3話
ルイシャたちが働くドックには、いつになく多くの人が集められていた。
それはラーシェイスとリーシェン、両都市の技術者たち全員であり、当然そこにはロイシンたちの姿もあった。
「……以上が、天使たちの特性と、今回の戦闘における条件だ」
仮設されたステージに立ち、背後のモニターを使って説明を終えたエルナードが、深々と頭を下げる。
「最高司令部の決定を覆せなかった我々の要請に応じ、ここに集まってくれたことに、心から感謝する」
場内には、控えめな拍手がパラパラと広がった。その中で、ひとりの男が静かに手を挙げる。
「作戦の内容については理解しました。ですが……今回の作戦の勝率については、どのように見積もられているのでしょうか?」
誰もが抱えていた当然の疑問。その声は、全員の心を代弁するものだった。
「それについては……正直、我々にも不明だ」
エルナードは言葉を慎重に選びながら答える。
「なぜなら今回の作戦の要は――“ディーン”という一人の少年に委ねられている。我々の中でも彼の実力は把握しきれておらず、未知数な部分が多すぎる」
その言葉に、会場には一気に不安の色が広がった。が、次の一言がその空気を一変させる。
「ただ、ひとつ補足するなら――彼は一度の戦闘で、“レベル3【戦天使】”二十体を単独で全滅させた前例がある」
場が静まり返ったのち、驚愕と安堵が入り混じったどよめきが広がっていく。
その中でルイシャが、ロイシンの腕を軽くつついて尋ねた。
「前から思ってたんだけど……あれって、やっぱりそんなにすごいことなの?」
「ああ、すごいなんてもんじゃねぇよ」
ロイシンは静かに答えた。
「たとえば――エルドナが陥落した時の敵の戦力、覚えてるはずないか。 あの時は【戦天使】十体、【偽天使】九十体、【天使】二百五十体ってとこだった。つまり、あいつはその倍の規模を単独で消し飛ばしたってことだ」
「え、でもレベル3未満は含まれてなかったって言ってたよね?」
「そりゃ、天使どもの“群れ”の習性だな。【戦天使】一体につき、付き従う【偽天使】が十体、【天使】が二十体前後いるのが普通だ」
「……あいつ、どれだけ天使殺してんのよ」
「さぁな。戦果の数なんざ、いちいち数えてられねぇし……。だが一つ言えるのは、あいつは稼ぎがあってもすぐ寄付とかに使っちまうから、いつも金がないってことだな」
「何それ……ばかじゃないの」
ディーンのさりげない暴露話に、ルイシャが苦笑する。
そんなやり取りも束の間に、現場は次なる準備へと動き出していった。
かつてエルドナと呼ばれた町の跡地。十年前の天使襲撃によって壊滅し、今やその面影は跡形もない。
けれど今、その地に避難民たちが次々と集まっていた。
ラーシェイスの場所が敵に割れたと知った住民たちは、我先にと別の町へ逃げようとした。しかし、それを説得し、仮設の避難所を設けたことで、彼らはようやく落ち着きを取り戻しつつあった。
その避難民の中に、今回の作戦でにわかに名を広めた一人の少年の姿があった。
ディーン。護衛として同行した彼は、空き地となったその場所を、どこか懐かしげに眺めていた。
「……まさか、こんな形で戻ってくるとはな。次は首都からの帰り道になると思ってたんだけど」
ろくな思い出もなく、むしろ最悪の記憶ばかりが刻まれた土地。だが、それでも――ここは、彼が生まれた町だった。
「何を黄昏れているんですか?」
突然背後から、どこか鼻につく声がかけられた。
「ぶっ潰された故郷に帰ってきたんだ。少しくらい物思いにふけったっていいだろ」
不快そうに振り返るディーン。その相手は――セントモニカ商会・ラーシェイス支部の支部長、コルディスだった。
「そうでしたか。しかし、あなたが気を抜いている間に天使に皆殺しにされては困りますのでね」
いつもながらの皮肉交じりの物言い。だが、彼もまた今回は護衛として同行しているのだ。
「あのな、お前は護衛の“対象外”だっての」
