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7話

 翌朝、酷い頭痛で目が覚めた。頭が割れるように痛む。軽く頭を振ると、鈍い痛みが襲いかかってきた。


「ああ、これは相当ヤバいやつだな」


 身体中に、アルコールの匂いがまとわりついている。これだけの二日酔いなら、普通は記憶を無くしているはずだ。どうやって家に帰って来たのかも覚えていない、はずなんだ。


 今まで、気が付いたらベッドの上だったという経験が何度もあった。なのに、今回は昨日のことをありありと思い出せる。


 来夏に背負われて帰って来たことも、来夏を傷付けてしまったことも、彼女に心を許してしまいそうになったことも、全部覚えている。


 人間って生き物は不思議なもので、忘れたいことほど忘れられないようにできているらしい。


 取り敢えず水を飲もう。できれば味噌汁なんかも飲みたい。


 鉛のように重い体を引きずって、ベッドから降りた。時計を見ると、昼の十二時を過ぎた頃だった。冷蔵庫を開け、ミネラルウォーターを一気に飲み干す。棚を開けてインスタントの味噌汁を探すが、カップラーメン以外何も入っていなかった。冷蔵庫にも、ミネラルウォーターと酒以外入っていない。今は缶チューハイすら見たくないと思った。


 流石にカップラーメンを食べる気にはなれない。こんな体調で買い出しに行く気にもなれず、シャワーでも浴びてスッキリしようと思った、その時だった。


 ビーッとインターホンの音がした。


 瞬間、体が固まる。


 またあいつが来たのかと、ドアの方へ視線を向けた。昨日あれだけ傷付けてしまったというのに、あれだけの暴言を吐いてしまったというのに、彼女はまた、僕の元へ来てくれた。


 その時、自分の中に恐ろしい感情が芽生え始めている事に気が付いてしまった。


 この時僕は、彼女が来てくれて良かったと思っていた。彼女に嫌われていなくて良かったと、僕は心底安堵していた。


 あいつは偽物だというのに、本物の筈がないのに、僕は、来夏に嫌われていない事に安心している。まだ見捨てられていない事に安堵している。それが、一番恐ろしかった。


「優太くん、体調大丈夫? 心配だから一応来ちゃったんだけど」


 扉の奥から、声がした。昨日あんな暴力を振るってしまったというのに、彼女は僕を心配してくれている。その事実に、胸が痛んだ。彼女の顔が見たいと思ってしまう。会ったら会ったで、傷付けてしまうかもしれない。それも怖かった。


