魔女の微笑むハナコトバ
お母さんは魔女だった、らしい。死んだ今はもう、聞くことはできない。だから家出をした。行き先は特に決めてないけれど、お母さんの古い友人を訪ねてみる。喪服代わりのセーラー服に、遺品のネックレスを身に着けて。
お母さんの死の理由を、知りたかった。
「お母さんの遺骨は、まるで花みたいだったよ」
水平線にキラキラと輝く日差しは、真昼の星です。
夜空の光よりよっぽど身近で、泳いでいけば届きそうだと錯覚します。飛びこまないでいられるのは、そこにだれもいないってわかっているから。
堤防の上を、ただ歩きます。セーラー服の黒が太陽に焦がされて暑いです。首筋を流れる汗が、リボンの代わりに胸元を飾る小瓶につたうのがわかります。
鎖骨と鎖骨の間で小さく跳ねるネックレス。涙のかたちをした小瓶のなかには、何も入っていません。
「なんの病気もなく、事故もなく、つぼみのような姿で、眠ったまま二度と起きることはなかったね」
潮騒だけが大きく聴こえて、その音に記憶が刺激されます。
お母さんが生きていた、最後の夜。寝間着姿でベッドに入ろうとした私は、リビングで椅子に座っていました。テーブルを挟んだ向こうでお母さんが微笑んでいます。
「お母さんはね、実は魔女なんだよ」
「……大切な話って言うから何かと思ったんですけど。
そんな設定のドラマやってたっけ?」
「えー、信じてくれないのー?」
「私をいくつだと思ってるの? 十七だよ、十七」
「おっきくなったねぇ」
「だから、そんな話を信じたりはしないのです」
「むぅ。反抗期ってやつですか」
「むしろ今から突入しそうだよ」
「それは困るなー」
「でしょ? 話がそれだけなら寝るよ」
「早くなぁい?」
「健全なお時間です。あなたの娘はすくすく成長中なのです」
横目で時計を見ると、二十二時三十四分を指していました。
「明日はぐうたら過ごすんだから」
「そうだね、明日は忙しいだろうし早く寝かせてあげたいけど……」
「いや、何があっても家から出ないって決めてるので」
「もうちょっとだけ、お喋りしたいなぁ」
「それは構わないけど……魔女なんておとぎ話の続きをされたら、ここで寝ちゃうからね」
「あは、風邪ひいちゃうよ。
じゃ、べつのお話をするね」
堤防に座って海面を見つめると、記憶が映って見えるようでした。寄せて返す波が、お母さんのように見えて――。
クラクションのけたたましい音が意識に差し込まれます。
思わず音源のほうに振り返ると、対向車線に一時停止のランプを点滅させる小さな車を見つけました。
開いた窓の向こうで、見知らぬ女性が叫びます。
「ねーきみだろー!」
長く伸びた黒い髪。サングラスで目元は見えないが、鼻は高くありません。赤く艶やかなルージュの唇だけが品よく、よれた襟元から目をそむけたくなりました。
残念なことに待ち合わせの相手のようです。
少し先に横断歩道を見つけて、走ります。目上の相手を待たせるのはよくないって知っています。
インナーが肌に張りつくのが不快でしたが、顔には出さないようにして車の扉を開けます。窓は全開でした。
「どうぞ」と指し示されるままに椅子に座り、シートベルトを身体の前に回して準備完了。
「穂花によく似てるね。後ろ姿でわかったよ」
「春藤、波奈です」
「波奈ちゃん。待ち合わせ場所にいない自由奔放、豪放磊落も母親譲り?」
「……自由だったら行き先なんて決めないですし、気にせずにいられたら大人しく待っていました」
「そ。十分ね。気が合いそうだ」
彼女はギアを動かします。Dの位置に運びました。赤い三角模様の描かれたボタンを押します。
「で、どうしたの?」
「家出をしました」
「そんな軽装で?」
ハンドルの裏に伸びる棒を、右手の中指が下にはじきます。ウィンカーが出たのでしょう。体をひねって、後続車を確認しています。
「彼はなんと言ったんだい?」
「そうか、そんな年頃かって」
「相変わらず乙女心を持て余しているようだね」
車がゆっくりと発進します。
やがて速度に乗って、走っても感じられない風の流れを頬に受けます。
私は視線を縫いつけられたように正面を凝視したまま、膝の上で手を固く握りしめていました。
「そう構えなくていい。あいつの忘れ形見だ。悪いようにはしないよ。
約束も、あるしね」
「やくそく……」
私はそっと、涙型の小瓶に指でふれました。
「叶えに来たんだろ、穂花の最後の魔法を」
