2.お気楽令嬢は、心配される。
「なんでそんなことを……」
テオドールは、ゆっくりと深呼吸をした。
それほどまでに、さっきの会話は衝撃的だった。
(まさか、そんなに自分を卑下するなんて……!)
信じられなかった。
『殿下だってお遊びに決まっているわ』
『冷静に考えて、あんなにすごい人が私のことを婚約者に選ぶはずがないわ。きっと――たまたま、他の女性を避けるために選ばれたのよ』
さらりとアンネローゼが答えたとき、テオドールは頭をぶん殴られたような衝撃を感じた。
殿下がアンネローゼに向ける親愛の情は、普通なら簡単にわかるはずだ。
アンネローゼ様はそれに気が付いていないのか。
いや、気が付くことができない、というべきか。
「あれは、さすがにキツかったわね」
開いた扉からリタが入ってきた。
部屋に入ってきたメイドは、テオドールの方を見ずに、ため息をついた。
「アンネローゼ様は、ラヴォワの北方に行きたいんだって」
「そんなわけないのにな」
テオドールは短く答えた。
皇国の北方――そこは、広大な大地と冷涼な気候で恐れられている場所だった。
並の人間なら裸足で逃げだすような厳しい環境。
しかも、北方には元々異民族がおり、そこを皇国が編入したという形になっている。
その経緯から、北方には、反皇国をとなえる武装勢力が乱立し非常に危険である、という噂はテオドールの耳にも入ってきていた。
「殿下が、前に武装勢力を鎮圧しただろ? あの皇都のはずれの方の屋敷に潜伏してたっていう」
「アンネローゼ様が、見破ったやつね」
「そう――あの中にも北方系の人間が、かなりいたらしい」
そこまで読み切った彼女が、知らないはずがない。
つまり、アンネローゼは知っているのだ。
北方が危うい場所だ、ということを。
しかし、それでもなお、北方に行きたい、と言っている。
「つまり、自分が邪魔だから――」
テオドールは声が出せなかった。
主人の悲壮な覚悟が心にしみて、言葉をうまく出せないのだ。
「……ここにいたら、俺たちに迷惑をかけるから、北方に行くってことだろ?」
なんとか言葉を絞り出す。
「北方の貴族なんて、みんな中央に行きたくて必死に賄賂を贈ったりしてるっていうのにね。私たちのことなんて、気にしなくたっていいのに……」
気が付けば、リタも涙をぬぐっていた。
「しかも聞いた? アンネローゼ様は、その北方で"のんびりしたい"ってて」
「あんな天才的頭脳を持っているのに、"のんびり"ねえ……」
――そんなわけがない……!
アンネローゼ様の悲痛の覚悟を感じ取ったテオドールは、ぎりと拳を握り締めた。
自分は、アンネローゼ様の頭脳――いや、"神の頭脳"の凄まじさを覚えている。
あの夜のアンネローゼの輝きを、テオドールは一生忘れることがないだろう。
「あんな能力があるのにね」と目を真っ赤にしたリタが言う。
「あんなに凄いことができて、貴族としても、商人としても、なんなら、騎士団や軍にいたって活躍できるのに……」
「それなのに、"何もせずにいたい"か」
口に出してみると、その異様さがわかる。
本来、あれだけ能力がある人間なら「何かをしたい」と思うのが当然だ。
金、名誉、地位。
(なんだって欲しいと思えば、すぐ手に入るのに……)
「しかも、あの明るさが悲しいよな」とテオドールが言えば、「ええ」とリタも肯定した。
アンネローゼは一見表情がわかりづらいが、よくよく見ると、感情自体は豊かである。
今日も小さく手でvサインを作っていた。
「あの明るさは絶対に無理をしているわ。だからこそ、それがより一層つらいの」
「あぁ、俺たちに心配かけないために、わざわざあんな仕草までしてくれてな……」
――沈黙。
テオドールとリタは、「元婚約者の王子に相当ひどいことを言われ、それが原因となってアンネローゼ様は自信を喪失してしまったのだろう」という聞けばアンネローゼも仰天の結論に達していた。
もちろんアンネローゼにそんな事情は一切なく、ただ単に自分のやりたいことを好き放題ぶちまけていただけだったが、幸か不幸か、「お宅のアンネローゼ様はあれが素ですよ」と、テオドールとリタに真実を教えてくれる人間は、この場にいなかった。
「こうなったら、やることは一つしかないわね」
「なんだよ」
「決まっているでしょう? アンネローゼ様は自分が殿下に似合わないと思っていらっしゃるんだわ。だったら、殿下に似合うほどちゃんと綺麗にして、対面させてあげなきゃ!」
「まあ……たしかに一理ある、か……」
そう言いながらテオドールもうなずいた。
アンネローゼ様はあまり着飾ることをしない。自分にはふさわしくないと思い込んでいるのだろう。
だからこそ、明日殿下と会う場面で自信を付けさせてあげれば……!
いい考えだ、とテオドールも思う。
「さすがだな。多少は見直した。その……他のみんなにも伝えてやらないとな」とテオドールは、珍しく犬猿の仲のメイドに賛辞を贈った。
やはり真正面から褒めるのは恥ずかしかったので、あくまで顔を背けながら、ではあったが。
「当然よ」とメイドも微笑む。
「主人の気持ちを完璧に理解してこその使用人ですもの」
「ああ、なんてって、俺たちは――アンネローゼ様の使用人だしな」
だから、頑張らないと。
そう言って、笑い合うテオドールとリタ。
2人はこれまで以上にアンネローゼ様に真摯に仕えようと、心を新たにした。
これを機に、さらに2人は研鑽を続け、アンネローゼにふさわしい人材になるべく努力に努力を重ねていくのであったが――
が、根本的なところで、主人であるアンネローゼの気持ちは全く理解されておらず、肝心のアンネローゼの願いは全く違う方向に物事は進もうとしていた。
「――それにしても最低の王子ね、滅びて当然よ」
「同感だな」
余談だが、アンネローゼの余計な発言のせいで、屋敷の中ではアンネローゼの元婚約者のベルゼは親の仇とか先祖代々の仇レベルで嫌われる、という風評被害を食らっていた。
本日のアンネローゼ様
→(周囲からの)悲劇度アップ。なお本人はスローライフのことしか考えていない模様。ついでに元婚約者の評判を地の底まで下げる。