第6話 蜘蛛も魔獣
「黄金の夜明け団」の活動が始まって数ヶ月。セーラは表向きは両親の畑仕事を手伝う平凡な娘を演じながら、夜になると密かにオトーシアとココハッジョに地球の知識を授ける日々を送っていた。
オトーシアは驚異的な速さで医学と薬学を吸収し、教会の片隅で始めた施療は、もはや「奇跡の聖女様」と噂されるほどの評判を呼んでいた。ココハッジョもまた、セーラから学んだ経済学の知識を活かし、薄利多売戦略や新しい流通ルートの開拓によって、スラカシ商会に脅かされていた店を立て直し、逆に複数の店舗を持つまでに商いを拡大させていた。
仲間たちの目覚ましい成長に満足する一方で、セーラ自身はどこか空虚さを感じていた。二人には「復讐」や「商売の成功」という明確な目標がある。しかし自分には?知識を教えることに喜びは感じるが、その先に何をしたいのか、まだ見つけられずにいた。
そんなある日の昼下がり。セーラは両親と共に、来期の種まきに向けて畑の土を耕していた。その時、遠くの森の方から、甲高い人間の叫び声が響き渡った。
「うわぁぁぁぁあああああ!」
それは明らかに尋常ではない、恐怖に満ちた絶叫だった。バルツは鍬を握りしめて身構え、セーラとクリスヤーノも声がした方を凝視する。やがて、森から数人の人影が、こちらへ向かって必死の形相で走ってくるのが見えた。
「逃げろぉぉぉ!化け物だぁぁぁ!」
先頭を走る男の叫びに、バルツは弾かれたように叫んだ。
「セーラ、クリスヤーノ、逃げるぞ!」
何が起きているのか分からないまま、セーラたちもその人々に倣って走り出した。ただならぬ気配が、背後から迫ってくるのを感じる。
しばらく走ったところで、一人の男が古い納屋を見つけ、中に避難するよう叫んだ。
「そこに隠れるぞ!」
全員がなだれ込むように納屋に駆け込み、閂をかける。人々は床にへたり込み、荒い息を整えた。
「一体、何があったんですか?」
バルツが尋ねると、最初に叫んでいた男が震える声で答えた。
「巨大な……蜘蛛だ。この納屋ほどもある、とんでもなくでかい蜘蛛なんだよ!そいつが一声吠えたら、地面が揺れて地割れが起きたんだ!あれはただの獣じゃねえ、魔獣だ!」
その言葉を裏付けるかのように、ズウゥゥン…という重い地響きが納屋を揺らした。巨大な何かが、すぐ近くを歩いている。全員が息を殺し、納屋の中は死のような静寂に包まれた。
どれほどの時間が経っただろうか。外の気配が消えたように感じられたが、誰も確かめる勇気はない。そんな中、セーラが意を決し、扉の隙間からそっと外を覗き見た。
そこにいた。納屋のすぐ前に、巨大な蜘蛛が鎮座していた。複数が集まった真っ黒な八つの目が、じっとこちらを見据えている。間違いなく、気づかれている。
セーラは悲鳴を飲み込み、静かに扉を閉じた。絶望的な状況に、誰もが顔を青くする。音を立てれば、あの怪物が牙を剥くかもしれない。
(どうすれば……この状況を打開するには……)
セーラは必死に脳を回転させた。納屋の中を見回すと、壁際に積まれた小麦粉の袋が目に入った。
(これだ……!粉塵爆発!)
セーラは小声で、しかし切迫した口調で指示を飛ばした。
「みんな、静かに聞いて。私が合図をしたら、あっちの壁を壊して外に逃げて!」
彼女は懐からナイフを取り出し、音を立てないように小麦粉の袋を切り裂く。そして、納屋の床に火打石と火口を準備した。
「今よ!」
セーラの叫び声と共に、男たちが反対側の壁に全力で体当たりする。古い木壁は数回の衝撃で砕け散り、外への逃げ道ができた。人々が転がるように脱出するのを確認し、セーラは火打石を打った。散った火花が火口に移り、小さな炎が生まれる。セーラはその炎を、小麦粉を撒き散らした麻袋に投げ込んだ。
次の瞬間――轟音と共に納屋が大爆発を起こした。
爆風に背中を押されながら、セーラも外へ転がり出る。背後で燃え盛る納屋を振り返る勇気はなかった。全員で街の門まで無我夢中で走り、門の守衛に事の次第を告げた。
やがて、厳つい鎧をまとった騎士が数人を引き連れて現れた。
「私がこのケイン領騎士団団長、ジオーレだ。蜘蛛型の魔獣が出たと聞いた。詳しく話を聞かせてもらおう」
「ま、魔獣……?」
セーラはオトーシアから言葉だけは聞いていたが、それが現実の脅威として現れたことに戦慄した。
「ああ。魔法を操る凶暴な生物だ。貴様らが遭遇したのは、おそらくアース・スパイダーだろう。地を揺るがす魔法を使う」
セーラは自分が目撃した蜘蛛の特徴や、地割れの魔法、そして自分が納屋を爆破した経緯を冷静に説明した。ジオーレは一介の少女の的確な報告に感心した様子で頷いた。
「見事な判断だ。その爆発で魔獣が死んでいれば僥倖。そうでなくとも、貴重な情報を得られた。礼を言う。あとは我々騎士団に任せろ」
そう言うと、ジオーレは部下を引き連れ、魔獣討伐へと向かっていった。その勇ましい後ろ姿を見送りながら、セーラはようやく全身の力が抜け、その場にへたり込むのだった。自分の知識が、またしても命を救った。しかし、それはもはや人を助けるというレベルではなく、この世界の理そのものに干渉し始めていることを、彼女は自覚せざるを得なかった。
2025 6/20 編集