幸せ
会社で上司のパワハラにやられて医師から鬱病という診断を受けた。その時俺は、病気を患ったことについて残念な気持ちよりも逆に安心の方が強かった。これで会社を辞めることができる。もう上司と仕事をしなくて済む。そして病名がつくということは、苦しみをやわらげるための薬を出してもらうことができるという事だ。上司との仕事という地獄を終えて、やっと病院という安息地にやって来られた気分であったし、実際そうだった。
精神病院に俺は入院した。抗うつ剤を出されゆっくりと静養することになった。それから三ヶ月ほどが経った頃のこと。病状が安定してきたようで、退院することができた。
いま病院の隣のはまなすホームに住まわせてもらい生活をしている。はまなすホームというのは、宿泊型自立訓練施設のことである。二年間住むことが可能であり、朝昼晩食事も出る。利用額は利用者の収入状況によって市が上限額を決めるという仕組みだ。病を負った者に対し、こんなにも手厚いサービスがあるなんて、日本の福祉は本当に素晴らしいと思う。
ちなみに会社に勤めていた頃は一人暮らしだった。俺の入院が決まると県外から兄が電車で来てくれた。アパートの荷物を片付けてアパートを解約してくれた。俺の車もあり、家具を車に積んで兄は自分の家に乗って帰った。いま家具と車は預かってもらっている。本当、兄には頭が上がらない。
病院の外では桜の木がぼんぼんと花をつけて満開に咲き誇っている。春爛漫だ。二十の頃から十年間、俺は風景画を描き続けてきた。それはたった一つの特技であった。あの桜を描いてみたい気持ちに駆られた。
この頃から俺はデイケアにも通い始めた。デイケアというのは、精神障害者の地域復帰、社会機能回復を目的として精神病院で実施されている通所型リハビリテーションのことだ。
新しい環境にはまだまだ慣れない。自分の住んでいる場所が地方だからなのかもしれないがデイケアには同年代の人間は少なかった。
デイケアのスタッフさんたちは優しく気さくに声をかけてくれる。その言葉や世間話にどれほど救われているか分からなかった。
スタッフさんたちが主導で行うゲームにはなるべく参加することにした。他にも、年配の方々が麻雀をやっている光景があった。俺は麻雀ができた。だから時々は入れてもらう事もあった。だけど心からデイケアに馴染むことは未だにできていない。時間が解決してくれる問題なのかもしれなかった。
ある日のことである。デイケアの部屋から講堂へと続く廊下を何気なく歩いていた。廊下の壁にはデイケアの利用者さんが書いた習字や塗り絵などが飾ってあった。その中に桜の詩という貼り物を見つけたのである。
桜の詩
桜ひらひら風揺れ、町の彼方へと流れゆく。風に願って運ばれて、どなたに何を届けにゆくの? 桜よ桜、どうして貴方は見事に咲くの? どんなに綺麗咲いたって、お金ももらえやしないのに。桜よ桜、どうして貴方は華麗に咲くの? どんなに素敵に咲いたって、戦争が止まる訳でもないのに。だけど桜は知っている。花をつける意味を知っている。生きる理由を知っている。人間だけが分からずじまい。愚鈍な私は何も知らない。ピーチクビーチク小鳥が鳴いて、花咲く意味を教えてくれようとしている。桜ひらひら風に揺れ、風に舞ってははらはら揺れて、どこの町へと訪ねてゆくの? 学生の入学式を祝いに行くの? 生きる意味を教えてあげるんだね。そして春の来訪を告げるために、桜の花は今日も風に運ばれていく。
その詩を読んで俺は考えさせられた。桜の咲く意味とは何だろう? 生きる理由とはなんだろう? 考えたけれど分からなかった。
その後で俺はデイケアの主任の加藤さんに詩を書いた人が誰なのかを聞いてみた。詩にタイトルはあったが作者名が記入されていなかった。加藤さんは教えてくれた。
「ああ、それを書いたのは高橋さんですよ」
「高橋さんって、デイケアに通っている人なんですか?」
「ええ、高橋さんはいま入院しているんですが、担当の先生から金曜日だけデイケアに通って良いと許可を受けていて、金曜日には来ていますよ」
「あ、そうですか。教えてくれてありがとうございます」
