18.お気楽令嬢は、風評被害を受ける
裏市は不思議な場所だった。内部は細かく道が入り組んでいる。そんな中で、それぞれが店や集まりを開いているのだ。
多くの店では、一見さんはお断りのようだ。看板に名前が書いていないところも多い。
老若男女色々な人を見かけるが、どこか全員、油断なく目を光らせている。
でも、ここ悪くないぞ、とアンネローゼはむしろ感心しながら、裏市を歩いていた。
先ほど、老婆に教えてもらった薬屋に行ってみたが、驚きだった。
「一番強い媚薬が欲しい」とアンネローゼが言ったところ、無言で差し出してくれたのだ。
悪くない。
むしろ、余計なことは聞かないというプロっぽい感じがにじみ出ていた。
アンネローゼは、屋敷の連中を思いだす。
普通、一番大事にするはずの主を放っておいて、最も危険な地域に平気で行かせるようなやつらである。
一方、ここの住人は思ったよりもはるかにましである。
さっきの薬屋の年齢不詳の女性もそうだし、さっきから道行く人々が全員アンネローゼに道を譲ってくれるのである。
これにはアンネローゼも感動した。屋敷の連中の暴れっぷりの方がよっぽど危険だよ、と愚痴を言いたくなる。
というわけで、アンネローゼは極悪非道と言われる裏市を案外楽しんでいた。
たしかに、強いて言えば、若干臭いが気になるような気もするが――
そもそも、来るべきスローライフに備えて、家で密かにちょっと臭いの強い肥料を密造してしまい、母親にこってり叱られた経験のあるアンネローゼは、全く気にしていなかった。
*****
「親分。今日はどんな獲物を見つけますか」
子分の男に”親分”と呼ばれたゴルドーは、暗闇の中で笑みを浮かべた。
「次、ここの道を通ったやつを締め上げて、そいつで遊ぶことにするか」
親分の「遊ぶ」という発言に喜びの声を上げる2人の子分。
ここ裏市には、皇国の衛兵や警吏ですら介入できない。
だから当然、ゴルドーのような男、つまり暴力ものさばることになる。
もちろん、ここに来る連中はそれなりに自衛力を持っているのだが、そんなのはゴルドーには関係ない。
鍛え上げられた分厚い筋肉。岩のような体躯。
裏社会でも、それなりにゴルドーの名は知られていた。
「さあて、どんな奴が来るか……」
そんな残酷な笑みをたたえるゴルドーの目線の先にぼんやりと現れたのは、一見、裏市にはそぐわなそうな少女だった。
「ん?」
「ひゃっほう!」と囃し立てる部下とは裏腹に、ゴルドーは一気に警戒心を上げた。
見たところ、普通の少女だ。そうだ。ゴルドーの眼から見ても、普通の少女だ。
しかし、何かがおかしい。
少しずつ、少女の姿が見えるにつれ、ゴルドーの違和感は強くなっていた。
やがて、ゴルドーの胸にただ1つの感情が芽生えた。
(なんで、あの女、あんなにヘラヘラ笑っていられるんだ……!?)
「今夜は、いい思いができそうっすね!」とはしゃぐ部下をゴルドーは制した。
「黙れバカがッ! だからお前らはその程度なんだ!!」
「な、なんでですか? 別に、何の変哲もない女じゃないですか……」
「……よく見てみろ、あの締まりのない顔を」
「どういうことです?」
察しの悪い部下にイライラしながら、ゴルドーは部下に唸り声を上げた。
「じゃあ質問を変えてやる。なんであの女は、この裏市であんなにだらしない顔で笑っていられるんだ?」
裏市といえば、皇都ランゴバルディアでも、その名を知らぬものがいないほど悪名が鳴り響く地域である。
命すら保証されない魔窟。皇国では、どんなわんぱくな子供でも、親にこう言われる。
――命が惜しかったら裏市だけには近づくな、と。
「で、でもあの女の歩き方。まるで素人ですよ!」
「ふん。だからお前らは、まだまだ半人前なんだよ」
目線を少女から外さず、ゴルドーは部下の質問に答えた。
そうだ、焦ってはいけない。
思考を研ぎ澄ませる。
「確かにド素人が裏市に来ることもある。しかし、そういう時には必ず護衛やなんかを連れてきてるもんさ。だからありえないんだよ」
ゴルドーは全身に寒気を感じていた。
久々に感じる恐怖。
最近はめったに感じなくなってしまった圧倒的な危険。
「たった1人で、あんな素人がいるってことはな」
「つまり……」と、もう一人の部下が尋ねた。
「ああ、おそらくあの女は相当の使い手だ。もしくは相当、”闇”を見てきている」
ゴルドーも馬鹿ではない。筋肉だけではこれまで裏市で生きてこれなかっただろう。
そんなゴルドーの明晰な頭脳は、すでにあの女の正体を導き出していた。
なぜ、あんな素人同然の女が1人で笑顔で歩いているのか。
答えは簡単だ。
「つまり、あの女にとってはここがお遊び同然だ、と言うことだろう」
部下の間に、動揺が走った。
それはそうだ。
部下たちだって、1人で裏市を歩くことはほぼない。
要するに、それだけ危険なのだ。次の瞬間に何が起きても文句は言えない、そういう場所。
ところが、目の前の女は、ヘラヘラとまるで平然と歩いている。まるで、散歩でもしているかのように。まるで、ゴルドーたちなど、いつでも潰せる、と誇示するかのように。
それがどうしようもなく恐ろしい。
ゴルドーの見てきた限り、どんな強者だって、裏市では多少なりとも警戒をするはずだ。
それにもかかわらず、目の前の女はあろうことか、スキップをし始めている。
「おそらく俺らよりも、はるかに”闇”で生きてきた人間だ」
ゴルドーはそう結論付けた。
「で、でも弱そうですけど」
「バカ野郎がッ!!」
またしてもふざけたことを言った部下を、ゴルドーは静かな声で怒鳴りつける。
「よくよく見てみろ。この腐った肥溜めで、なんであんな平然としていられる!?