 会いたくない。


 会いたい。


 認めたくない。


 認めたい。


 それらは全て相反する感情だった。でも、それらの感情は両立して僕に襲いかかっていた。


 本心を言えば素直になりたかった。もう、ただ愚直に盲目に、来夏を来夏と信じてしまえたらどれだけ楽だろうか。そうすれば、これ以上彼女を傷付ける心配も無くなる。


 もう、楽になっても良いのだろうか。僕はこの数年間、ずっと人生に絶望していた。それくらいの幻想に囚われても、許されるのではないか。


 泥沼のような思考の海に溺れかけていた時、スマホが震えた。そのお陰で、思考が止まる。僕は切実に電話の相手に感謝した。


 危なかった。このままでは、どうかしてしまうところだった。僕には冷静になる切っ掛けが必要だった。来夏という幻想に、騙されてしまうところだった。


 僕のスマホにかけてくる人物なんて、蓮田くらいしかいない。そう思ったけれど、あの来夏なら僕の連絡先くらい知っていても何もおかしくないと考え直す。


 慌ててベッドに放り投げていたスマホの元まで行き、胸を撫で下ろした。電話をかけていたのは、来夏ではなかった。着信は、蓮田からのものだった。


 来夏に話し声を聞かれるのはまずいと思い、慎重にベランダに出る。


 酔いを覚まそうと外の新鮮な空気を目一杯吸ってから、電話に出た。


「なあ越生。まさかお前……俺を騙してたんじゃないだろうな」


 開口一番、蓮田はそんなことを口走った。その口調は、なんだかとても哀しそうだった。なんのことだか、さっぱり分からない。僕は今まで、蓮田に嘘をついたことなんてない。


「どういうことだよ。ちゃんと事情を説明してくれ」

「昨日の夜、お前が女に介抱されてるのを見たんだよ」


 蓮田は一度息を吸ってから、続ける。


「初めは酔い潰れたお前を親切な人が介抱してあげてるのかと思ったんだよ。手伝おうと思って近づいてみるとよ、そいつはいつかお前が見せてくれた幼馴染とそっくりだった」


 確かに、飲みの席で蓮田に来夏の写真を見せたことがある。


「ちょっと待て、それは誤解なんだ」

「お前、俺を嘲笑ってたのかよ。自分は幼馴染と幸せに過ごしといて、俺が一人悲しんでるのを……」

「良いから聞けって!」


 声を震わせながら語る蓮田を、無理やり止める。怒鳴り声をあげたせいで、頭に鈍痛が走った。ベランダの下を歩いていた通行人が、何事かと空を仰いでいた。一度咳払いしてから、口を開く。


「いいか、お前は勘違いしてる。僕も混乱してるんだ。あいつは、偽物なんだよ」


 隠す必要もないと思い、僕は蓮田に来夏のことを全て説明した。


「そんなことがあるのかよ」


 蓮田は信じられないといった声で驚く。


「僕だって大変なんだ」


 そこで蓮田は何かを思い出したように「そうだ」と呟いた。


「お前、その偽物の幼馴染に恋してるんじゃないだろうな?」


 そう聞かれ、一瞬どきっとした。まるで心を見透かされているような気持ちだった。


「あ、いや、そのさ」

「まさかお前……そうなのか?」


 僕は恥も外聞もかなぐり捨てて、蓮田に白状した。蓮田は僕の話を黙って聞いてくれた。しばらくして、彼は口を開いた。


「そうか……まあ、普通そうだよな。俺もお前と同じ立場だったら、同じようなことになっちまうかもしれない」


 電話先の蓮田の声は、とても優しかった。


「凪沙が目の前に現れたら、冷静じゃいられないだろうな。でもよ、越生。一つ言っとくぜ」


 蓮田は声を低くして呟く。


「死んだ人間は生き返らない。これは、冷静な俺からの冷静なアドバイスだ。覚えておけよ」


 蓮田が電話をかけてくれて、本当に良かったと思う。こいつと話していなければ、僕は確実に来夏に籠絡されていた。


「あと、そうだ。少し前だったかな、ネットでとある事件についての記事を見たんだよ」

「とある事件?」

「そうだ」


 それから蓮田はその事件について説明してくれた。


 その事件の被害者、ここは便宜的にAとしよう。そのAは、僕達と同じように若くして最愛の人を亡くしていた。ある日、そんなAの前に死んだ恋人を名乗る人物が現れた。その人物は死んだ恋人と瓜二つだった。初めは混乱していたAだったが、次第にその偽の恋人に惹かれてしまう。Aは彼女に様々なブランド品を貢がされ、しまいにはネズミ講紛いのネットワークビジネスの餌食にされて、金を毟り取られてしまった。


「お前もそうならないように気をつけろよ」


 蓮田は念を押すように言った。


「おい、話はそれだけかよ」


「いや、実際はAの葛藤とか、なぜ信じるに至ったか、とかいう細かいことが書かれていたが、もう覚えてない」

「そうじゃない。肝心の恋人の正体だよ。そこが一番知りたい」


 蓮田は一度間を開けて「ああ、そうだったな」と言った。こんな大切なことを忘れるなんて、信じられない。


「ところで越生、お前はなんだと思う?」

「いや、」


 返事に詰まる。その正体が簡単に分かったら、こんなに苦労していない。


 なぜ蓮田はこんなにも、もったいぶるようなことをするのだろう。昔のこいつは、こんな要領を得ない行動は取らなかった。もっと賢い奴だったはずだ。


「クローン人間、とかか?」


 恥ずかしさを押し殺して、振り絞るように言った。瞬間、電話口から「ぶふっ」という音が聞こえた。こいつ、今完全に僕のことを馬鹿にしやがった。スマホを握る手に、力が入る。


