10.皇太子殿下のお気持ち(1)
「で、皇国で名高いゲオルグ殿下は、婚約者のどこを好きになったのかな?」
「またその話か」
アンネローゼが屋敷でパニック状態になっていた同時刻。
いつも通り、自らの執務室で書類の処理をしていたゲオルグは、声をかけてきた男に呆れ声で返事をした。
ゲオルグの目の前には、若い男がいた。
軽薄そうな笑み。ゲオルグの怜悧な雰囲気の前にもかかわらず、姿勢を崩しており、その表情には一切の緊張も感じられない。
「いい加減飽きないのか、オットー」
「申し訳ないが、飽きるには当分かかりそうだ」
オットー、と呼ばれた青年は皮肉交じりに返した。
「ここ一年。任務で地方をずっと巡ってきた。そして皇都に帰ったと思ったら、お前の他国への外遊に付き添わされ、気が付けば、なぜか物々しい雰囲気になり」
はあ、とため息をつくオットー。
「そんな中で俺は必死に働いていたのに、昔からの仲の皇太子殿下はどさくさに紛れて、他国から令嬢を連れ帰っているし……」
「人聞きの悪いことを言うな」
オットー・ハルトマンは珍しい役職だった。"巡察史"――地方を回り、地方の政治状況を監査するという仕事である。
そんな一介の役人が、ここまで皇太子であるゲオルグに気やすく話しかけられるのには、理由があった。
オットーの母親はゲオルグの乳母でもあって、幼少期からよく知った仲だったからである。
「彼女が言ったんだよ」とゲオルグは答えた。
「一旦、国の状況が落ち着くまでゆっくりさせてほしい、と」
「へぇ? そりゃまたなんで?」
「きっと彼女なりの配慮だろう。彼女のせいではないが、彼女を慕う令嬢たちの枷が外れてしまったのは事実。だからこそ彼女は自分がいれば面倒なことになりかねない、と」
「なるほど。自分の事より、国内の政治状況の安定をとったのか」
「ああ、中々できることじゃない」
ゲオルグは、改めて彼女の強さに感心した。
――事実としては、アンネローゼ派の令嬢のあまりの暴れっぷりと、言うことを聞かなさに恐怖を抱いたアンネローゼが、
「ほとぼりが冷めるまで逃げなきゃ!! え? 皇国に居れば、衣食住も完備だし、ここでいいのでは??」と自分のことを優先しまくっていただけなのだが、この場では、「誰よりも国を優先させる聡明な令嬢」という、盛大な勘違いが発生していた。
それにしても、
「どこを好きになったか……ねぇ」
ゲオルグは、彼女のことを思い浮かべた。
これまで彼女は王太子妃として、苦労することも多々あっただろう。それは彼女のマナー、気品を見れば明らかだ。
しかし、その努力をすべて無視され、あまつさえ婚約破棄をされた。
王子――ベルゼからどんな扱いをされていたのか、今となっては想像がつく。
あの皇子の醜い行い。
将来を誓い合った相手に裏切られるとは、どんな気分なのか。
もちろんすべてを理解することはできないかもしれない。だが、できる限り、その気持ちに寄り添いたいと思ってしまう。
だけど、彼女はいつも明るかった。
一生懸命で、素直で、誰よりも周りのことを優先する。自分の身を犠牲にしても、他人を優先してしまう。
本当はこんな異国で過ごすのも大変なのかもしれない。しかも、皇太子殿下である自分のせいで、彼女にさらに迷惑をかけているのかもしれない。
だが彼女は、ゲオルグの前で、一切暗い顔や疲れた顔を見せたことがない。
婚約破棄をされた直後、一緒に馬車に乗った時でさえ、アンネローゼは泣き言一つ言わずに、窓の外を眺めていた。
本当はつらいはずなのに。
一体、何が彼女をそこまでさせるのだろうか?
あの純粋無垢な笑顔の裏には、一体どんな苦労が、困難があるのだろうかと考えると、ゲオルグの胸は痛む。
一度たまらず、彼女を抱きしめたとき、彼女の小さい身体は震えていた。これまでどんな辛いことに耐えてきたのだろう。
ゲオルグは強く思った。今まで自分のことを優れている、と思ったことはある。
けれど、
(彼女は凄い。でも自分はまだまだだ。これじゃ、一生彼女に追いつけない)
「ていうか、なんだ。結構、本気で惚れてたんだな」
そこまで語り終えたゲオルグに、意外だという表情をオットーが見せた。
「…………」
ゲオルグは怜悧な表情を崩さなかったが、返事は誰の眼にも明らかだっただろう。
みるみるうちに、オットーの顔がにやつき始める。
「おーおー。あのゲオルグがねえ。あんだけ女の影一つもなかった奴がこうまで変わるか」
「うるさいぞ、オットー」
「まあまあ。それより、二人きりで少しは何か話したんだろ? ラヴォワに来てから」
ゲオルグは顔をしかめた。
痛いところを突かれた。このオットーという友人は普段適当だが、どこか勘の鋭いところがある。
しかも、ゲオルグの触れられたくない話題を目ざとく追及してくる。
ゲオルグはため息をつくとしぶしぶ口を開いた。
「実を言うと……、まだあまり話していない」
オットーの顔が再び、見る見るうちに変化していく。その顔は、間違いなく「ありえない」と言っていた。
「お、お前……しょ、正気か……???」
*****
オットーは友の――それも次期皇帝の有力候補と目されている男の――恋愛力が著しく低いことに驚愕を隠せなかった。
(ダメだこいつ、早く何とかしないと……!)
だが一方で、たしかに、と納得する自分もいた。
ゲオルグ・フォン・ラヴォワは神に愛された天才である。
今正面にいるオットーから見ても、ゲオルグの魅力は圧倒的だった。
快い低音の声に、見惚れるほど整った顔立ち。
スッと通った鼻筋に、柔和なくちびる。そして、強く輝く緑の瞳。
背丈は高く、自分よりも頭一つ分抜けている。
また一見、細めの体格だが、その奥には引き絞られた筋肉があることをオットーは知っていた。
小さいころ、何度も剣でボコボコにされたのは昨日のことのように覚えている。
そして、その外見と並ぶくらい、その才覚もすさまじかった。勉強、芸術、魔術。
全てにおいて欠点が存在しない。
まさしく皇子と呼ばれるべき男。
しかし、その能力と魅力ゆえに、ゲオルグは恋愛力が低かった。
というより、人気がありすぎて嫌気がさしていたのだろう。長年近くにいたオットーも浮いた話を聞いたことがなかった。
オットーはゲオルグを無言で見つめた。
「ん?」
ゲオルグは身内にはそれなりに優しいが、割と冷淡なタイプである。
(仕方ない。俺しかいないよな)
友人のため、そして皇国の未来のために、オットーは「何としても二人を結びつけるのだ」と固く誓った。