第9話 聖女と錬金術師
セーラの改革は、財政や農業にとどまらなかった。彼女が次に目をつけたのは、領民の健康を脅かす「衛生」の問題だった。
「オトーシア、病気の多くは、目に見えない小さな生き物……細菌やウイルスが原因なの。それを防ぐには、まず『手を洗う』こと。そして傷口を『消毒』することが重要よ」
セーラはオトーシアに、石鹸の作り方と、蒸留による高濃度アルコールの精製法を教えた。石鹸は獣脂と木灰から作ることができ、アルコールはココハッジョが売り出した強い蒸留酒をさらに蒸留することで得られた。
オトーシアはすぐに行動に移した。教会の施療院で、患者に触れる前後の手洗いを徹底させ、傷の処置には必ずアルコールで消毒したガーゼを用いるようにした。最初は「聖水でもない酒で清めるなど」と抵抗があったが、その効果は絶大だった。化膿して命を落とす者が激減し、原因不明の熱病の流行も食い止められたのだ。
人々は、その奇跡的な治癒をもたらすオトーシアを、いつしか「ケインの聖女」と呼び、深く崇めるようになった。彼女の施療院には、近隣の領地からさえ助けを求める人々が訪れるようになった。
その頃、ココハッジョもまた、セーラの知識を元に新たな商機を掴んでいた。
「セーラ、この蒸留って技術はすげえぞ!強い酒は高く売れるし、オトーシアの言う『消毒用』ってやつも、騎士団や医者から引く手あまただ!」
彼はセーラから教わった蒸留器を改良し、安物のエールから高純度のアルコールを大量生産する仕組みを確立した。それは、ただの飲み物や薬としてだけでなく、ランプの燃料など、様々な用途に使える画期的な商品だった。人々は、ありふれた麦の酒から価値ある液体を生み出すココハッジョを、畏敬の念を込めて「錬金術師」と噂した。
知恵の魔女、セーラ。
聖女、オトーシア。
錬金術師、ココハッジョ。
「黄金の夜明け団」の三人は、それぞれが領地に大きな変革をもたらすアイコンとなり、民衆から絶大な支持を集めていた。領主テセスラインも、豊かになっていく領地と、それに伴う自らの名声の高まりに満足していた。
しかし、光が強ければ、影もまた濃くなる。
その輝かしい噂は、当然、彼らを目の敵にする者の耳にも届いていた。
ある日、オトーシアの施療院に、一人の男が訪れた。旅の巡礼者を装っていたが、その鋭い目は、明らかに何かを探る色をしていた。男はオトーシアの治療の様子を観察し、やがてその正体を現した。
「……やはり、お前たちか」
その声に、オトーシアは息を呑んだ。そこに立っていたのは、他でもない、修道士カジノウだった。
彼は以前よりも痩せ、その目には狂信的な光が宿っていた。
「聖女だと?錬金術師だと?笑わせるな。それは全て、あの魔女が授けた禁断の知識に他なるまい。お前たちは人の形をした悪魔だ。人心を惑わし、神の秩序を乱す、断じて許されざる存在……!」
カジノウは、セーラたちの活動の全てを「魔女がその勢力を拡大している証拠」と断定した。
「私はこの全てを、中央教会、そして偉大なる異端審問会に報告する。お前たちの偽りの楽園も、ここまでだ。神の裁きを、覚悟するがいい!」
そう言い残し、カジノウは再び姿を消した。彼の言葉は、セーラたちが築き上げてきた平穏な日々に、破滅の影を落とす不吉な予言となった。