今日は月曜日である。俺は高橋さんに会ってみたいと思った。だけど、どんな話をすれば良いだろうか? 思いつかない。だからきっかけ作りに、絵を描くことにしたのである。
その日、デイケアでの昼食を終えると俺ははまなすホームに戻った。鍵付きの戸棚から通帳を取り出してポケットに入れる。スタッフさんの許可を取って外へ出た。銀行へと向かう。歩いて二十分ほどがかかった。お金を下ろし次はデパートへと行く。デパートまでは一時間がかかった。スケッチブックや画材道具を買って、はまなすホームへと戻ってくる。結局往復に三時間がかかってしまった。
翌日、空は澄み渡るようなお天気だった。デイケアに顔を出すと加藤さんに許可を取って外へ出る。画材道具は持ってきてあった。病院の桜の木から少し離れた場所にあるテーブル付きのベンチに腰を下ろした。桜の木は見事に花をつけている。茶色い小鳥もやってきていた。俺はスケッチブックの一ページ目をめくる。まだ何も描かれていない白いページ。そこに桜の風景画を描き始めた。鉛筆で下書きをしていく。木の幹はたくましく、枝は伸びやかに、そして辺りの背景を丁寧に描いていく。途中デイケアに戻り昼食を摂った。午後からも作画に集中する。だけどさすがに一日では完成しなかった。スマホで桜の写真を撮り、画材道具と共に寝床へと持ち帰った。
次の日も、その次の日も俺は描いた。下書きに万年筆で清書をする。消しゴムで下書きを消す。色を塗り、木の枝に止まっている茶色い小鳥も丁寧に塗る。ちなみに水彩画である。自分でもびっくりするぐらいの鮮やかな桜の風景画が完成した。木曜の午後、俺は加藤さんにその絵を見せた。
「すごいですね! 瀬賀さん。この絵!」
「描きました」
俺は少し照れて、右手で頬をかいた。
「是非、廊下に貼りましょう」
「あ、それなんですが。あの、良かったら、あの詩の隣に貼ってくれませんか?」
「あ、高橋さんの詩ですか?」
「はい。あの詩をモチーフにして描いた作品なので」
「分かりました。貼っておきますね!」
スケッチブックから丁寧に絵のページを剥ぎ取り、加藤さんに渡す。だけど今更ながら後悔の気持ちが起こった。この絵を高橋さんが見た時、どんな気持ちになるだろうか? 喜んでくれれば良いが、嫌な気持ちになるかもしれない。不安があった。
翌日。今日は高橋さんが来るという金曜日である。俺はおそるおそるデイケアに顔を出した。いつものようにスタッフさんが点呼を取り、それからラジオ体操が始まる。デイケアの面々は相変わらずだが、一人だけうら若い女性がいた。加藤さんと何やら話をしている。あの人が高橋さんだろうか? 彼女は俺よりも年下に見えた。髪が長く、オデコが広くて、鼻と唇はちょこんと小さい。美人といよりも可愛いという言葉の方が似合っていた。
ラジオ体操の後、加藤さんが俺に近づいてきた。その後ろには彼女が着いてきていた。
「あの、瀬賀さん。高橋さんが、ちょっと貴方に話したいことがあるみたいで」
「あ、はい!」
やはりあの絵の件だろう。どんな感想をくれるだろうか?緊張があった。しかし緊張する必要はなかった。彼女の顔は薄く上気していて、嬉しそうなえくぼを浮かべていたからである。彼女が聞いた。
「貴方が、あの絵を描いてくれた人ですか?」
「あ、そうなんです! 貴方が、高橋さん?」
「はい。高橋千尋です」
「俺は、瀬賀拓郎です」
「すごく素敵な絵ですね! 私、見蕩れちゃいました」
「そう言っていただけると嬉しいです。三日で描いた絵ですが」
「三日で描いたんですか? あんなすごい絵を?」
「あ、はい。僕はもう十年も水彩で風景画を描いてきていて。あれぐらいの絵なら三日ほどで描けます」
「素敵! 私の詩にはもったいないぐらい」
「いえいえ、高橋さんの詩の方が素敵ですよ」
気づいたら主任の加藤さんはどこか別のところに行ってしまっていた。高橋さんと俺は講堂へと続く廊下まで歩いて行って、貼り出されてある絵と詩を見比べた。絵と詩は二つが隣り合うことでお互いの作品の素晴らしさを深め合っているようであった。
「この鳥は何ていう名前なんですか?」
「ヒバリですよ」
「可愛いですね。それに、すっごく丁寧に描かれてある」