それは、聞き間違いだと思っていました。夢のようにぼやけた景色のなかで、お母さんの口元だけが目に入ります。
「だいじょうぶ。波奈には、お母さんの魔法が付き添っているから」
車は目的地まで無事に私たちを運んで、和室に通されました。
ぽつんと置かれたちゃぶ台の上に、麦茶の入ったグラスがふたつ、運ばれます。対面になるように置かれています。位置関係のままです。
「ちゃぶ台なんて見ないでしょ」
「いえ……はい……」
「足崩しちゃって平気だよ」
ためらいが動きをぎこちなくしたまま、正座を崩します。座布団がお尻に馴染みません。
彼女は気楽そうに、麦茶に口をつけました。
「さて、どうしたい?」
「わから、ないです……」
「答えられることなら答えるよ」
半分ほど中身の減ったグラスを卓上に置いて、そう言います。
「家出なんて、答えを見つけるためにあるんだからな」
「その、鈴木さんは」
「時々寧でいいよ。時を重ねて穏やかに。
時間はきみの許す限りある。あたしはきみの敵じゃないよ」
「時々寧、さんは、お母さんの友達、なんですよね?」
「友達、ね。
縁が重なったから一緒にいた。その関係を友達と呼んでいいのなら、そうだね」
「もし家出をするなら、時々寧さんを訪ねるようにって、言われました」
「娘に家出をそそのかすなんて、とんでもない母親だな」
「見抜かれていたんです。
ここが自分の居場所じゃないような、どこにいても呼吸がしづらいって」
「居場所から抜け出すための、家出、か。
やってみて、どうだった?」
「変わらないです。
この世界に、自分が生きているように思えません」
「じゃあ、棺の中のお母さんを見て、それを自分だと思った?」
「それは……いえ」
「ごめんね、いやな質問だ。
でも、大切な確認だ。きみはちゃんと、生きようとしている」
「生きようと……」
「そのための道しるべを、穂花は残したんだろ」
私は、胸元の小瓶にふれていました。
「枕元に、置いてあったんです。
最後の魔法を閉じ込めてある、なんてメモと一緒に」
うつむく。唇の震えが、押さえられないから。
「わからないです。ぜんぶ、わからないんです……!
お母さんが何を言ってるのか。
すべてを知っていたように、魔女なんて言ったり、家出の提案をしてきたり。
私は、お母さんがわからない!」
「そうだね、あいつは口べただから。
いつもにへらって笑って、夢みたいな話ばかりして」
視界の端に映る時々寧さんは、グラスをじっと見つめていました。そこに、彼女は何を見つけているのでしょう。
「でも、わかってあげてほしい。
あいつが伝えたかったことに、向き合ってあげてほしい。
照れ屋なんだよ。だから魔女になったくらいに」
その言葉に顔をあげる。聞き逃すことのできない言葉がありました。
手をつけていないグラスの表面を水滴がつたっていきます。
「……わかりたいです。
教えてください。魔女って、なんなんですか」
「想像の通りだよ。魔女って言葉から想像される通り。
おとぎ話に出てくる魔女といっしょ。
穂花は、この世界の住人じゃないんだ」
「そんな……非現実的な」
「そうだね。あたしだって、あのとき信じたわけじゃない。
種も仕掛けもある、手品だって思った。
桜の散る樹の下で、降り重なった花びらがあいつのかたちをしたんだ」
大学生の頃。時々寧さんは家出中だったそうです。
ブランコをこいでいて、うつむく頭の先に桜の樹がありました。降りそそぐ花弁が街灯に照らされています。
「そんな風景すら忘れられないほど、衝撃的な出逢いだったよ」
照明がわずかに途切れて、時々寧さんは顔をあげたそうです。
地面に重なった桜の花びらが風もないのに舞い上がって、お母さんのかたちになったそうです。
とんがり帽子にマントと、古風な魔女の服装に身を包んだお母さんは、困惑の声をあげました。
「え……?」
「は?」
お母さんと時々寧さんの視線が交わります。
さっと青ざめた顔を、お母さんはしました。
「間違えた……だめなのに……!」
「え、何? マジックなら成功だと思うけど」
「どうしよう……わたし、もう帰れない……」
時々寧さんはそんな記憶を、呆れを口の端に乗せた笑いとともに語ってくれました。
「で、話を聞いてみれば『自分は魔女』だって言うわ、『魔法で世界を救わなきゃいけなかった』って叫ぶわ、こっちの悩みが吹き飛ぶくらいにぶっ飛んだやつだったんだよ」
「それほんとにお母さんですか?
