……!」
「心配性は相変わらずだな。ほら、ちゃんと帰ってきただろ?」
リアが笑うと、ヤルクは渋い顔のまま唸り、そして少しだけ肩を落とした。
「お前らはな……まあいい。今回の報酬は弾むぞ。町の連中にとっちゃ、山道が安全になるのはありがたいことだからな」
ヤルクは牙を机に置き、深く息を吐いてから苦笑した。
「まったく……俺の胃がいくつあっても足りねぇ」
「心配かけて悪かったな。でも、ほら、無事に帰っただろ」
リアが斧を肩に担ぎ直して笑うと、ルゴルは小さく頷いた。
「無事であることも報告の一部だ」
ルゴルが淡々と告げると、ヤルクは思わず噴き出した。
「はっ……言うようになったじゃねぇか。よし、報酬の分しっかり食って、また仕事に備えろ。俺に余計なシワを増やさせるんじゃねぇぞ」
「それは心配性のシワじゃなくて、ただの頑固ジワだろ」
リアの冗談に、ヤルクも肩を揺らして笑う。
窓の外からは秋風が吹き込み、喧噪の混じるギルドの中に穏やかな空気が広がっていった。
台風や車で木が倒れたり傾いたりするので、アリかな?と思って、ブロゴスにが重さとパワーを身に着けてもらいました。