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16話

 放課後、ぞろぞろと校門から出て行く生徒の間を縫うようにして、来夏がやって来た。


「おい。なんで学校をサボってるんだよ」


 朝食の後、来夏は「先に学校行ってて」と言い残して姿を消した。結局、学校に着いた後も、彼女は姿を現さなかった。きっと、四時間の縛りは過去の世界でも適応されているのだろう。


「ごめんごめん。ちょっと用事があってさ。でも大丈夫。今は平気だから」


 来夏は顔の前で手を合わせてごめんのポーズを取っている。


「あれ、安達さん今日学校休みじゃなかったっけ?」

「お前バカだなー。旦那を迎えに来たに決まってんだろ」


 何人かのクラスメイトが、笑いながら僕達の横を通り過ぎて行った。


 来夏はその言葉に顔を赤くして「さっ、帰ろう」と僕の手を引いていった。


「ねね、四年ぶりの学校はどうだった?」

「別に、何ともないよ。ただ、本当に四年前のままなんだなって感想しかないな」 

「えー、なんかこう、もっと感動とかしなよー」


 来夏は口を尖らせている。来夏のいない学校に、感動なんてあるわけないと思った。


 この世界はびっくりするくらい四年前そのものだった。学校も、クラスメイトも、何もかも、あの頃と変わらない。


「学校生活、忘れてるわけじゃないんでしょ?」


 来夏は首を傾げて、そんなことを聞いて来た。彼女は、汗で首筋にへばりついた髪を耳にかけている。髪が揺れ、ふわりとシャンプーの香りがした。その動作を見て、妙な胸騒ぎを覚えた。


「そうか」


 今日は、来夏の命日だ。胸騒ぎの正体が分厚い氷が溶けていくように姿を現わす。四年前と、同じことが起こるような気がした。でも、それはつまり、今日を乗り切れば来夏は死ななくて済む、ということだ。