いや、たまに……わりと変でしたけど」
「丸くなったんだよ、あいつも。こっちの常識ってやつを身につけて、な」
「信じたんですか……その、別の世界のひとだって」
「信じたよ」
「……魔法でも、見せてもらったんですか?」
「いいや。あいつはもう一回しか使えそうにないから、大切なときまでとっておくって見せちゃくれなかった」
「なら」
「真実はどうでもいいんだよ。
穂花がそう言うなら、あたしは信じようって思ったんだ」
「どうして……」
「紆余曲折、大冒険を重ねたからね。
きみのお父さんと出逢ってからなんて、世界を何周したかわからないくらいの大騒ぎだったんだから」
「それって、どんな」
「成就した恋の話なんて語るに及ばず、そもそも親の恋愛事情とか聞きたくないだろ」
わずかに考えて、浮かんできた映像が結ばれる前に掻き消します。
「たしかに、これっぽちも興味がないですね」
「奇遇だね。あたしもあいつらの恋愛事情にはまったく興味がなくてね」
時々寧さんは、そう言いながらもまぶしそうに目を細めました。
彼女はグラスに手を伸ばします。口をつけないまま、言葉を続けました。
「あいつはたまに言ってたよ。
この世界のことが他人事だって」
「それって……私と同じ」
「きみをお腹に抱えてからは、言う頻度を増したよ。
この世界の住人じゃないから。
だから自分の子供も、同じ思いを抱えるんじゃないかって予測していた」
「遺伝ってことですか」
「由来が近いって、あいつは言ってたよ。
自分を通して元の世界との縁が、子供に結びついているって」
「……じゃあ、私の居場所は」
「ちゃんときみのお母さんが用意してる。
そのために魔法を使うって、決めていたよ」
「そんな奇跡……あるんですかね」
「さてね。
けど、穂花は言ってた」
そこで時々寧さんは、ぐっと麦茶を飲み干しました。
からっぽになったグラスを卓上に静かに置きます。
「魔女ってやつは、言葉が届かないことに怯えて魔法に頼った、弱さの証明だって。
そんなの、だれだって怖いに決まってる。伝えるために言葉にするんだからさ。
奇跡に頼ってでも届けようとした、それは強さだってあたしは肯定したい」
「時々寧さん……」
「波奈ちゃんは、どう思う?」
私の視線は、からっぽのグラスに誘われます。
自身の側のグラスは満杯のまま、結露で濡れています。
「私は、お母さんの気持ちがわかります」
「伝えるのが、怖い?」
「もっとお母さんと話していたかった。話すべきだったって、今日ずっと考えていました。
いつもと違うって気づいていたのに、それを聞くこともしなかった。
でも、後悔するって頭では理解してても、感情が怯えて声が出なくなる。
もし最後だってわかっても、いつもと変わらない話しかできない。
何かを変える力が私の言葉にあるって、信じられないんです」
「それを弱さだって、思うんだね」
「自分のことが信じられないから、奇跡に頼る。
相手に届くなんて魔法があるなら、私もすがります」
満杯のグラスを、私は手に取りました。唇に乗せて、一気に飲み干します。
口を離せば、胸のなかの感情が言葉になりました。
「でも、お母さんが何かを残してくれているなら、私はそれを抱きしめたい」
頬に、かすかに残る感覚があります。
眠りの最中に感じた、あの暖かさは、きっと。
「お母さんと一緒に過ごしてきた日々が、私にとって大切なものだって、肯定したいから」
からっぽのグラスを卓上に置きます。そのなかを、差し込む西日が満たします。
「受け止める覚悟ができたって、そう思っていい?」
「覚悟なんて大それたものじゃないです。
ただ、私がそうしたいってだけです」
「十分でしょ」
時々寧さんは立ち上がって、ふたり分のグラスを手に取りました。
キッチンへと向かうためふすまを開けて、振り返ります。
「穂花はさ、どうしてか自分の終わりを悟っていた。
それが魔女だからなのかはわからないけど」
時々寧さんは、笑いました。喜びしかない、そんな満面の笑みです。
「最後の最後まで手のかかる友達だよ」
靴を履き、駐車場に向かいます。夜は勢いよく空を染め上げて、私たちの輪郭をあやふやにします。
車へと乗り込みます。闇を切り裂くようなライトが灯ります。
「休憩は終わりだ。
あいつに会いに行こう。
穂花の魔法を、叶えに行くんだ」
ギアを入れて、アクセルが踏まれます。
風景が、窓の外を流れていきます。山の緑が離れ、針のような路地を抜け、道がいっきに開けます。
その開放が、私の脳に余裕を生んだのか。ふと、疑問が浮かびました。
「……そういえば」
「ん?」