「鳥は小さいですが、描く時は力を込めました。やっぱり、絵のチャームポイントなので」
「そうなんですね。ところでこの絵、どこかのコンクールに出さないんですか?」
「出しませんよ」
「出せばいいのに! きっと受かりますよ」
「受かるために描いた物ではないですから。俺はただ……」
高橋さんが顔を向ける。俺は続けて言った。
「この詩の作者さんに、絵を送りたかっただけなんです」
「あ、ありがとうございます」
彼女が顔を赤くして頭を下げた。
「いえいえ」
「それより私、金曜日はデイケアに来ているんです。良かったら、一緒にカードゲームでもやりませんか?」
「いいですよ!」
それから俺たちは年配の方々と一緒にカードゲームをやったり二人で将棋もしたりした。たくさん会話をした。どうやら彼女の病気は躁鬱病のようだ。精神が躁の時はテンションが上がっていて元気なのだが、イライラすることもある。鬱の時は俺の鬱病と同じく、気持ちが落ち込んでどんよりとしている。彼女は入院中であり、治療中であるらしかった。
それから一ヶ月ほどが経っただろうか? 俺は彼女に会える金曜日が楽しみで仕方無かった。気づけば彼女に淡い想いを抱いている自分がいて驚いた。彼女は思いやりのある優しい女性だった。それに一緒にいると楽しい。いつしか彼女の優しさに包まれるような気持ちを感じていた。俺は三十過ぎというこの年で恋をしてしまった。毎晩彼女を思い浮かべながらベッドをゴロゴロと転がった。早く、早く彼女を抱きしめたい。だけどダメだ。恋という芽をゆっくりと育てる必要があった。それに俺と彼女はどちらとも病気である。だから二人の恋を普通の人のそれよりももっとデリケートに扱う必要があった。でもやっぱり、早くキスがしたい。
いつしか季節は変わり夏が来ていた。その日、千尋は言った。俺が彼女を呼ぶ時の名前は千尋に変わっていた。そして彼女も俺のことを拓郎と呼ぶようになっていた。
「ねえ、拓郎。私、海が見たいわ」
精神病院は海に近い場所にあった。
「そっか。じゃあ、行く?」
「うん、連れて行って」
「だけど、加藤さんやスタッフさんに見つかって怒られないかな?」
「あ、拓郎。もしかしてびびっているの?」
「び、びびってないよ。じゃあ、行こう」
俺たちは加藤さんに今日は病院の外周をウォーキングすると嘘の説明をして外に出た。病院の裏に回り、二人で林の道を歩いて行く。
「ねえ拓郎。拓郎はどうして絵を描こうと思ったの?」
「唯一得意なことだったから、かな」
「ふーん。私と同じ感じね」
「千尋は、どうして詩を書こうと思ったの?」
「唯一、楽しいって思える特技なの」
「そうなんだ」
「うふふ、ねえ、私たち、相性良いよね?」
「え、あ、う、うん!」
「なにその返事ー? あ、拓郎、照れてる?」
「て、照れてないよ!」
「あはは。声が大きくなるところとか、おっかしー」
「わ、笑うなよ」
やがて林を抜けて、道路を挟んだ先に大海原が見えた。潮騒が聞こえてくる。
「わー、海だ」
横断歩道を渡って、千尋が駆けだしていく。そして砂浜に二人で靴のまま入った。柔らかい砂を踏んで、海の浅瀬に近づいていく。波は穏やかであり、寄せては返している。
「すごい。綺麗ね」
「君の方が綺麗だ」
「ぷっ、何言ってんの? あははっ」
「ほ、本気で言ったのに」
「あはははっ」
「笑うことないだろ」
俺は唇をひきつらせた。そして照れ隠しに話題を変えることにした。
「今度、海の絵を描きたいな」
「描きなよ。拓郎ならきっと素敵な絵が描けるよ」
「うん」
それから砂浜を並んで歩いた。俺は少し無口になった。さっきから千尋が話しかけてきている。俺は相づちを打ってばかりだった。
「ねえ、さっきからどうしたの?」
千尋が心配そうに聞いた。
「何でもない」
日頃の想いがもう爆発しそうだった。
「何でもない? ふーん、そっか」
「なあ、千尋!」
「何?」
「俺は、君のことが」
二人が立ち止まる。顔と顔が向き合う。千尋の両目が驚きに大きくなった。
「私のことが?」
「うん、えっと」
「どうしたの?」
「何て言うかその。相性良いなと思って」
「うんうん、それで?」
