洪水の先で
なんてこともない人生だ。
きっと、俺より辛い人生を歩んでいる人を探せばキリがないだろうし、丈夫な身体で、病気もなく、元気に生きられている、そんなことで万々歳だ。
そんなことは分かってる。
分かってはいるけど、辛いものは辛かったんだ。
俺には父親も母親もいなかった。
俺が生まれた時に母親は他界し、記憶はあやふやだが、五歳の頃には父親は失踪した。
物心ついた頃には、施設で暮らしていた。
辛かったし、寂しかったけど、それでも俺は前を向いて生きようって、子供ながらに思った。
施設の職員たちはみんな親だし、施設の子供たちはみんな兄弟だ。
だから俺は、家族を守れるように鍛えた。
職員たちの体力仕事を率先して手伝って、子供たちのお守りだって一緒になってやった。
当然だ。家族なんだから。
その甲斐あってか、頭こそ悪かったが、体力も筋力も学年一を誇るものがあり、中学入学と同時に陸上部に入部し、そのまま陸上競技で名を馳せる選手となることができた。
施設のみんなが褒めてくれたし、自慢の子供だと、自慢の兄貴だと、みんなから慕われた。
高校にはスポーツ推薦で進学し、大学もそのままスポーツ推薦が決まっていた七月のことだった。
俺はいつもの様に、施設からの決まったコースのロードワークに励んでいた。
すると、親も誰もいない公園で、小さな子供が一人でボール遊びをしていた。
「危ねぇな・・・何かあったらどうす・・・」
何かあったらどうする。
そう、言いかけた時だった。
「せ、先輩!! ブレーキが・・・!!」
「お、おい! なんとかしろ!!」
俺の後ろから、軽自動車に乗った男二人組の焦った声が聞こえてきた。
夏場だし、窓も全開で、声は住宅地に響いた。
考える余地なんてものはなかった。
この後何が起こる? そんなことを脳が考えるよりも先に、身体の方が動いてしまっていた。
この先の展開を、俺の危険信号が察知し、一番最悪な展開を防ごうと、動いてしまったのだ。
ブレーキのかけられない車は、公園の小さな入り口の柵をぶち壊し、そのまま、ボール遊びをしている子供の元へと一直線に走った。
車の中は激しい衝撃に見舞われ、既にエアバッグが作動し、運転席から前が見えなくなっていた。
「間に合えクソッタレ・・・!!」
俺は空中で子供を突き飛ばし、そのまま時速三十キロメートルの軽自動車に突き飛ばされた。
幸いなことだったんだと思う。
子供は突き飛ばされた擦り傷のみ、車内の二人はそのままフェンスに止められ、全身鞭打ち。早めにエアバッグが作動していたお陰で流血はしていなかった。
そして俺は、運良く後ろにあった砂場がクッションとなり、命に別状はなかった。
しかし、別の意味で、俺の命は絶たれた。
その事故をキッカケに、俺は命の次に大切な足を負傷し、陸上競技に二度と出場できない身体となった。
そのままスポーツ推薦は取り下げられ、施設がなんとか暮らせる寮付きの安価な大学への進学先を決めてくれたが、俺に生きる気力は残っていなかった。
施設を出たら、俺は本当の意味で天涯孤独になる。
やっと生きる糧になっていた陸上競技も奪われ、よく分からない大学へ、生きる為だけに進学する。
生きる為で何が悪い。
悪くない、分かってる。分かってるよ。
でも、胸が苦しいんだ。
毎日毎日、辛くて、辛くて、泣きそうなんだ。
入院生活から一ヶ月、茹だるような猛暑と、ウザったい豪雨が何日も何日も続いていた。
俺は、松葉杖から解放され、許可証を出せばいつでも外に出られるようになっていた。
ゴオゴオと音を立て、雨は礫のように俺の身体に叩き付けられる。
病院で借りた傘はあまり意味を成さず、俺の身体はグショグショに濡れていた。
この道は、知っている。いつもロードワークで走っていた道だ。
俺はもう、走ることは叶わない。
荒れた川を見て、項垂れる。
俺は何か間違ったことをしたかな?
神様、俺は悪いことをしたか?
涙が出ているのか、雨なのか、傘を閉じ、自分でも分からないように泣いていた。
そんな時だ。
「誰か・・・! 誰か助けて・・・!!」
危険を察知。そのまま後方を振り返る。
声の主は、確かにこの方角で…。
俺の脳内に、最悪な予測が渦巻く。
声の主は、半狂乱になりながら洪水に流される、一人の男の子だった。
どうする?
どうするもこうするも・・・俺は笑っていた。
「こんな命くらいくれてやる!! クソ神がぁ!」
俺はグショグショの服を脱ぎ捨ててパンイチになって氾濫した川に身を投げた。
そして、全身の力を振り絞って荒れた川に逆らい、子供の衣服を掴み、筋肉のみで水の中を運んだ。
「これでもう・・・大丈夫だ・・・」
波が届かないところまで気絶した子供を運び、安心したその時だった。
「あっ」
それがアドレナリンってやつなんだろう。子供を助けた後、俺の足は激痛に襲われた。
そのまま崩れ落ちるように、俺の身体は荒れた川に飲み込まれていった。
「や、やった! できた・・・!」
なんだ? 誰の声だ・・・?
「ねぇちょっと、アンタ聞こえる?」
確か俺は・・・氾濫した川に流されて・・・それから・・・?
徐々にボヤけた視界が鮮明になってくる。
「ふっふっふ! アンタ、感謝しなさい! たった今、この私、大魔術師ヒヨリ様の転移術が成功したのよ!」
大・・・魔術師・・・?
なんだそのテンション。なんだそのノリは。
こっちは命の危険に脅かされて・・・。
あれ? そう言えば苦しくない。
足も・・・痛くない。
「き、君は・・・?」
「さっきも言ったでしょ! 私は、アンタを転移術で転移させた大魔術師のヒヨリ様だってば!」
まだハッキリしない意識の中で、そのテンション感は少しウザいが、足の痛みがないことは嬉しい。
そして、見たこともない自称・大魔術師と名乗る白髪の少女と、見たこともない場所に、瞬間的にこれは夢か天国を疑ったが、自分がパンイチな時点で現実だと悟った。
身体が不思議と軽かった。
俺は、まだぼーっとする頭で、ヨイショ、と身体を起こし、自称・大魔術師様に問いかけた。
「えっと・・・周囲を見渡すにここは洞窟で、俺は君…いや、大魔術師ヒヨリ様に、転移術と言うもので召喚された。それで合ってる・・・のか・・・?」
「その通り! 飲み込みが早いじゃない!」
白髪の少女、自称・大魔術師ヒヨリ様は、そう言い放つと、俺に満面のドヤ顔を披露した。