「どうして私は時々寧さんと会ったことがなかったんですか」
「穂花の人生には、あいつが結婚した時点で深くはかかわらないって決めてたんだ。
たまに会って、いっしょにお茶して。そんな友達でいようって。
この世界で手にした幸せを、あいつから聞ければ十分に幸せだって、そう思えたんだよ」
「大冒険の末に、ですか?」
「ちなみに告白したのは穂花からだ」
「びみょうに聞きたくなかった……」
「あたしと穂花の物語から始まって、彼と彼女の紡いだ絆は結実して、きみが育まれた。
だからこれも縁なんだろうな」
「縁、ですか」
「この縁の果てで、きみとこの世界とが結ばれることを願うよ」
「どう、なんでしょうね」
車は、日中来た道を戻っています。やがて海岸が見えてきました。
真っ暗な水面は底なく、意識ごと視線が吸い込まれます。
「海、見ていたよね、会ったときにさ」
その声が私を釣り上げて、錆びついた歯車が動くように振り返ります。ばくばくと心臓が鳴っています。じんわりと汗がにじんできました。
時々寧さんは進行方向を見たままです。言葉だけが、私を捉えます。
「どうして?」
「自分の名前について考えてたんです。
どうしてお母さんと同じじゃなくて、波なんだろうって」
「花じゃなくて波で『は』、か」
「海が好きだったのかなって」
「たしかに、海をよく見てたよ。ただ、入れ込んではなかった。
花にまつわる魔法を使ってたから、花に思い入れがあるとは言ってたけど」
「お母さんって元の世界でも穂花って名前だったんでしょうか?」
「違う名前だったよ。
ただある日、穂花って名前で生きていくって決めてな」
「穂花……花の実り、ですか」
「それまで落ち込んでたやつが、急に活動的になったよ。
冒険をして、恋をして。笑って、泣いて。
大それたことなんてほんとはないんだろうけど、少なくともあたしの人生にあいつは花を実らせた」
「私も、お母さんが実らせた花のひとつ、です」
「だからきっと、その名前には何か理由があるんだろ」
パズルのように規則正しく並ぶ住宅の隙間を車は抜けていきます。
そして停車しました。
少し離れた場所に、公園が見えます。
「行こうか」
「はい」
火照る体と裏腹に、手足の指先が冷たいです。ぎこちない関節をどうにか動かして、助手席から降ります。
私の後ろを時々寧さんが歩き、公園に入ります。
「あいつとあたしが出逢った場所だ」
中央に禿げた老木がありました。
「あの下から、きみのお母さんはこの世界にやってきた」
重い体を引きずって、そこに歩いていきます。心臓はずっとばくばく鳴っていて、世界の音が聴こえません。
声も風も、ぜんぶ置き去って、私はその樹にたどり着きます。
ざらついて見える感触を嫌うように震える指先を押さえつけて、私はその表面にさわります。
押せば倒れてしまいそうな軽い手ざわりに驚き――その現実を凌駕する幻想が目の前に現れます。
ふわり、と。風なんてないのに。
胸元のネックレスが風を受けたように浮き上がります。
涙のかたちをした小瓶がはじけます。
破片を予感して顔を背けます。
痛みはありません。薄く、瞳を開けて。
「……え?」
はら、はらと。降り、降りつのる桜の花びら。
土を踏む音が聞こえて、振り返ります。
傘。
花びらが雨のように。
そんな雨に着飾るように。
夜空の色をした傘をさして、歩み寄る。
時々寧さんが目を見開いています。私も、同じです。
お母さんが、私の横に並んで樹を見上げます。
「こうして運命すらねじ曲げてしまう魔法。
だからわたしにとって、運命なんて価値がなかった」
お母さんが、私の目を見ます。
「この世界を初めて見たときに思ったの。
なんて醜いんだろうって。
繊細さも精細さもなくて……何より、精彩を欠いた風景。花は千の年月に咲くことなく、季節とともに枯れてしまう。
まるで、死ぬために生まれたように。
それが悲しくて、抗おうとした」
お母さんが振り返ります。その眼差しは、どうしてか、未来を眺めるように見えました。
「ありがとうね、時々寧。
あなたとの日々は、わたしの一番深くに根差す一輪の花。
枯れることを知らない花を、あなたのおかげで見つけることができた」
「お礼、なんて……そんなの、あたしが言うべきだ。
腐ってたあたしに花をつけてくれたのは、穂花、きみなんだから」
「そうあれたなら幸いだよ。
何かを残せたのなら、そここそが私の居場所なんだから」
お母さんが、私に向き直ります。
「生き返ったの、お母さん……?」
「そんな奇跡は必要ない。
帰れなくていいって、思えたんだから」
「……どうして?