俺は顔は真っ赤だったことだろう。そして千尋の頬も薄いピンク色がかかっていた。
「千尋、君は可愛い」
「あ、ありがとう」
「あのカモメよりも、可愛い」
「カモメと比べるの?」
彼女が右手を口元に上げて笑う。そんな笑顔も今の俺にとっては宝石のように映った。
「俺、千尋を幸せにしたい」
「それって、それって、どういう意味?」
「えっとだから」
「うん」
「つまりその」
「うん」
「す」
千尋は黙った。
俺は真っ正面から彼女を見つめる。
「す、すすすっ」
彼女の瞳が、俺の言葉を応援するように見つめていた。ああ、やっぱり俺は、千尋のことが、
「好きだ」
「ありがとう」
千尋は数歩歩いた。そしてくるっとこちらを振り返る。両手を腰の後ろに回して、はにかんだ笑顔をくれた。
「私も好きよ、拓郎!」
この日から俺たちは恋人同士になった。幸せで胸がいっぱいでこの気持ちをどう表したら良いのか分からない。俺は今までにだって女性とつき合ったことはある。だけどこんなに夢中になって考えるのは初めてのことだった。味気ないご飯を食べていても、中々寝つけない夜であっても、診察前の椅子に腰掛けて待っている時でさえ、幸せだった。それぐらい、彼女と恋人になれたことが嬉しかった。
しかし翌週の金曜日、千尋はデイケアに来なかった。風邪でも引いたんだろうか? デイケアの加藤さんに聞くと分からないと返事が来た。もしかしたら入院中の患者さんの容態については秘密なのかもしれない。
大丈夫大丈夫。自分にそう言い聞かせて、また翌週の金曜日を待った。またしても千尋は来なかった。俺は心配になって、彼女の入院している病棟に面会を申し込みに行った。すると女性の看護師さんが教えてくれた。
「いま、高橋さんは病状が悪化していて、面会はできません」
「そ、そうですか。彼女は大丈夫なんですか?」
「大丈夫です。ただ、回復にどれくらい時間がかかるかは分かりませんが」
「……そうですか」
がっかりだった。せっかく付き合うことができたっていうのに会えないだなんて。早く治るといいな。そしてまた二人で遊びに行きたい。今度はデパートで彼女の気に入った服を買って、昼はレストランで食事をしたい。
次の金曜日も、千尋はデイケアに来なかった。もしかしたら、担当の医師にデイケアに行くのを禁止されたのかもしれなかった。俺は便せんに絵を描いた。彼女の病棟の看護師さんに渡して、彼女に渡すようお願いをした。次の週も次の週も、その次の週も絵を描いて送った。千尋が治りますように。苦しみませんように。笑顔でありますように。そんな願いを込めて絵を描いた。
その頃には、俺はデイケアにすっかりと馴染んでいた。スタッフさんの主導でやるゲームも、年配の方々とやる麻雀も楽しめるようになった。利用者さんとの何気ない世間話も続くようになっていた。
そんなある日の俺の診察日である。診察室に入ると、担当の男性の医者はこう言った。
「拓郎くん。君はとても回復したみたいだ。デイケアの欠席も無いみたいだし。それでなんだけど、先生としては君に作業所に通うことを勧めたいんだけど、どう?」
作業所というのは、障害を持つ人たちが集まって軽作業などをする施設である。社会復帰を目的とし、訓練をする場所のことだ。
「作業所には、まだ行きたくありません」
「それはどうして?」
俺は膝に両手をついて、頭を下に向けた。
「俺には、この病院に恋人がいて、入院しているんです」
「恋人が入院? 名前は?」
「高橋千尋さんと言います」
「ふーん、高橋さんね。先生は高橋さんの担当じゃないから分からないけれど。でも、恋人が入院していることと、君が作業所に通いたくないことと、何か関係があるの?」
「だって作業所に行ったら、俺はもうデイケアに来られなくなるじゃないですか。そんなことになったら、彼女と一緒に過ごす時間が無くなるではないですか」
「君は勘違いをしている」
ドキッとした。
「勘違いですか?」
「ああ、勘違いだ。その高橋さんは、自分が足かせになって、拓郎くんが作業所に行きたくないと思っていることを知ったら、悲しむんじゃないかい?」
「それは、そうかもしれませんが」