「それはそうでしょう。ただ――防衛戦力を裂きたくなかったあなたが、わざわざ私をここへ連れてきたということは……何かしら、意味があるのでは?」
その言葉に、ディーンはほんのわずか逡巡してから、ぽつりと口を開いた。
「……お前、“核”のことは知ってるか?」
「ええ。各町の地下に設置された、自爆用の兵器ですね」
コルディスはあっけらかんと答える。
「そうだ。……ここ、エルドナにもあった。いや、“ある”んだ。襲撃されたときには、使う暇すらなかったがな」
「それを今回、活用しようというわけですか?」
少年は無言で頷く。その目には、覚悟とも苦悩ともつかない影が宿っていた。
「届け先は作戦のことを考えるならリーシェンでしょうか?」
問いかけに、ディーンは小さく首を横に振る。そして、まっすぐにコルディスを見つめる。
「経由地は任せる。お前たちが“最善”だと思う方法を選んでくれ。ただし……届け先は――」
その一言を聞いた瞬間、男の瞳が大きく見開かれた。
そして――
「ハハハハハハハハハ……!」
コルディスの笑い声が、荒野に響き渡る。
「そういうことですか……! なるほど、それは確かに人前では口にできませんね。そして、それを実行できるのは我々セントモニカ商会だけ。いやはや、素晴らしい判断です」
興奮気味に呟くコルディス。その様子を、ディーンは静かに見つめていた。
その目は、何よりも苦しそうに曇っていた。
ディーンがリーシェンに帰り着いたのは次の日の真夜中だった。
普段なら静まり返り闇に包まれている時間帯。
しかし今日はまだあちこちに明かりが灯り、人が忙しそうに行き来している。
その中で最も人の出入りが多いドックの方へと足を向ける。
ドックのドアを開けると中はまるで昼間のように明るく活気づいていた。
その様子を見てもと来た道を戻ろうとしたディーン、それを呼び止める者がいた。
「おーいディーン、待てよ。」
突然後ろから彼の服を掴んできたのは今このドック内の管理者をしているロイシンだった。
「何だよ。これから帰ってさっさと寝たいんだよ。」
「まあ落ち着けって。で、避難の方はどうだったんだ?」
鬱陶しそうに返すディーンをなだめながら問いかける。
「ああ、そうだった、避難は順調、来週には完了しそうってエルに伝えといてくれ。」
ロイシンの言葉で思い出したように伝言を頼むと彼は走って帰ってしまった。
翌朝――。
ディーンとロイシンは、軍部の司令室でエルナードたちと作戦の打ち合わせをしていた。
「ラーシェイス方面には、ヴェイドナ准将の部隊が配置されることになった」
「エルドナとメルバスにも、あちらから軍を派遣してくれるようだ」
今日の議題は、各都市への防衛戦力の配備と、今後の対策について。
だが、天使による襲撃に対する具体的な迎撃作戦は、まだ完全には決まっていない。
このあと、各地の司令官や責任者たちと無線を使った会議を行う予定――だった。
警報が、突如として室内に鳴り響いた。
全員の視線が音の発信源に向き、モニターに切り替わる。
その瞬間、映像の中のラーシェイスが、眩い光に包まれた。
轟音。
光の柱が、地表を穿ち、巨大なクレーターを生みながら徐々に細くなっていく。
「魔素反応を観測! 膨大な値です、推定最高レベル5……! ――【神】です!!!」
オペレーターの悲鳴が、張り詰めた空気を一気に突き刺した。
時が、止まったように感じられた。
実際には止まってなどいない。ただ、その場の誰もが、思考を奪われ、沈黙したのだ。
画面の中には、無数の天使が映し出されていた。
数百? 違う。数千でもない――数万。
異形の怪物の群れ、六枚羽を背負った“戦の天使”たちが空を覆い尽くしていた。
だが、彼らの群れの先頭に立つ“それ”だけは、まるで別格だった。
羽も持たず、装甲もない、ただの人の姿をしている。
けれど、それが放つ“存在の圧”だけで、誰の目にも明らかだった。
――あれは、天使などではない。
直感が告げていた。あれに抗ってはならない。絶対に勝てない、と。
そして、まるで糸が切れたように、その場に膝をつく者が現れる。
