2話
インターホンが鳴った。
その音に気づき、家の主である少年はベッドから身を起こす。
ラーシェイスでの戦闘から約二週間。リーシェンに戻ってからというもの、彼はまた自堕落な生活に戻っていた。
玄関の外には、軍服姿の男たちが五人立っていた。中でも一際派手な装いをした男に、隣の部下が声をかける。
「わざわざ大佐自らが出向かれる必要はなかったのでは? 呼び出せば済んだ話でしょう」
「呼んだって来るようなやつじゃないだろ。それに、今回は私的な訪問のつもりだったんだがな」
大佐と呼ばれた男、エルナード・ラズ・ローゼンブルクが肩をすくめて答えた、そのとき――。
ギィ、と玄関のドアが開き、一人の少年が姿を現した。
「えらく動きやすそうで、簡素な格好だな」
エルナードが皮肉混じりに言う。
「しょうがねえだろ。こんな朝っぱらから来るお前らが悪い」
少年は、上はブカブカの半袖寝間着、下は下着だけという、文字通り“今起きました”な格好だった。
「そうは言うけどな。俺たちはもう昼飯を済ませてる」
そう言って、エルナードは腕時計を見せる。針は十二時半を指していた。
「じゃあその残り、朝飯にくれよ」
「あるわけないだろ」
冗談を軽くいなしてから、彼はが声の調子を変える。
「少し話がある。お前らはもう戻れ」
「しかし――」
「命令だ」
食い下がる部下たちを一言で黙らせ、大佐は少年の家へと足を踏み入れた。それに続いて少年も無言で中に入る。
少年の住まいは、想像以上に質素だった。いや、もはや「何もない」と言ったほうが正確だろう。
ベッド、机、スタンドライト。生活感のかけらもない室内に、エルナードは思わず呆れたような声を漏らす。
「……よくこんなところで生活できるな」
「寝るだけだしな。他の私物は全部預けてある。風呂は銭湯で済ませてる」
少年は気にも留めず答える。すると、彼の表情が真剣なものに変わった。
「それで、ラーシェイスでは無事だったか?」
「当たり前だ。ルイシャもロイシンも、みんな無事だよ」
「そうじゃねえ。お前……最初から本気でやってなかっただろ。何人見殺しにした?」
語気を強めるエルナードに、少年は肩をすくめた。
「なんのことか分かんねえけど、本気でやらなかったのは、相手にちょっと違和感があってな」
「どういう意味だ?」
はぐらかされたことを承知で、彼は続けた言葉の意図を問い直す。
「俺の記憶じゃな、監視カメラに写ってた敵の編成は最近だと――【天使】12体に【偽天使】が4体のセットだった」
監視カメラとは、都市の外にランダムに設置されたもので、天使の接近を早期に察知するための装置だ。
「だが、その時は【偽天使】が一体足りなかった。別部隊が降りた可能性も考えたが、それならエネルギー反応で分かるはずだろ。そこに、この前俺が殺した一体が繋がる」
「……はぐれたってのか? いや、ないな。あいつらに手を出せる存在なんて、この世には存在しない。一体だけはぐれるなんて、ありえない」
「そうか? 人間だってあるだろ。巣を見つけるために、捕まえた鳥にGPSつけて逃がすとか」
その言葉にエルナードはハッと目を見開く。
「……仲間の死骸を辿って、町の位置を割り出すためか」
少年は静かに頷いた。
「16体は無理でも、1体だけなら殺して持ち帰るくらいのことはできる。事実、俺たちが出品した翌日に襲撃があった。タイミングが良すぎる」
「じゃあ……ラーシェイスも、この町も、もう場所が――」
思わずネガティブな思考に陥る彼に、少年が軽く言う。
「確定ってわけじゃねえし、俺の勘違いかもしれねえ。気にすんなよ」
「気にするに決まってるだろ! なんでそんな重要なこと、もっと早く報告しねえんだ!」
「仕方ねえだろ。確証なかったんだから。それに、15体までなら対応できたし」
少年の弁明めいた言葉を聞いて、エルナードは深く息を吐く。
「……その辺の判断は、こっちでやる。お前は、いつでも動けるようにしておけ」
そう言ってエルナードは少年の家から出ていった。
大規模なドックには、20人ほどの整備員たちが働いていた。彼らの主な仕事は、軍事車両の整備だ。
そんな中、紅一点の少女ルイシャは、一人で大型バイクに向かっていた。
「おーい、ルイシャちゃ〜ん。昼飯食おーぜ」
「今無理。そこ置いといて」
同僚の誘いを素っ気なく断り、ルイシャは黙々と作業を続ける。その姿を、周囲の整備員たちは温かく見守っていた。
「熱心だな〜」