私は苦しいよ、居場所がないのは……呼吸ができないのは、苦しい」
「だいじょうぶ。波奈には、お母さんの魔法が付き添っているから」
「ま、ほう……?」
「運命なんていらない。
あのひとと出逢って、そしてあなたと出逢えたことは、私がこの世界で生きていこうと選んだこと。
あなたは私にとって、この世界の美しさそのものだよ」
「なんで、私、なんて……」
「花が散ることを悲しむより、花が咲くことを喜びたいって思ったんだ。
生まれてきてくれてありがとう、波奈」
「私の、名前……」
「寄せては返す、そんなペースでいい。
あなたという愛しい花が、この世界で生きていけますように。
波奈が生きていることに『どうして?』って思ったとき、道しるべになりますようにって願いを込めたんだ。
それが私の魔法。
こんな奇跡の中じゃなきゃ伝えられなかった、わたしの幸せ」
お母さんは微笑みます。それは、まさに咲き誇る花のようで。
幸せのかたちをしていました。
「あなたが生まれてきたこの世界を、怖がる必要なんてないよ。
お父さんがいる。時々寧がいる。
お母さんがいた。
いつかすべてが枯れ果ててしまうとしても、美しいものがなかったことになるわけじゃない」
喉の震えを抑えることができません。せり上がる感情が舌を焼くようです。だから、我慢なんてできませんでした。
「お母さん……おかあ、さん……」
胸に飛び込む私を、傘を放って受け入れてくれました。
その腕に、抱きしめられます。
「生きて、波奈。
この世界には絶対、あなたが咲ける居場所があるから」
傘をなくした私たちに桜の花びらが降り積もります。
その重さは、ひとり分。
腕のなかの感触は、忘れがたい夢のように遠のき、消えました。
傘も、花びらも、魔法は痕跡なく。
現実だけがあります。
だから私は、公園の出口に向かいました。その後ろを時々寧さんは着いてきてくれました。
顔はまだ、見せられません。もう少しだけ。言葉だけが時間を未来に結んでくれます。
「帰ります」
「家出はもういいの?」
「自分探しはきっと一生続くんでしょうけど……。
迷ったときにひとりじゃないって、知れたから。
帰れると思います」
「じゃあひとまず今日は、あたしが送ってあげるよ」
「ありがとうございます」
心の底を掃き清めるように、その言葉は自然に口をつきました。
この感情は、しっかりと面を向けて言葉にして伝えなきゃいけないものです。
振り返って、頭をさげます。
「これからも、よろしくお願いします」
時々寧さんは目を丸くしていましたが。
呆れたように嘆息して、微笑んでくれました。
「……まったく、親子そろって手のかかる」
車を走らせて、私の帰る場所にたどり着きます。
「さ、着いたよ」
「……私、ちゃんと帰れるでしょうか?」
「何を今さら不安がってるのさ。だいじょうぶだよ。あの家は、きみの両親が帰ってくる場所として決めたんだから。心を許していいんだ」
その言葉を、ひとり寝る子供の抱くぬいぐるみのように支えとして、私は助手席を降りる。
「でも、ま」
扉を閉めて、窓越しに別れを告げようとしたら、時々寧さんはわたしをじっと見て言います。
「家出がしたくなったら、いつでも連絡して。
待ってはいないけど、受け入れるからさ」
「……それは、はい。十分です。ありがとうございます」
遠ざかるテールランプを見送って、振り返ります。
家へと歩きます。
鍵を開けて、ドアを開きます。
わずかに息を飲んで、その言葉をかたちにします。
「ただいま」
リビングからお父さんが顔を覗かせました。安堵の見える顔で、ただ頷いて受け入れてくれました。
それが夢じゃないから、私はきっとこの世界で生きていけると、そんな夢を見ます。
シャワーを浴びて、ご飯を食べて、ベッドに入って。