 来夏が生きている世界が生まれるのかもしれない。


「どうしたの?」

「いや、何でもないよ」


 いつも通りの道を二人並んで歩く。アスファルトの上に影が落ち、僕達がここに存在していることを主張している。僕達二人は、確かに生きている。


「あーっ、喉乾いちゃったよ」


 来夏は制服をパタパタやりながら、近くの自販機でサイダーを買った。


 彼女はプルタブを開けて、サイダーを耳元まで持っていく。


「やっぱりサイダーの音を聞くと涼しくなるよ」

「それ、わざとやってるの?」

「いいじゃん。付き合ってよ」


 あの日を再現しようと言うのだろう。これであの横断歩道を無事に渡れたら、僕達は運命に勝ったと言える。


「分かったよ」


 僕は一拍開けてから、あの日と同じように呟いた。


「そうなの? 僕にも聞かせてよ」

「あははっ! 優太くん、やっぱり演技下手だねー」


 来夏はお腹を抱えながら、僕にサイダーを渡して来た。ムカついたので、僕は缶を握りしめてサイダーを一気にあおった。


「あーっ! 私のサイダー勝手に飲まないでよ!」


 来夏はサイダーを取り返そうと手を伸ばす。それをひょいっと交わして、僕はごくごくとサイダーを飲み干した。


「ぷはぁ。やっぱりサイダーは美味しいね」

「それ私の台詞だから! 真似しないでよ!」


 来夏がムキになって怒っている。こういう当たり前を、僕はずっと望んでいた。それが今、目の前まで来てる。


 歩いている途中で「あっ」と来夏が声を上げた。


「雨だよ」

「何から何まで、あの日と同じなんだね」

「そうみたいだね」


 彼女は今にも泣き出しそうな顔で僕を見ていた。僕もあの日を思い出して泣いてしまいたい気持ちだった。


 勢い良く降ってくる雨に打たれながら、バス停の軒下へと避難する。


 来夏はあの日と同じように、両腕を隠してベンチに座る。


「私達、これでようやくやり直せるんだよね」

「そうだね。文字通り、人生をやり直せる」

「どこまでも行けるといいよね」


 アスファルトに打ち付ける雨粒を眺めながら、僕達は話していた。あと少し、あと少しで、運命を乗り越えられる。


「ねえ優太くん。あれ見てよ」

「どれ?」

「向かい側にある電柱」


 言われた通り、電柱に視線を向けた。


「あの日はそれどころじゃなかったら気が付かなかったけど、ポスター。貼ってあったんだね」


 そこには、浴衣姿の美女が花火を見上げているポスター貼られていた。


「優太くん、絶対、夏祭りに行こうね。お守りを買って花火を見るんだ」

「ああ、そうだね」


 僕と来夏が行こうと約束していた夏祭り。彼女と約束していた夏祭り。あの忌々しい事故の引き金となった、夏祭り。横断歩道を越えれば、そこに行ける。


「そういえばさ、こんなことを聞くのもどうかと思うけど、お金。大丈夫なの? バイト代。取られてないの?」

「ああ、それね」


 なんだかその時、来夏の体が小さくなったように見えた。彼女は背中を丸めて、目を細めている。


「今から話すことを聞いても、引かないでね?」


 今にも消え入りそうな声で、来夏は問いかける。


「もちろんだよ」

「私、この世界からお母さん達を消しちゃった」

「え?」


 反射的に、声が出た。彼女は、そんなことまで出来るのか。


「私、最低だよね。それに消したのはお母さんだけじゃないんだよ。お母さんの彼氏。それと後は……」


 何となく、僕にはその先に続く人物が分かった気がした。


 一瞬の静寂。聞こえてくるのは、雨の音だけ。来夏は大きく息を吸ってから、続けた。


「優太くんの……両親」


 ああ、やっぱりか。


「そっか……でもそれは、僕の為にやってくれたことなんだよね」


 僕は幼い頃から両親が大嫌いだった。


 彼らは、殆ど家に帰ってこない。僕は幼い頃から、ずっと一人で過ごしていた。なんで両親が家に帰ってこないのか、その理由はだいたい分かっている。多分、二人とも愛人を作っているんだ。向こうの家で、愛人と一緒に幸せに暮らしてる。


 だから、子どもの頃は良く泣いていた。僕は親に愛されていないんだと、いらない子なんだと、存在価値がないんだと、世界が憎かった。誰かに愛されたいと叫んでいたんだ。そんな時、来夏と出会った。彼女は僕と同じように、愛してくれる人を待ち望んでいた。それから僕達は、一緒にいるようになった。


 だから来夏は、僕を苦しめていた彼らをこの世界から抹消してくれたのだろう。


「ううん。それもあるけど、やっぱり、一番は私が二人を許せなかったから」


 彼女のその言葉に、違和感を覚えた。僕の両親が来夏に何か危害を加えたことがあっただろうか。記憶を遡ってみるが、そんな記憶は見当たらなかった。


「だって、あいつらさ……病院で……何て言ったと思う?」


 来夏は目を見開いて、腕の傷を隠すことも忘れ、両手の爪を立てて顔を覆った。それは初めて見る、来夏の狂気的な姿だった。


「信じられないよ。だって、実の息子がさ――――」


 そこまで言って、彼女は慌てて口元を覆った。その先に続く言葉はきっと、この世界の核心に繋がるものだったのだろう。もしくは、来夏の正体にも繋がるような、重要な言葉なのだろう。


「息子が、僕がどうしたって言うのさ」


 ここに来て初めて、記憶の中の来夏と目の前の来夏がズレた。だって、僕の両親と来夏は病院などでは会っていない。確実に、会っていない。


「いや、今のは忘れてよ。たださ、ただただ私は最低なんだよ。私の気に入らない人は、みんなこの世界から消しちゃった。結局、私はあの最低なお母さんと変わらないの……クズなんだよ」