「そりゃそうだろ。あれ、ロイシンと一緒に初めてルイシャが作ったんだぜ」
「ん? じゃあ何でディーンが使ってんだ?」
「ルイシャが、自分よりディーンの方が使う機会多いって言って、譲ったらしい」
「で、ロイシンからディーンに渡ったんで、ちょっと揉めたんだとさ」
そんな話をしているところに、一人の少年がふらりと現れた。
「お、珍しいなディーン。お前がここ来るなんて。何しに来た?」
「いや、腹減ってさ。誰か飯、売ってくれねーかなと思って」
相変わらずラフな格好のディーンに、整備員の一人が呆れたように返す。
「アホか。弁当なんて一人一個しかねーのに、誰がお前にやるんだよ」
ディーンは肩を落とし、がっかりした様子で呟いた。
「ここもダメか〜」
「“も”? お前、どこ回ってきたんだ?」
勘の良い1人が尋ねる
「軍部の食堂行ってみた。けど、追い出された」
「それは当然だな」
自分を被害者のように語るディーンに、皆がツッコミを入れる。
それを無視して彼はルイシャの弁当の前に移動し、ためらいもなくパンを一つ取り出してかぶりついた。
「ちょっ、ふざけんな! それ私の!」
怒りの声にディーンはきょとんとしながら、
「え、まだ食ってなかったのか? 悪かった」
パンの欠片を飲み込むと、悪びれもせずそう言った。
弁当を奪い返したルイシャが、苛立ちをぶつける。
「そんなに腹減ってるなら、ロイシンにでも頼んでこい!」
「それは名案だ」
にこりと笑い、ディーンは足取り軽くドックを飛び出していった。
――しばらくして戻ってきたディーンに、先ほどと同じ声が飛ぶ。
「で、今度は何しに来た?」
「ん? ああ、ちょっと聞きたいことがあってな」
笑顔を浮かべるディーン。だが、その目は笑っていない。
「誰がラーシェイスの件、エルにチクったのかって思ってさ」
エルナードは軍部最高司令官。当然、ラーシェイスには同行していない。
ならば、誰かが戦闘のことを報告しなければ知るはずがない。
沈黙が流れる中、意外にもすぐに答えが返ってきた。
「私が映像を送った」
振り返りもせず、冷たい声でルイシャが告げた。
「何してくれてんだよ。エルに説教くらったじゃねーか」
「軍部が嫌いでも、あの人たちには関係ないでしょ」
「はいはい、どうせ俺の八つ当たりですよーだ」
不満げな顔をしてドックを出ていくディーンを見送り、皆は再び作業へと戻っていった。
――レイジス王国首都アンフェール。
地上に唯一存在する、公開された要塞都市。
純白の城壁に囲まれ、空を見上げれば青白い光のドームが都市全体を覆っている。
中央には六つの塔が五芒星を描くように並び、その中心に国王の居る主塔がそびえる。
今、その主塔の大会議室では、最高権力者たちが口論を繰り広げていた。
「今すぐ援軍を! ラーシェイスが落ちれば、東は丸裸だ!」
「援軍と言っても誰を送る? 行きたがる者などいないぞ」
「天墜しを送ればいいだろう」
“天墜し(あまおとし)”――一人で天使の軍勢を殲滅できる戦士たち。その第一席は、代々国王が担ってきた。
「だが今、誰を送る? 陛下は論外。第二席は首都の防衛がある。第三席は遊撃隊で、手放すはずがない。第四から第七席は既に前線だ」
「では見殺しにするというのか!?」
声が飛び交う中、国王が静かに口を開いた。
「ラーシェイスおよびリーシェンに箝口令を敷き、出入りを一切禁ずる」
「それでは見殺しでは!?」
「場所が完全に割れた以上、守りきれぬ。援軍を送っても被害が増えるだけ。ゲートに向けて核を撃つ。それが最善策だ」
「……核が届くまで持ちますか? エルドナとメルバスはもう…」
「ラーシェイスなら持つだろう。あそこには、戦力もある」
「……は」
「これにて会議は終了とする。解散」
不満と失望を滲ませながら、人々は退室していった。会議室には、静寂だけが残った。
――リーシェン駐屯軍司令部 客室。
夜中に呼び出されたディーンとロイシンは、ソファに座るエルナードと副官ベルミスと向き合っていた。
会議の決定を聞き、空気は重苦しかった。
「つまり、俺たちは何も知らされずに天使と戦い、時間を稼ぎ、核で焼かれる……ってことか」
「……そういうことだ」
エルナードが沈痛な声で答える。
「却下だな。箝口令は無視。核の前に、全員逃がす」
「貴様、陛下の命令に逆らう気か!」
ベルミスが声を荒げるも、エルナードがそれを制しつつ問う。
「命令に背く気はない。だが、お前一人でラーシェイスとリーシェンを守れるのか?」
