2.お気楽令嬢は、さっさと帰りたい
アンネローゼが恐る恐る後ろを振り返ると、見知らぬイケメンが憤怒の表情で立ち上がっていた。
「いつまでも、いつまでも……」
憤懣やるかたないという様子で、イケメンがこちらに近づいてくる。
「げ、ゲオルグ殿下、な、なにを……」
先ほどまで気持ちよくお互いの世界に入っていた二人も、だいぶ焦っていた。
なんだこの出しゃばりイケメンは、とアンネローゼが呆気にとられていると、イケメンはあろうことかアンネローゼを守るようにして、二人と対峙し始める。
「さっきから聞いていましたが、お言葉が余りに過ぎるようではありませんか? あなた方が好き勝手に糾弾している間、こちらのご令嬢はずっとうつむいていらっしゃいました。彼女にも弁解の機会があってもいいでしょう!」
「い、いや、こ、これは我が国の問題である……。他国の方に言われる筋合いはない!」
何とか威厳を取り戻したらしい王子が、ピンクブロンドさんの前でかっこをつけるためにか、ゲオルグさんとやらにかみつく。
「いえ、関係はあります。第一、これは私のための催しだったはずです。ホストである貴国のやり方に口をはさむわけではありませんが……こんなやり方はあんまりです!」
勝者、謎のお怒りイケメン!
アンネローゼは、脳内でイケメンに軍配を上げることにした。
そういえばパーティーのホストが来賓を放っておいて、楽しく婚約破棄ってどうなんだろう。なんか普通に外交問題になりそうである。
「い、いやまあそれは……」ともごもごしている王子を放っておいて、泣きぼくろが涼し気なイケメンがこちらを向く。
「名も知らぬご令嬢よ。何か言いたいことがあるのではないですか? 今、あなたの話を遮るものはもうありません。どうぞ、何か反論があったらおっしゃってください」
あら、ご丁寧にありがとうございます。
とはいえ、別に反論も何もないんだよなあ、とアンネローゼはぼんやりした。むしろ、計画は順調といってもいいほどだ。
このイケメンを除き。
「でも……いいんです……」
うん。いや、ほんとに。
夢にまで見た、お気楽スローライフが私を待っているので。
「きっと私に非があったんですわ……」
とアンネローゼは答えた。
あ、ヤバい。欠伸出そう。
同時にしおらしい感じを装いながら、アンネローゼは湧き上がる眠気を必死に噛み殺していた。
まあ、いい。この茶番さえ終われば、アンネローゼがこの世で二番目に嫌いな妃教育も終了だろうし、あとは慰謝料を頂くまで、好きなだけ屋敷で食っちゃ寝食っちゃ寝、するだけである。
寝る時間は死ぬほどあるだろう。
「……ん?」
ふとした違和感に、アンネローゼは気が付いた。
気が付けば、アンネローゼの周りは静まり返っている。
「そんな……」
目の前のイケメンが、呆然とした表情で言う。
「あなたは許す……というのですか」
許す?