俺らだって鼻がひん曲がりそうな場所だぞッ!?」
「た、たしかに……」
部下たちもごくりと喉を鳴らす。
「そして、あのネックレス……」
ゴルドーはそう言って、徐々に近づいてきた女の首を指した。
「あれは……なんですか。あの黒い枝と呪文……みたいなのは?」
「いや、おそらくあれは人の指だろう」
「指……ですか?」
――もちろん、実際は老婆リイジィが幸運を願って作った、ただの木の枝であったが、リイジィの壊滅的色彩センスと、通りの薄暗さによって、3人にとっては完全に「ヤバい系・おぞましい系の呪いの道具」としか見えていなかった。
「ああ」とゴルドーは、自分の感じた恐怖が間違っていなかったことを痛感した。
「東方の呪術に恐ろしい呪具があると聞いたことがある。おそらくあれがそうなんだろう」
3人はそろってドン引きしていた。
自分たちだってそれなりに悪事を働いてきた自覚はある。
しかし、人の指をネックレスにし、それを首から掛けるという世にもおぞましい行為を忌避するだけの理性は持ち合わせていた。
「恐ろしい奴がこの国に来ましたね……」
「ああ、もしかすると、こういう真似もやめておいた方がいいかもしれんな。なんかこう……、もっとまともに働いた方がいい気がしてきたぜ」
「で、でもあの女何をしに来たんですかね?」
部下の疑問はもっともだった。
「おそらく、皇位継承関連だろうな」
最近、裏市にはある噂が流れていた。
「お前らも聞いただろう? 第2皇女、第1皇子派が人を集めているらしい」
「だからって、あんな奴まで呼び寄せてるんですか!?」
「ああ、あの2人は評判悪いからな。相当ガラの悪い連中にも声をかけているらしい」
ゴルドーは声を潜めた。
「あれはただもんじゃねえ。おそらく、国をいくつも滅ぼしてきた、とかそういうパターンだろう。とんでもねえ邪悪な野郎だ……」
「お、親分……! 俺、悔しいです!!」
部下が、唇をかみしめる。
「要するに、次の皇帝になろうとしている偉い奴が、あんなやばい奴を使おうとしているってことでしょ? 皇位の継承って言ったら各国からお偉いさんが集まるようなところだ。そんなところでおぞましい呪術を使われたりでもしたら……」
「ああ、おしまいだろうな」
ゴルドーは冷や汗を感じながら答えた。
暗殺、クーデター、国家の転覆。事態は容易に想像できた。争いが争いを呼び、戦争だって始まるかもしれない。
「なあ、お前ら相談がある。俺は今気が付いた。なんだかんだで俺は、この国が好きだったらしい。俺はあんないかれた野郎に、この国をめちゃくちゃにさせるもんか」
答えを待つ間もなく、部下たちもうなづく。
部下たちも同じ気持ちらしかった。
「で、でもどうするんですか。俺らじゃあんな奴に真正面から敵わなそうですよ」
「いい考えがある」とゴルドーは部下に言った。
「ゲオルグ第3皇子だ。俺も聞きかじりだが、魔術も得意で、頭脳明晰。それに俺らみたいな人間でも積極的に取り立ててくれるんだと」
3人は目を合わせた。
声に出さなくても、気持ちは通じた。
――この日、生まれて初めて目にした圧倒的な悪に、ゴルドーの中で、長い間忘れかけていた正義の心が目覚め始めていた。
そうと決まれば話は早い。もう女はすぐそこまで来ていた。
ゴルドーは女に背を向けた。
「さっさと行くぞ。このままだと鉢合わせだ」
「お、親分! なんか会釈してきてますよ」
「バカ野郎ッ! あれは挑発だ。見て見ぬふりをしろぉ!!!!」
*****
アンネローゼは今、猛烈に感動していた。
先ほどからあまりにも上機嫌過ぎて、ちょっとばかしルンルンで歩いていたのだが、ふと目が合ったガタイのいい3人組は、アンネローゼの眼の前からさっと走り去ってしまったのだ。
たしかにちょっと上機嫌過ぎたので、恥ずかしくなって会釈をしてみたのだが、何もそんなに逃げる要素は一つもなかったはずだし……。
「……レディーファースト?」
一体全体、ここのどこが危険なのか、とアンネローゼはさっぱり理解できなかった。
本日のアンネローゼ様
→あまりにも危機感がなさ過ぎて逆に無法者をビビらせる