第1話 知識の魔女
初めての執筆作品です。
優しくしていただけたら幸いです。
「オギャアアアアオンギャアアアアアア」
魔獣の咆哮にも似た凄まじい産声が、貧しい小作人の家を揺るがした。その声の主は、たった今この世に生を受けたばかりの赤子。小作人のバルツとクリスヤーノの間に生まれたその女の子は、セーラと名付けられた。
「ふふ、元気な子ね。可愛いわ、私のセーラ」
母のクリスヤーノは、疲れ切った顔に満面の笑みを浮かべ、我が子を愛おしそうに見つめる。父のバルツも、その小さな手を恐る恐るつつきながら、頬を緩ませていた。
一見すれば、セーラはどこにでもいる平凡な赤ん坊。しかし、その小さな頭の中には、この剣と魔法が息づく世界とはまったく異なる、遥かに進んだ文明『地球の現代知識』が、まるで巨大な図書館のように収められていた。彼女は産湯の温かさを感じながら、その液体がH₂Oという化学式で表せることを理解し、自らの置かれた異常な状況に内心でため息をついていた。
この瞬間、心優しい両親はまだ知る由もなかった。自分たちの娘が、やがてこの世界の理を根底から覆す『知恵の魔女』としての運命を背負っていることなど――。
――13年後――
じりじりと照りつける太陽が、乾いた大地を容赦なく焼いていた。
「あぁ、もう……暑すぎ。こんな非効率な労働、やってられないわ」
13歳になったセーラは、汗で額に張り付いた美しい銀髪をかき上げ、うんざりした顔で空を睨んだ。例年になく厳しい酷暑の中、彼女は両親の営む小麦畑で収穫を手伝っていた。
「お父さん、いい加減にして。この畑、もう何年も小麦ばかり作っているから連作障害を起こしてるのよ。土の栄養が空っぽ。このままじゃ収穫量はどんどん減っていくわ。来年は豆類を植えるとか、輪作をしないとダメだって言ってるでしょ!」
セーラは地球の農業知識から、土壌疲弊の危険性を訴える。しかし、文字の読み書きすらおぼつかない父バルツにとって、娘の言葉は異国の呪文のようにしか聞こえなかった。
「またお前はその難しい言葉を……。領主様からお借りしている大事な土地だ。俺たち小作人が勝手な真似をできるわけないだろう」
いつものように、バルツは聞く耳を持たずに娘の意見を退ける。セーラの眉間に、苛立ちの皺が刻まれた。
(まったく、私の言う通りにするだけで収穫量が1.5倍は確実なのに。どうしてこの程度の簡単な理屈が理解できないのよ!)
知識が深まると他人に謙虚になる、ということを表す「実るほど頭を垂れる稲穂かな」という言葉がある。だが、セーラの態度はその真逆。実り少なく痩せたこの麦穂のように、周囲を見下すことでしか心の均衡を保てなかった。自分の知識が誰にも理解されず、この貧しい生活から抜け出せないもどかしさが、彼女を日に日に傲慢にさせていたのだ。
セーラは反論を諦め、細い腕でがむしゃらに鎌を振るう。強い日差しが体力を奪い、めまいがした。
「疲れた……。私はどう考えても、肉体労働より頭脳労働向きに決まってるわ」
文句を言いながら顔を上げると、母クリスヤーノが手際よく小麦を刈り取っている姿が目に入った。その瞬間、母の体がぐらりと大きく揺れ、糸が切れた人形のように地面に崩れ落ちた。
「お母さん!」
「お父さん!お母さんが倒れた!」
セーラの絶叫に、バルツが鎌を投げ捨てて駆け寄ってくる。クリスヤーノは顔を真っ赤にし、大量の汗をかいて苦しそうに喘いでいた。
「大丈夫か!クリスヤーノ!」
バルツは慌てて妻を背負い、近くの日陰の納屋へと運び込んだ。しかし、そこには同じように倒れた村人が何人も運び込まれ、呻き声を上げていた。
そこに、一人の修道士と若いシスターが姿を現した。
「ここに患者がいると聞いて参りました。……これは、酷い。悪魔の仕業に違いありません」
修道士は苦しむ人々を一瞥し、厳かに言い放った。この世界では医療は教会の独占分野であり、病は祈祷で治すものと信じられている。
「悪魔祓いのための聖水を用意できますが、これは貴重な砂糖を使った特別な水に祈りを込めたもの。金貨10枚のお布施が必要となります」
その言葉に、誰もが絶望の表情を浮かべた。小作農にそんな大金が払えるはずもなかった。
(悪魔?馬鹿じゃないの。どう見ても熱中症よ。聖水?……砂糖と塩……まさか、経口補水液のこと?)
セーラは隣にいたシスターに小声で尋ねた。
「ねえ、シスター。その聖水って、水に砂糖と塩を溶かしたものよね?」
「ええ、その通りです。どうしてそれを?」
シスターは驚いたように目を丸くした。
(やっぱり!)
しかし、高価な砂糖が手に入らないことに変わりはない。セーラは脳内の知識を必死に検索する。
(砂糖の代わりになる糖分……果糖でもいいはず。そうだ、干しブドウ!)
セーラは閃くとすぐに行動に移した。納屋の隅に置かれていた干しブドウの袋を掴み、水筒の水で戻して力いっぱい搾る。その即席のブドウジュースに、持参していた塩をひとつまみ加えた。
「お母さん、これを飲んで!」
クリスヤーノの口元に運ぶと、彼女はこくこくとそれを飲み、しばらくすると荒かった呼吸が少しずつ落ち着いてきた。
「すごい……セーラ、お前がこれを?」
バルツが驚愕の声を上げる。その様子を見ていた他の村人たちが、一斉にセーラに群がった。
「お嬢ちゃん、うちの亭主にもそれを!」「こっちも頼む!」
セーラが再び作業に取り掛かろうとした時、先ほどのシスターが近づいてきた。
「その干しブドウが砂糖の代わりになるのかしら?」
先ほど聖水の作り方を教えてくれたシスターがセーラに尋ねた。
「そうよ。砂糖の代わりにブドウで糖分を補うの。熱中症には、食塩と糖質を含んだもので水分を補給するのがいいの。」
シスターは質問を続けた。
「あの……熱中症、とは何ですの?それは悪魔の仕業ではないのですか?」
初めて自分の知識に真剣な興味を示してくれたその眼差しに、セーラの心に微かな光が灯った。
「ええ。暑さで体の水分と塩分が失われる病気よ。悪魔なんて関係ない。シスター、あなたも覚えておくといいわ。この知識は、たくさんの人を救えるから」
セーラは少し得意げに、しかし丁寧に説明した。この出会いが、彼女の運命を大きく動かすことになるのだった。
2025 6/20 編集