何の話かな、と思いつつ、さっさと帰りたかったアンネローゼはコクコクとうなずいた。
もう大丈夫なので、切実に帰らせていただきたい。
目の前のイケメンは、アンネローゼの発言に大層ショックを受けたみたいで、ぽつりとつぶやいた。
「こんな大きな夜会で、衆目の前で、婚約破棄をされるということが、うら若き女性にとってどれほどの屈辱か……。私にだって想像がつきます。それでもなお、あなたはすべてを許されるというのか……」
ぶっちゃけイケメンの発言を適当に聞き流していたが、さっさと帰りたかったアンネローゼはイケメンの顔を正面から見つめた。
「ええ、許します」
なんかイケメンが許すだの許さないだの、ほざいていたので、適当にリピートする。
これが、アンネローゼの編み出したお気楽社交術その1である。
とりあえず、相手の言うことをリピートしてたら、それっぽい会話になるのである。これならば、喋りながら「スローライフでやりたいこと百選」を妄想していてもバレる心配がない。
ちなみにお気楽社交術その2はない。現在開発中である。
いや~、それにしても、知らず知らずのうちに笑顔になってしまう。私の理想郷が待っているのだ。辺境地でスローライフ。
いい響きだ。
王都の屋敷は狭かったので、乗馬とか庭造りとかもやってみたい。
それにしても今日は眠い。あくびを必死に押し殺す。なんかもう眠すぎて、肩がぷるぷる震えてきた。
この夜会も、もうちょっと早い時間にやってくれればいいのにな、とアンネローゼは目をこすりながら、心の中で文句を垂れていた。
例えば、お昼、とか。
……まあ、それだと夜会とはいえないか。
ゲオルグ・フォン・ラヴォワは、目の前の女性に対し感情を抑えきれなかった。
急に、婚約破棄の話が進行し始めたとき、ゲオルグは遠くで冷めた目をしていた。
そもそも、他国の王族もいるような中でする話ではなく、王子の力量を疑ったのだが、それでも積極的に関わろうとは思わなかった。ピンクブロンドの髪の令嬢の演技は明らかに嘘くさかったが、自分に関係があるわけでもない。
そうやって冷めた目で見ていたゲオルグはいつの間にか、婚約破棄だと糾弾されている側の令嬢から目を離せなくなっていた。
その女性はじっと俯いて、なんの反論もしない。実に堂々とした姿だった。
それにしても、あまり見ていて気持ちのいい光景ではない。だからこそゲオルグは、彼女にも一言言わせてあげようと、名乗り出たのだが――
彼女は泣き言ひとつ言わなかった。
辛くないはずがない。こんな大勢の前で婚約を破棄されたのだ。外聞も悪いし、今後嫁ぎ先だって無くなるだろう。それに彼女の立ち姿を見て、ゲオルグは気が付いた。
その立ち姿にはしっかりとしたマナーが感じられた。
美しい立ち姿。どれほどの時間、努力したのだろう。彼女には反論する権利がある。そう感じたゲオルグは再度、助け船を出したつもりだった。
しかし、ここでもゲオルグの予想は裏切られる。
アンネローゼは笑顔で、「大丈夫」と言ったのだ。
しかし、そのすぐあとにゲオルグは気が付いた。彼女の肩が震えていることに、そして、彼女の目にうっすら涙が光っていることに。
ゲオルグは一瞬でも、「大丈夫」という言葉を信じてしまった自分を恥じた。
何が大丈夫なのか、そんなわけがない。
これほど衆人の前で罵倒され、貶められ、大丈夫なはずがない。
おそらく、彼女は王子のことを想っていたのだろう。
だからこそ、大丈夫だと、そう言った。この若さで、彼女は立派な淑女だった。
そして、それはゲオルグが、未だかつて見たことのない涙だった。
ゲオルグだって王子だ。今まで散々、女性が泣いたのを見てきた。今までゲオルグが見てきた女性は、ゲオルグのことを責めるために、皆の前で泣き、誰も見ていないところで高笑いをしていた。
それに比べてこの令嬢はどうだ。皆の前で必死に笑顔を作り、問題無いと言ってのける。
本当は苦しいのに、それを見せず、笑ってみせる。
ゲオルグは、この瞬間、完全に彼女に撃ち抜かれた。
この涙は自分だけのものだ、と思う。
彼女に、もうこんな涙を流させない。
だからゲオルグは、自分が自然と彼女の手を取ったことにも、全く驚きはしなかった。
「名も知らぬ令嬢よ……。貴女の名前も知らぬまま、こんなことを言うのは不躾かもしれません。でも……」
言葉が詰まる。
のどが渇く。
でも、言わなければ。
今、ここで。
「僕と、婚約して頂きたい!」
「……んん?」