そんな、生活をして。
だからこれは、遠い世界の夢物語なんかじゃなくて。
過去にあった、思い出です。
「ねぇ、なんでおかあさんのしゃしんないのー?」
「んー、そうだねぇ。お母さんは写真ってやつが、得意じゃなくてね」
「どして?」
「だって、色褪せるんだもん。そのときの時間をずっとかたちにするなんて言いながらさ、ずっと未来には色がどんどんなくなってちゃうの。
それがやだなーって、お母さん思うんだ」
「でも、でも、しゃしんとらなきゃ、いまはなくなっちゃうよ」
「なくならないよ。だって、憶えているから」
「でも、ずっとまえのあさごはん、おぼえてないよ」
「んー? そっか、忘れちゃうこともあるか。
うん、それならそれでいいと思うよ」
「よくないよー。きょうのおかあさんだってわすれたくないよ」
「波奈? 忘れるってことはね、それがなくなるってことじゃないの。
その記憶が波奈になったってこと。未来に進んでいる証なの。
だからね、ひとはこう言うの。生きていればいいことがあるって」
「いいことー?」
「そ。楽しいこともつらいことも自分になって、波奈になってね。それが私って生きていったなら、忘れることは悲しい出来事じゃなくて、いつか出逢う嬉しい出来事への一歩なんだ」
「えー、でもおかあさんをわすれたくないよ?」
「忘れないよ。
だいじょうぶ。波奈には、お母さんの魔法が付き添っているから」
「まほう?」
「そ。いつでも波奈といっしょにいる、穂花の魔法。
波奈は波奈。私は私。だから、忘れたりしないよ」
「うーん……わかんないけど、それなら、よかった!」
夢から覚め、目を開き、私は見ていたものを忘れます。何か、お母さんについてのことだったような気がします。
霧の向こうに見る景色のように、ぼやけてすべてが遮られます。
手は届きません。すべては過去です。
お母さんとの日々は、もう、思い出のなかにしかありません。
それでも、知っている。
私は、私の生を望まれていると。
それだけは、忘れません。
「波奈」
声はいまだ、耳に残っています。
声から忘れていくといいます。故人についての記憶は、声から失われていくと。
それでも、なくなってしまうわけではありません。私が生きているかぎり、お母さんの魔法は消えてなくなりません。
お母さんがこの世界で生きた痕跡は、お父さんがいて、時々寧さんがいて、私がいて、だから残り続けます。
花びらのように、季節が変われば失われる存在ではありません。
そんな希望がお母さんを笑顔にしたのなら、私は言い切れます。
春藤波奈は、幸せに生きられます。
名前を呼んでくれるひとがいたのなら、この世界はきっと呼吸ができるはずです。それだけのことが、何よりも大事だったのです。孤独を感じていたのは、私が世界を遠ざけていたから。奇跡は身近にあります。
私も、この世界に生きているのです。
布団から起き上がります。学校があります。だから、準備します。
おはようの挨拶をして、歯を磨いて、ご飯を食べて、服を着替えて、靴を履いて。
お父さんは先に家を出るから、静寂です。無音が重苦しく肩に乗ります。
いつもだったら送り出してくれる、あの声はありません。
どんなに廊下の奥を見つめたって、何ひとつ揺れたりもしません。
だから――だからこそ。
「いってきます」
私は、そう言って扉を開けます。
声が、耳の奥で聞こえました。
「いってらっしゃい」
今はまだ、思い出が背中を押してくれます。
かたちに残るものがなくたって、きっと、そんなふうに生きていけるのです。
扉を閉めて、鍵をかけて。
私は、学校へ向かいます。
胸を張って、歩幅を大きく、なんてできないけれど。
それでもちゃんと、行きたい方向に進んでいます。
道しるべなんてない、そんな未来へ。
私のペースで、歩いていきます。