硬直から解き放たれたかのように、数人が座り込み、呻いた。
誰もが想定していたのは、“天使による襲撃”。
しかし、現れたのは、そんな存在ではなかった。
――500年前。
戦争の序盤、人類は確かに優勢だった。
だが、たった一体の“神”の出現によって、その流れは一変した。
全てを焼き払い、戦場ごと都市を消し飛ばした絶望の象徴。
その“神”が、今また現実に姿を見せたという事実だけで、心を折るには十分すぎた。
「……無理だ」
ひとりの兵士が、頭を抱えたまま呟く。
その声は、司令室の空気をさらに重く染めた。
誰もが、希望を手放しかけていた。
だが――少年だけは違った。
少女が、彼らに光を示したように。
少年もまた、問いかけていた。
「敵の数は?」
その言葉に、誰もが振り返る。
「は……?」
「だから、敵の正確な数を教えろ。状況を把握するのが先だろうが」
淡々と、それでいて強い意思を宿した声。
諦めなど、最初からなかった。
それは、確かに戦士の声だった。
ディーンが軍部の基地から現れるとすでに門の前には人だかりができていた。
「ラーシェイスに神が降臨したって本当なのか?」
「嫁は、娘は無事なのか?」
皆が口々に疑問を投げかける。それに対してディーンは、
「神がきたってのは本当だ。娘どうこうに関しては俺も知らねえよ。」
と無慈悲な現実を突きつける。
それに対して周りからは非難の声が殺到する。
「邪魔だどけ。俺が一秒でも早く到着することがお前らの家族の生存率を上げることにつながるんだ。」
ディーンのその言葉に全員がだまり道を開ける。
するとそこから一人の少女が現れた。
「ルイシャどうした?」
「これこの町全員の努力の結晶。あんたのために作った。」
そう言って差し出された一つの水晶。
表面や中に魔法陣が刻まれていてただの魔道具でないことがひと目で分かる。
「分かってると思うけどこれはあくまで魔術的な溶媒、できるのはあんたの補助だけ。だから全部あんたの力量にかかってるの。上手くいかなくても文句は言うな。後、これを持っていくからには必ず勝ってここに帰ってこい。」
その少女らしい撃に少年は頬を緩める。
「安心しろ。帰ってきたら腐る程文句を言ってやる。」
少年も変わらぬ軽口を告げ出発する。
少年は小高い丘の上でバイクを降りた。
彼の視線の先、地平の彼方からは、自然ではあり得ない黄金の輝きが空を覆っていた。
その光景を見つめながら、少年は懐から水晶を取り出す。
――その瞬間。
水晶が脈動し、脳裏に膨大な知識が流れ込んでくる。
「……あいつらが、俺専用に作ったってのは本当らしいな」
不敵に笑みを浮かべた少年は、流れ込む情報に従って詠唱を始める。
普段なら絶対にしない詠唱。
それが意味するのは、この術式が極めて複雑で危険なものであるということ。
〘これは人々の歴史の証明――
神々に抗う、無二の力である。
空を砕き、天を墜とす剣よ――今ここに、顕現せよ〙
多重音声のような詠唱の声が空間に響く。
それに呼応して水晶が真紅の光を放ち、空と地に同時に魔法陣が刻まれていく。
空中に描かれた陣は幾重にも重なり、巨大な構造体のように成長していく。
地上では紅く染まった陣から、無数の砲台がせり上がった。
それらが揃って天を睨み――
〘ファイエル〙
少年の号令と共に、地を割るような轟音が鳴り響く。
砲台が一斉に火を噴き、白銀の閃光が天を切り裂いた。
雲が爆ぜ、閃光が幾筋も空へと咲き乱れる。
命中したかどうかを確認する暇もない。だが次の瞬間、空からの反撃が始まった。
〘――隔てよ。これは二つの世の狭間となるもの。
ここより先は、我が支配領域と知れ〙
少年が詠唱を重ねると、水晶から真紅の光が展開される。
空間に張られたその膜が、天から放たれた黄金の閃光を霧のように分解し、吸収していった。
そして――第二の轟音。
水晶が砲台とは異なる輝きを放ち、紅蓮の閃光を空へと放射する。
それに触れた【偽天使】の身体は、抵抗も叶わず粉砕された。
