序章
東京優駿。
数多くのサラブレットが栄光に挑み、感動を生み出してくれたレースである。
そんなレースで筆者が生涯忘れることができないもの。
それは二十年ほど前のことだ。
私も若く、記者としては新人だったが競馬愛では負けないつもりでいた。
当時のがむしゃらな私はどうしても我慢できず、無敗のまま皐月賞を制し、東京優駿へと挑むサラブレットの取材を担当させてもらった。
そして電話での取材申し込みをすると、あっさりと承諾してもらったことに驚いたものだ。
余談ではあるが、この時のことを後に聞いた。
戦術や調子なんて聞かずにただ馬を見たいのでお願いします!なんて変わった記者だと思ったからだよ。
と、老調教師に笑われて言われたときには恥ずかしい思いをしたが、今では良い思い出である。
厩舎に到着すると挨拶を済ませ、いよいよご対面だ。
馬房へと近づき、私の目に飛び込んできたのは、漆黒の体に輝く流星を額に持ったサラブレット。
初対面の私を威圧するでもなく、優しい瞳で出迎えてくれる。
それはまるで歓迎しているかのように。
私が呆然としていると、声をかけられる。
それは若き天才との呼び声高い騎手だった。
どうですか?凄い馬でしょう?
同じくらいの年齢のはずだが、彼の落ち着いた雰囲気はベテランそのものだ。
だが、そう感じさせないのは彼の無邪気な笑顔だろう。
は、はい!凄く優しそうです!
言葉に詰まりながらそう答えると、彼はこらえきれずに吹き出した。
何か失礼のことでも!?
ははは、違いますよ。
僕が初めて見た時と同じ感想だなと思いまして、そんなにいないでしょうね。
競走馬に優しそうというのが第一印象な人は。
そんな話で盛り上がっていると、私は当初の目的を思い出す。
取材に来たというのに、ただのファンのような会話になってしまっていた。
次のレースはどういう風に闘われるつもりですか?
いつも通りですね。後ろについていき、直線で先頭へと立ちます。
というかですね?僕は乗っているだけなんですよ。
全ての判断は彼がやってくれるので。
そう言い苦笑しながら彼は相棒を見上げた。
すると笑ったように歯を見せ、口角を上げる。
……なんだか会話を理解しているようですね?
そうだと思いますよ?
調教の会話をするとげっそりしています。
その反面、食事や散歩の話をしているとスキップして催促してますからね。
私はその話を聞いて彼を見上げると、照れくさそうにそっぽを向いたのだった。
そこで私は耐え切れず笑ってしまう。
それにつられて二人も笑う。
あははは!ヒヒーン!
最後に一言いただけませんか?
取材時間の終わりが近づいたのでそんな質問を投げかけた。
そうですね……彼の活躍に期待してください。
きっと忘れられないものになりますから。
そう言って微笑む。
あっ、もし勝ったら派手なお祝い記事をお願いしますよ?
……負けたら、ほどほどにしてください。
ははは、分かりました。
約束します。
そうして私は記事を書いた。
忘れられないレースとなるはずだ!と……
まさしくその通りのことになる。
しかしそれは、我々が思い描いていた未来とは違うものであった……
当日、時代の目撃者になろうとする多くのファンが競馬場に訪れる。
当時最高の入場者数となったそうだ。
そして今でもその記録は破られてはいない。
大きな歓声の中でファンファーレが鳴り響き、レースは始まりを迎える。
宣言通り、彼らは最後方で待機して走り、そのまま直線へと向かう。
しかし先頭との差は大きく、届くのだろうかと私は不安になってしまった。
それは観客たちも同じだっただろう。
だがそれは杞憂に過ぎなかった。
大外を回って、前を向いた瞬間、溜められていた脚が矢のように解き放たれる。
大きく開いていた差はみるみるうちに詰められていき、あっという間に先頭へと躍り出た。
そしてゴール板を駆け抜けた二人に大きな歓声が上がる。
だがその瞬間、二人は崩れ落ちていった。
それは非常にゆっくりと、しかし確実に二人はターフへと近づいていき、倒れ込んだ。
その衝撃的なシーンを見て誰もが何も言えずにいた。
そんな中で無敗のダービー馬となったサラブレットがよろよろと動き出す。
ターフへと投げ出された騎手に向かって。
彼の前右脚は、あらぬ方向へと曲がり一目で骨折だと分かる。
それがどのような結果を生み出すかも……
それでも彼は歩き、騎手の元にたどり着くと、鳴いた。
以前に聞いた力強いいななきではなく、力なく悲しそうな鳴き声。
まるで謝っているかのように、泣いていたのだ……
その後、無敗のダービー馬は空へと旅立つことになる。
そして同時刻、救急車で運ばれ意識不明だった騎手も旅立ってしまった。
どこまでも二人は一緒なのだろう。
そう思い、私は涙を流しながらも笑顔で記事を書いた。
どの記事も悲報を伝える中で、私は勝利を祝福する。
おめでとう!最強のタッグが栄光を掴む!
彼との約束通りに。
今でも二人はともにいるのだろうか?
私はいてくれると嬉しいと思う。
天弓と呼ばれた二人が離れてしまうのは、とても寂しいものだから。
最後尾から矢のようにターフを駆けた二人に感謝を込めて……
私が選ぶ最高の名馬
著者 競馬好きおじさん