「馬鹿にしてるのか?」

「いや、面白い答えだと思ったんだよ。いくらなんでも、クローン人間はないだろ。SFの世界じゃあるまいし」

「お前だって、水槽の脳がどうたらこうたらとか言ってただろ」


 僕が攻めるように言うと、蓮田は笑いながら「悪い悪い」と謝っていた。


「でも、今の答えで越生が本気で悩んでるんだなって分かったよ。クローン人間なんて、悩み抜いて振り絞った脳みそからしか出てこない答えだ。試すようなことして悪かったな」


 絞りカスみたいな答えだと言いたいのだろうか。完全に人を舐めている。


「で、結局、恋人の正体はなんだったんだよ」

「ああ、そうだったな。恋人の正体は」

「正体は?」


 蓮田は一拍置いてから口を開く。


「死んだ恋人の、双子の妹だ」


 ☆★☆★☆★


 蓮田との電話を終え、部屋に戻るとインターホンは鳴り止んでいた。来夏の声も聞こえない。音を立てないように玄関まで向かい、ドアスコープから外を覗いたものの、そこに来夏の姿はなかった。どうやら今日は諦めて帰ったようだ。


 蓮田の話を思い出す。被害者であるAは、恋人に双子の妹がいることを知らなかった。なぜなら、その双子の両親は幼い頃に離婚しており、片方ずつ引き取られ、ほとんど顔を合わせずに育ったからだ。当然、Aは恋人に双子の妹がいることなど知るはずがない。


 その妹は、何らかの手段を用いて姉の彼氏であるAを見つけた。更には、彼が姉を忘れられずにいることも知った。そして、利用することを決めたのだろう。


 この話は、僕と来夏とにも当てはめることができる。だって、来夏の両親は彼女が幼い頃に離婚しているのだから。彼女が言っていないだけで、知らされていないだけで、来夏に双子の姉か妹がいても何らおかしくない。


 僕は早急に、来夏に双子がいたかどうかを調べなくちゃいけない。もし来夏に双子の姉妹がいたのなら、そいつはほぼ百パーセント僕に付きまとっている偽物の来夏だ。


 シャワーを浴びてから、もう一度水を飲んだ。頭痛はかなり残っているが、家で一日を無駄にするわけにもいかない。


 来夏の実家に向かう必要がある。彼女の母に、来夏は双子だったのかどうか問いただす。


 凪沙さんの墓参りついでに、蓮田も同行してくれるという。


 身支度を整えて、空きっ腹でキリキリと痛む胃を抑えながら、玄関の扉に手をかけた。その時、外からコトンという何かを置く音が聞こえた。音の種類は、ガラスに近い。慎重にドアスコープから外を覗くと、来夏が立ち去って行くのが見えた。彼女はいったい、何を置いたのだろうか。


 そこで、閃いてしまう。わざわざ双子がいるかどうか調べなくてもいい方法を思いついた。しかし、それをするのは躊躇われた。来夏に腕を見してくれなんて、口が裂けても言えない。


 少し痛んだ胸を抑え、外に出る。そこで、ドアが何かにぶつかった。視線を下ろすと、そこにはまだ暖かいお粥と、味噌汁、ゼリー飲料がお盆の上にのせられ置かれていた。それらにはラップがかけられており、上には紙が貼り付けられている。


『心配だったから作ったよ。早く元気になってね』


 彼女が偽物だというのは分かってる。これからそれを確かめようとしているのも理解してる。それなのに、なんだか涙が出そうだった。胸が、じんわりと暖かい。僕は一刻も早く、来夏という幻想から抜け出すべきだ。

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