魔素が渦巻き、散った魂が吸い込まれていく。
余波だけでも、周囲の天使たちは霧散した。
だが、そこまでだった。
三度目の砲撃が放たれる直前、それは空中で凍りついたかのように静止する。
直後――
空に、一体の天使が舞い降りた。
白銀の鎧。七枚の翼。冷たく光る瞳。
【天使長】――神の腹心にして、第四階梯の存在。
その手が静かに前へと伸ばされる。
すると背後に控えていた【戦天使】たちが一斉に飛翔し、少年を取り囲むように襲いかかってきた。
砲撃の隙間を縫うように、戦天使たちが滑空し、距離を詰める。
黄金の刃が煌き、少年の目前へ――
だが、次の瞬間。
斬撃。肉が裂け、金属が砕ける音。
少年が振るった一閃が、目前の天使を真っ二つに断ち切った。
その場に、戦天使の死体がいくつも転がっていく。
が、それと引き換えに、少年が展開していた砲台や魔法陣は破壊され尽くしていた。
――一瞬の空白。
それを狙って、少年が動いた。
水晶を投げ出す。そして、足元を爆発的に蹴り上げ、一気に【天使長】との距離を詰める。
鍔迫り合い。雷鳴のような衝撃が辺りを走る。
しかし――【天使長】は力でそれを退け、後方へと滑るように離脱。
直後、少年の周囲が黄金の爆発に包まれる。
咄嗟に魔力障壁を展開し、強引に爆風を突破した少年は、右手に真紅の刃を形成。
そのまま【天使長】へ向かって投擲する。
一条の閃光。空を裂く紅の槍。
それを【天使長】は、淡々と受け止めた――ように見えた。
だが次の瞬間。
地上に置き去りにされた水晶が閃光を放つ。
何体もの天使の力を吸収したそれが最後の一撃を撃ち出した。
黄金の甲冑を貫いたそれは、確かに【天使長】の脇腹を撃ち抜いた。
ゆっくりと、彼の身体が傾き――空から落ちていく。
少年は、確信した。
――勝った、と。
だが。
落ちていく【天使長】の身体を、何者かの“手”が支えていた。
最初は、疑問を抱く
次に、それがなにか気付く
そして、絶望する
なぜ、忘れていたのか。自分はそれと戦うためにここに来たのに。
心のどこかで自分も恐れていた。現れないことを望んでいた。
しかし、それは【神】はそこに現れた。
それは静かに佇んでいた、空中に。
吹き荒れる風とは全く別の方向にゆらゆらと揺れる黄金に輝く長髪。男とも女とも見える美し顔。純白の衣をまとったそれは顔に微笑を浮かべ少年を一瞥する。
それのある場所だけまるで世界が切り取られ、別物に置き換わったかのように、それはそこにあった。
少年の本能が告げる。逆らうなと、抗うなと、受け入れろと。
彼はそれを振り切って、矛を構え【神】に襲いかかる。
しかし彼の刃は空を切った。
疑問が頭の中を埋め尽くす。
確かに当たる軌道だった。
しかし、掠りすらしなかった。
呆れたような顔になった【神】がただ一言告げる。
『ひれ伏せ」
直後少年は地に叩きつけられた。受け身すら許さない。一切抗うことができずに地に落ちる。
直ぐに起き上がろうとするも体が動かない。
そこに空から声が降ってきた。
『なぜ、抗う。』
心底わからないという声。
少年は突然体が動くようになり矛をついて立ち上がる。
「生きるため以外にあると思うか!?てめらがこんなこと始めなけりゃ抗う必要もなかったんだよ!!!」
『罪を受け入れる気はないと』
呆れたように返す声。
「罪、だと……?」
『貴様らは自然を傷つけ、支配し、傲慢に生きてきた。それが、罪だ』
「そんな理由で――メルバスを襲ったのか!!!?」
思い浮かべるのは、一人の少女。
――“君の名前は? ディーンっていうんだ。私? 私はルイシャ”
疫病神でしかない俺達に手を差し伸べてくれた少女。
人を信じることを諦めた俺に笑いかけてくれた少女。
……あの日を境に、彼女は笑わなくなった。
理不尽な答えに、怒りが噴き出す。
『貴様らは奪い、欲望に忠実に生きてきた。それが、罪だ』
「ふざけんなあああああああ!!!!!」
沈黙を破る咆哮。
「知ったような口を聞いてんじゃねぇよ!!!