「絶対そうだよ。君はまだ若い。自分の人生を有意義なものにするべきだ。作業所に行くべきだし、それに、はまなすホームから出て、一人暮らしに戻るべきなんじゃないかな?」
「俺は、それでも俺は、まだ作業所に通いたくないです」
「どうして?」
「今、言った通りです」
「その事を彼女が知ったら、君のことが心配になって病気が悪化するかもしれないよ?」
「先生」
「何?」
「病気がある程度回復している俺が、社会に戻るために作業所に通うことを拒否するのは間違っているかもしれません」
「うん、間違っているね」
「ですが」
「うん」
「千尋と過ごす時間を作るために、デイケアにまだ居続けることは、男として間違っていません!」
先生はあんぐりと口を開けた。それからは何も言い返すことをしなかった。
「君の言いたいことは分かった。だけど、とりあえず、一人暮らしはしてみよう。デイケアには送迎バスでも通えるでしょ?」
「はい。一人暮らしなら、分かりました」
「うん。それじゃ、今日はもう良いよ」
「はい。ありがとうござました」
そして俺は診察室を出た。
翌週からはアパートを探して回った。ちなみに俺の両親はすでに亡くなっており、県内に頼る人はいない。貯金はまだあった。働いてためたお金であり、生命保険にも入っていたため、入院中の医療費がだいぶ下りた。俺の精神病の等級は2級である。二ヶ月に一回障害年金が下りる。とは言っても、無職での生活をすれば、貯金はだんだんとすり減っていく。先生にはああ言ったが、作業所に通うことを真剣に考えていかなければいけなかった。暮らしていくためにはお金が必要である。
精神病院のあるこの市には、母が生前の頃からお世話になっている不動産屋さんがあった。そこにまたお世話になることにした。不動産屋さんの若社長さんに車に乗せてもらい、いくつかのアパートを紹介してもらった。アパートの一つを俺が気に入り、そこに決めた。契約には連帯保証人が必要だった。県外に住む兄に電話をしてお願いをした。兄はすぐに了承してくれた。頼もしい兄がいて本当に良かったと思う。アパートに入るその日に、兄は俺の車に家具を積んで届けてくれた。
アパートに来てからは、デイケアに通うために送迎バスを利用した。自分の車でも通えるのだが、ガソリン代の節約である。金曜日には千尋に絵を送った。B型の作業所の見学にも行った。そして彼女と出会ってから一年が経過しようとしていたある日のことだ。
その日、病院の廊下を歩いていると、千尋の病棟の看護師さんに呼び止められた。聞くと千尋が、詩を書き溜めたノートを俺に渡すように看護師さんに頼んだという事だった。病棟のナースステーションに行き、俺はそのピンク色のノートを受け取った。
ノートには溢れんばかりの詩が書き綴られていた。夏の海の詩。秋は山の紅葉の詩。もみじを見て思いついた詩。冬はベッドの上でミカンを食べながら思いついた詩。色々、たくさん、すごい量だ。千尋の思いが伝わってきた。回復して元気になりたい、彼女は心からそう願っている。最後のページに好きな人というタイトルの詩があった。
好きな人
貴方がいてくれるから頑張れる。あきらめないで生きようって思える。暗い暗い闇の中、一筋の光を照らしてくれる貴方。その強い強い光に手をかざし、私は今日も息をする。ありがとう。一緒にいてくれてありがとう。生きていてくれてありがとう。絵を送ってくれてありがとう。こんな私を好きでいてくれてありがとう。元気が出るよ。ご飯がいつもよりも美味しいよ。気持ちがほっこりするよ。苦しい気持ちもどこかへと飛んで行く。生きようって思えるよ。こんな醜い私のために、本気になってくれる人がいるなんて、奇跡です。私は今日も貴方を想っています。幸せにしてあげたい。暖かい気持ちにしたい。笑顔をあげたい。今、貴方が辛い苦しみにさらされているのなら代わってあげたい。今日は素敵な一日で、あなたがとてもウキウキとした気分なら、その隣で私は笑っていたい。ねえ拓郎、一年前よりも、私はずっとずっと貴方のことが好きになったの。私はきっと、貴方に出会うために生まれてきたんだ。そのために、病気にもなったんだ。今は病気に感謝しています。だって病気になることで、こんなにも素敵な貴方に出会えたんだもの。貴方と、添い遂げたい。お慕いしています。大好きです。愛しています。心から。