「簡単だ。お前ら全員が、俺と同じことができればな」
無茶な発言に、エルナードは頭を抱える。
ディーンの戦い方は、体部の魔素を操り、それを拡張して敵の霊魂ごと支配するもの。理論上は可能だが、精神力と演算力が常人を超越していなければ扱えない。
「ふざけるな! 何人の命がかかっていると思ってるんだ!」
ベルミスが立ち上がり、ディーンの胸ぐらを掴んだ。
「じゃあてめぇがなんか考えろよ! 白旗でも上げるか? 見逃してくれるわけねーけどな!」
二人が睨み合う中、乱入者が現れた。
「何やってんのよ、あんたたち」
呆れた声と共にレンチが飛ぶ。ディーンとベルミスは殴られて強制着席させられた。
「で、今まではどうしてたの?」
「……へ?」
「だから。今までは、どうやって天使を退けてたのかって聞いてるの」
当然のように問いかけるルイシャに、皆が一瞬戸惑いながらも、エルナードが答える。
「……今までは、降下地点の近隣都市が防御に専念して、周辺の街がゲートを集中攻撃していた」
「でもエルドナとメルバスが陥ちて、攻撃できる部隊が足りなくなった」
ルイシャが補足すると、エルナードがうなずく。
「他には……陥落が確実になったら、都市にある核爆弾で天使ごと自爆するってのが一応の最終手段だな」
「まあ、ほとんどが使う前に皆殺しにされて終わってるがな」
ディーンが苦々しく言う。
彼が生まれたエルドナ、育ったメルバス――その両方も、核が使われる前に崩壊していたから、彼は生き延びていたのだ。
沈黙が落ちた。
ルイシャの問いかけと、それに続いた現状の確認。それは、今この瞬間まで誰もが曖昧にしたままだった現実を、真正面から突きつけるものだった。
「じゃあ……私たちはもう、“今まで通り”すらできないってことだね」
ぽつりとルイシャが呟く。
「そうだな。首都が見捨てる以上、周辺も右へ倣えってわけだ」
ディーンが言うと、エルナードは重い口調で付け加えた。
「それどころか箝口令が敷かれた今、下手に動けば首都から核ミサイルの雨が降ってくるぞ。」
エルナードの言葉に、場の空気がさらに重く沈んだ。
核。たった一発で都市を消し飛ばし、500年前には最高神さえも地に墜としたと言われる“神殺しの火”。
それが味方であるはずの人間の手から降り注ぐ可能性。しかも、命令一つで。
ロイシンが皮肉気に鼻を鳴らした。
「自分の国の民に核を向けるとは、いいご身分だな」
ロイシンが皮肉気に吐き捨てた。
「うちの王様は国語が苦手みたいだな」
ディーンも軽く肩をすくめながら言葉を継ぐ。
この国には、「民を得ん者、国を得ず」ということわざがある。
レイジス王国を建国した初代国王が、戦火の中で命を懸けて民を守ると誓った際に発したとされる言葉だ。
今では、基礎を疎かにする者に未来はないという意味で使われ、小さな子供ですら知っているほどに定着している。
「口だけじゃ、天使どもは待ってくれねえぞ」
エルナードが静かに言った。
「ま、だからって――こっちが黙って待っててやる義理もないけどな」
すっかりいつもの調子を取り戻したディーンが、軽く笑って答える。
「何か策があるのか?」
不信混じりに尋ねたのはベルミス。しかし、その目には明らかな期待が宿っていた。
「ああ。俺は、あいつら――天使どもを、霊魂や魔力ごと吸収できる」
「つまり、遠距離戦でじわじわ削って、お前を極限まで強化する。そういうことね」
ロイシンが先に意図を読み取って口にする。
「じゃあ、俺たちは何をすればいい?」
エルナードが問いかける。
「決まってるでしょ。民間人の避難。それだけよ。遠距離戦の準備は、私たちとディーンでやる」
「……俺たち軍人は戦力外、か」
ルイシャの容赦ない言葉に、エルナードは肩をすくめつつも、どこか楽しげに笑った。そこには、もはや諦めなど欠片もなかった。
作戦は至ってシンプルだ。
ラーシェイスに残る民間人を、エルドナとメルバス方面へ順次避難させる。
そして天使が現れた場合、迎撃はディーンが単独で行う。その間に、ゲートの座標へ向けて町に備えられている核弾頭を発射する。
それにより、天使側は一時的にでも撤退を強いられるはず――それが、この作戦の骨子だった。
箝口令を破れば、国家反逆罪として攻撃を受けるかもしれない。
だが、そのリスクは――もう、誰一人として考慮するつもりはなかった。
こうして誰もが『天使』に対する準備を進めていった。
そしてもうすぐ、絶望が訪れる。