生きるために奪って何が悪い!
大切なもん守るために奪って何が悪い!
そんな奪い合わなきゃ生きていけねえ世界にしたのは、お前らだろうがああああああ!!!!」
『欲を制せぬ愚か者が……その傲慢さが、罪だ』
「だったら! そんな戯言はな、みんなが手ぇ取り合って笑って生きてける世界を造ってから言いやがれぇえええええええ!!!!!」
神の声が鋭さを増す中、少年はさらに吠える。
勝てないことは分かっている。
それでも――
苦しんでほしくない少女がいる。
根無し草だった自分たちを受け入れてくれた人々がいる。
そして――
「“苦しみ”の“く”の字も知らねぇ神ごときに、俺が負けてたまるかああああああ!!!!!」
それが、彼の“絶対に退かない理由”だった。
だから、少年は挑む。
――ラーシェイス。確かに数時間前まではそう呼ばれていた。
だが、今やその面影はどこにもない。
瓦礫すら原型をとどめず、ただの焼け野原。
その頭上では、空間の裂け目からあふれ出す黄金の輝きが世界を照らしていた。
そして、そこからなおも降りてくる天使たち。
それはまさしく、絶望としか言いようのない光景だった。
そのとき、不意に地面が爆ぜた。
煙を裂いて現れたのは、重厚な装甲服をまとった数十人の男たち。
その中で、ただひとりだけ軽装の男――コルディスが、ゆっくりと前に出た。
「ここまで予定通りだと……逆に不気味ですねぇ」
軽く笑いながらも、どこか静かな緊張を孕んだ声。
それに反して、周囲の装甲兵たちは静かに武器を構え、警戒を強めていく。
コルディスは明るく言い放った。
「今回は時間稼ぎだけで構いません。さあ、始めてください」
その言葉を皮切りに、激戦が始まった。
男たちは次々と天使を切り裂き、アサルトライフルの銃火が銀翼を焼いていく。
しかし、天使の傷は瞬く間に再生され、反撃の鋭い刃が返される。
裂け目からは無数の天使が次々と降りてくる。数は減るどころか、増す一方だった。
――勝ち目などない。
そう思われたそのとき、地面がさらに裂け、そこから無数のミサイルが飛び出してきた。
その弾頭には、明確に描かれた〈核兵器〉のマーク。
どこまでも続く草原のなか。
少年はうつ伏せに倒れていた。
――勝てなかった。
神には、まるで歯が立たなかった。
地へと叩きつけられた少年は、そのまま力なく倒れ、やがて神は何処かへ飛び去った。
……どこに行ったのか、それは分かっている。
彼は歯を噛み締め、拳に土を握りしめる。
――守れなかった。
自分が負ければ、彼らが死ぬ。それを、分かっていたのに。
悔しさと無力感に震えながら、それでも体は動かなかった。
神がラーシェイス上空へと戻った時、すでに核ミサイルは天界に向けて放たれていた。
五百年前、かつて神をも葬った忌まわしき兵器。
それが今、再び空を切り裂いていた。
神はすぐさまその破壊に取りかかった――だが、その進路に立ちふさがる者がいた。
装甲服をまとった者たちが、自らの身体を楯にし、ミサイルを護ったのだ。
彼らは一瞬で塵と消えた。だが、その一瞬こそが意味を持った。
止める。今すぐにでも破壊する。神がそう決意した、その刹那。
地面が青白く輝いた。
魔法陣――それも、巨大なものが地面一面に描かれている。
その中心に、ひとりの男が立っていた。