拓郎へ。
それらを読んで、俺の心はただ事ではいられなかった。彼女はずっと病気と戦っていたのだ。それに対し、俺はちょっとした絵を描いて送ってあげただけじゃないか。もっとできることは無かったのだろうか。
いま彼女ためにできることは何だろう。一生懸命考えた。考えた末、やはりまた描くことにした。俺にはそれしかできない。だけど今度は本気で描く。やる気が漲っていた。
翌日から画材道具をデイケアに持ってきて、彼女の詩に合わせて一つ一つスケッチブックに絵を描いた。上手く描けたものもあれば、あまり上手く描けなかったものもあった。だけど何度の何度も手直しをした。良い味が出て、デイケアのスタッフさんや利用者さんにびっくりされるぐらい、素敵に描けたものをもあった。四季折々の詩をモチーフにした風景画。完成するのに一ヶ月近くがかかった。
金曜日になると、俺はスケッチブックを千尋の病棟に持って行った。看護師さんにそのスケッチブックを託して、千尋に渡してもらった。俺は彼女の喜んだ顔を思い浮かべた。
また春がやってきていた。金曜日の朝、俺がデイケアでいつものようにラジオ体操をしていると、入り口のところから少し痩せた千尋が顔を見せた。普段着である。俺は走った。
「千尋っ」
「拓郎!」
俺は彼女の前にたどり着くと、その華奢なら体を優しく抱きしめた。千尋も俺の背中に手を回した。
「また来れるようになったのか?」
「うん。ごめん、ごめんね。治るのに、こんなに時間がかかちゃって」
「いいよ。それより、たくさん、たくさん話したいことがあるんだ」
「私も、私もあるの。ごめん、ごめん、う、うわーんっ!」
千尋は泣き出してしまった。周りのスタッフさんが困ったようにおろおろとしていたのを覚えている。俺は彼女の顔を胸に抱いて、好きなだけ泣かせてあげた。
話したいことはたくさんある。だけど、これからゆっくりと会話をしていけば良いだろう。俺たちには時間がいっぱいあるのだから。
その日、午後になると二人で外のベンチに行った。太陽の光がさんさんと降る温かな春の日であった。千尋はあのスケッチブックを持ってきたようで、めくっては一つ一つの絵に感想を言ってくれた。
「ねえ、拓郎。この絵なんだけど、どこかに飾れないかな?」
「それは俺も考えていたよ。それなんだけど、写真に撮って、インターネットの投稿サイトに上げるのはどうかな?」
「あ! それ良いかも!」
「うん。千尋さえ良ければ、そうしようと思う。絵と一緒に、詩も合わせてさ」
「うんうん、そうしよう! それで、色んな人に見てもらおうよ。すごく素敵な絵だもの」
「それを言ったら、詩の方がもっと上手だ」
「もう、拓郎ったら」
俺たちは病気の話もした。どうやら千尋は自分に合う薬が見つかったようで、退院も決まったらしい。今後ははまなすホームで日常生活の訓練をする事になるようだった。一年前の俺と同じ生活である。
俺はもうすぐ作業所に通うことになるかもしれないと話した。デイケアには来られなくなる。千尋は少し寂しそうな顔で「休日は会える?」と聞いた。俺は強く頷いて「絶対会いに来るよ」と答えた。
「ねえ、拓郎」
「どうした?」
「この最後のページの女の人と男の人がキスしている絵って、誰と誰のことを描いたの?」
それは俺がほとんど描かない人物画だった。
「え! そ、それは」
「それは?」
「う、うぅ、えっと」
「うんうん」
「えっとー」
「私と拓郎?」
「ま、まあそうだよ」
「じゃあ、キスしないといけないよね! 絵が嘘になっちゃうもの」
俺が彼女の肩に手を置く。ゆっくりと振り向く千尋。頬がピンク色に染まっていた。まるで桜のようである。そして俺たちは、唇を重ねた。胸に暖かな気持ちが宿る。桜の木に遊びに来ていたヒバリがピーチクと鳴いた。
いつだったか、彼女が描いた詩を読んで、生きる理由について考えたことがあった。あの時は答えが出なかった。だけどいま俺は分かったんだ。生きる理由。それはつまり、こういうことなんだろうって。
終わり
感想をくれてもいいのですよ(*^^*)