 はーっ、と深いため息をついて、来夏は顔を覆った。そして、


「本当、私が死ねば良かったのにね」


 と呟いた。


 その瞬間、頭の中で何かが弾けた。


「何言ってんだよ!」


 気が付けば大声が出ていた。


「いくら来夏でも、それは許せない」


 死ねば良かったなんて、口が裂けても言って欲しくない。


「あ、ごめん……なさい」


 僕の人生は来夏が消えてからめちゃくちゃだった。真っ暗で最低な終わりのない地獄を歩いているような気分だった。だから、冗談でも死ねば良かったなんて言わないでほしい。


「いいんだよ。僕の両親なんて、どうだって……あんな奴ら消されて当然なんだ」


 もう、雨は止んでいた。


「ほら、行こう」


 彼女の手を引いて、僕達は進んで行く。あの忌々しい横断歩道を目指して、歩いて行く。


「来夏、よく聞いてて欲しい」

「うん」

「笑ってもいいし、心の中でも腹の中でも、僕をけなしてくれて構わない。それでも、聞いてて欲しい」


 あの日の横断歩道へと辿り着いた。後は、ここを超えるだけだ。


「僕にとって、君が全てなんだ。どれだけ言葉を並べても、きっとこの気持ちは伝わらないと思う」


 なんてチープな表現をしているのだろうと、自分で自分が嫌になる。それでも構わず、僕は続けた。


「君の存在が僕の生きている意味なんだよ。僕の人生には来夏しかないんだ。君がいなくなってからの人生は、空っぽだった。だから、どうか、どうか、死ねば良かったなんて言わないで……」


 その時、僕のカバンに付いていたお守りが落ちた。来夏に視線を向けると、彼女は僕を真っ直ぐ見ていた。その眼光には、片時も目を離さないという強い意志が感じられた。来夏は目に焼き付けるように、僕を見ている。


「う……ん。分かったよ」


 一言一言噛みしめるようにして、彼女は答えた。


「あと……優太くん……お守り、広いに行っちゃダメだからね。絶対に、行っちゃダメだからね」


 念を押すように、彼女は言う。


「それはこっちの台詞だよ」


 お守りを落としたまま、僕達は横断歩道を渡り切った。その瞬間、僕達の目の前を赤いファミリーカーが通り過ぎていった。勢いよく風が吹き、僕達の髪が揺れる。来夏に至ってはスカートを抑えていた。


 お守りはぐしゃりと潰れて、タイヤの跡が付いている。


 僕達は右左を確認して安全を確保してから、お守りを拾った。


 過ぎてみれば、あっという間の出来事だった。なんというか、呆気なささえ感じてしまう。


「なんか、悲しいな」


 潰れたお守りを見ていると、胸が痛くなる。僕達の思い出が詰まったお守りが、ひしゃげて潰れていた。


「いいよ。優太くんが生きてれば、何だっていいよ」


 なんだか、こうしてもう一度彼女と夏祭りに行けると思うと、胸が暖かくなる。感情が渦を巻いて、一気に押し寄せてきた。


 僕は後、どのくらいの間生きていられるのだろう。少しでも長く彼女と一緒にいたい。もう、それ以外何も望むことがない。


「優太くん。泣いてるの?」


 気がついた時には、涙が頬を伝っていた。


「いや、なんか嬉しくって」


 涙は全然止まってくれない。拭っても拭っても、涙はこぼれ落ち続けた。


「私達は、過去を乗り越えたんだよ」


 来夏も、大粒の涙を流していた。


「運命に勝ったんだ」


 僕達は、二人して涙を流していた。こんな日を、どれだけ待ち望んでいただろうか。あの日の後悔が、胸の中にあったわだかまりが、すぅーっと消えていくのが分かった。ガチャリと、何かが動いた気がした。錆びついて止まっていた時計が動き出したような感覚が、全身を支配していた。真っ暗だった道に、何者かがライトを持って来て照らし出してくれたような気持ちだ。なんだか、全身が暖かった。震えてしまうくらい、暖かった。

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