まるで、すべてを終わらせる儀式の主役のように。
「時間稼ぎ……お疲れさまでした」
彼は穏やかに言った。
「あなた方の分も、背負って逝きますから」
神はすべてを支配する。
だが、唯一支配しきれぬものがある。それは――魂。
ゆえに、それをもって編まれた【呪い】だけは、神に届く。
男は今、その呪いを放とうとしていた。
他者の魂をも自身に宿し、命と引き換えに神を討つために。
『動くな』
神の絶対命令。それを受けた者は、本来一歩も動けないはずだった。
だが――
黒い靄をまとった男は、ゆっくりと神へと歩み寄り、剣を振り抜いた。
『なぜ、そこまで抗える?』
鍔迫り合いながら、神が苦々しく問いかける。
「抗っている? とんでもない。我々は商売をしているだけですよ」
コルディスは笑って言い放つ。
「“お買い上げいただいた品”を、指定の場所に届ける。ただそれだけ。邪魔するゴミを払いのけるのは当然でしょう?」
『ふざけるなッ!』
怒気をあらわにする神。
しかし男は、さらに声を荒げた。
「ふざけているのは、あなた方だ!」
その声には怒りがこもっていた。悲しみが、悔しさが、震えていた。
「……彼が、どんな顔でこれを依頼してきたか、分かりますか?」
「彼は知っていたんですよ。あなた方の本質も、死の重さも! 理解したうえで……私たちに言ったんですよ……」
言葉が震えた。
「『天界に核を送り込んでくれ』と……それが『死んでくれ』と同義であると分かったうえで……!!」
あの時の顔が、頭から離れなかった。
本来なら、大人たちがやるべきことを、すべて少年に押し付けてしまった。
ならば、その願いだけは、最後まで――やり遂げる。
神の剣が、男の胸を貫いた。
致命の一撃。
しかしその瞬間、黒き呪いは男の血とともに剣を伝い、神の体内へと流れ込んだ。
『ガァアアアアアアアアアア!!!!!!』
絶叫。
相反する力――神性と呪い――が神の内部で衝突し、体を蝕み始める。
そして、空に開かれた裂け目が……かすかに、瞬いた。
直後、天地を揺るがす轟音が響いた。
――先ほど放たれた核ミサイルが、天界で炸裂したのだ。
命を懸けて守り抜いた一撃が、ついに意味を持った。
神は歯噛みする。
その身体は、いまなお呪いに蝕まれ続けている。
加えて、天界も核の直撃によって甚大な被害を受けたに違いない。
これでは、援軍の到着など到底見込めず、戦闘の継続も不可能。
もはや――撤退以外に選択肢はなかった。
神は天を仰いだ。
空間の裂け目は、核の光と呪いの瘴気に歪み、今にも崩れそうに明滅している。
その眼差しに宿るのは怒りでも憎しみでもない――ただ、理解できないという絶対者の戸惑いだった。
『……理解できん。なぜ、お前たちはそこまで抗える……』
呟きのように放たれた言葉は、もはや誰に届くこともない。
神の背に、光の翼が広がる。
だが、その輝きは明らかに弱まっていた。羽の先は黒く染まり、呪いの浸食がその神性さえも奪いかけている。
地上を睨みつける神。その目にはまだ、滅びの意志が揺れていた。
しかし、それ以上の干渉は――自らの崩壊を招くだけ。
神は舌打ちにも似た息を吐くと、ゆっくりと空へと舞い上がった。
裂け目の彼方、崩れゆく天界へと姿を消す。
かくして、戦は終わった。