とある少女の日記によると
彼に頬を叩かれて胸がぐっと痛む。彼の罵声に心が刺された。いじめなんて冤罪だ。私は彼の愛人候補である平民の彼女に何もしていない。潔白だ。しかし、『していない』という証明はなかなか難しい。反対に『された』というねつ造は簡単なようだ。それでも、私は私の話をまともに聞いてくれずに私を責める彼が好きなのだ。
彼に婚約破棄を突きつけられた。もちろん、両家の両親になんの相談もしていない勝手な行動なのだろう。きっと彼はあとで両親にすごく怒られるのだろう。けれど私は、なんの効力もない婚約破棄に呼吸が苦しくなる。息が詰まってまともに頭が働かない。どうして私は信じてもらえないんだろう。この十年、私は彼に婚約者として誠実に向き合ってきたはずなのに。
彼への想いが、突然私の中で変わった。彼が私の宝物であるうさぎのぬいぐるみを奪い取って燃やしたのだ。元々は彼からのプレゼントだったそれは、灰に還った。愛してるはずの彼が憎くなった。嘘つきの話ばかり信じて何もしていない私を責める彼を大嫌いになった。だから私の人生を賭けて、愛人候補である平民と彼が付き合ってからの三年間分の復讐を果たす。
私は周囲に協力してもらい、あの平民の女が私にいじめられたという時間のアリバイを片っ端から集めた。もっとも、これは彼に対していくら言ってもまともに調べてももらえなかったものだが。それでも、復讐をするなら意味があるだろう。そして、自殺の準備をする。そう、彼に対する復讐には、いじめていない証拠と、この日記と、そして私の自殺を使う。結婚する前から愛人候補と浮気をしたことと、してもいない愛人候補へのいじめをねつ造し婚約者を追い詰めたことで、クズになってもらうのだ。これが知られたら彼はただでは済まないだろう。いい気味だ。
ふと窓を見ると、流星群。どうか、この復讐が成功しますように。
ー…
「アリバイ証言を纏めた書類と、マリーの日記を読んだ感想はどうかな?ハロルド君」
「…すみませんでした」
「すみませんで済むと思っているのか!このバカ息子!」
父に思い切り殴られる。しかし、こんな痛みは学園の屋上から落ちたマリーの痛みに比べれば軽いものなのだろう。
「とりあえず、この婚約は破棄だ。アンジュー公爵家には慰謝料と治療費を請求する」
治療費。そう、マリーはかろうじて生きている。その美しい顔には幸いにして大きな傷はつかなかったそうだ。代わりに全身がボロボロだそうだが。
「ああ。ヴァロワ家への慰謝料と治療費なら知らせを受けてすぐに用意した。相場の十倍だ。受け取ってくれ」
「相場の十倍…!?父上!」
それでは借金まではいかないが、我がアルトワ公爵家の貯蓄が全部なくなる!
「お前の身勝手の結果だ!黙っていろ馬鹿者!」
父からさらに殴られる。…私のせいで、こんなことになるとは。なんて浅はかだったんだろう。
「確かに受け取った。私達の方からこの件について口外することはない」
「すまない、ありがとう」
「だが、人の口に戸は立てられない。どこから漏れるかわからないぞ。もう治安組織の捜査も始まったしな」
「…ああ、わかった」
そうか。口止め料もあるのか。だが、ヴァロワ公爵の言う通り多分噂はすぐに広まるだろう。だが、被害者家族が口外しないだけマシか。
「婚約破棄の書類だ。サインを」
「はい」
私は大人しくサインをする。マリーの欄はヴァロワ公爵が代筆していた。ヴァロワ公爵はすぐに使いの者を出して教会に婚約破棄の書類を提出した。
「ハロルド。お前は廃嫡だ」
「はい、父上」
このマリーのアリバイ証言を纏めた書類を見た時点でそれは覚悟していた。
「父上ではない。後継者はロナルドとする。お前はもはや貴族ではない。さっさと個人資産と荷物を纏めて学園を出るがいい」
「…はい、アルトワ公爵」
こうして私はなんの後ろ盾もない平民になった。しばらくは恋人である平民の彼女リリーと個人資産を使って身を寄せ合って暮らしていたが、治安組織がマリーへの名誉毀損や暴行を理由に私達を逮捕した。そうだ。私は無実のマリーを殴ってしまった。こうなるのも当然だ。
私達は牢に入れられて、個人資産も罰金として没収された。いつかこの牢を出された時が本当の地獄の始まりなのだろうと、なんとなくわかった。リリーも、おそらく私が一文無しになれば私を見捨てるのだろう。ああ、私はなんて馬鹿だったのか。あんなに一途に私を愛してくれたマリー。今更謝っても遅いが、本当に申し訳無かった。すまない、マリー。
ー…
結局のところ、私は死ななかった。両親からすごく怒られる。当たり前だ。だが、両親はその後手を握ってくれた。
「生きていてくれて本当に良かった」
「あの人との婚約は破棄したから、しばらくゆっくり休んでね、マリー」
「はい、お父様、お母様」
全身がボロボロだった私は、身体が治ってリハビリを終えるまでかなりの時間を要した。しかしお陰で、リハビリを終える頃には心の傷も大分癒えたのだった。
「マリー、そろそろ婚約者候補と会ってみないか?それで、マリーが良ければ婚約しないか?」
「もちろんマリーがまだ嫌ならもう少し待つわ」
「ありがとうございます、お父様、お母様。会ってみたいです」
「それは良かった。実はもう呼んであるんだ。さあ、入って来てくれ」
入ってきたのはなんと、従兄弟でうちを継ぐ為養子に入った義兄のシエル兄様。
「え、シエル兄様?」
「…お前が嫌ならそう言って欲しい。どうする?」
シエル兄様と結婚…考えたこともなかった。けれど、従兄弟だから問題ないし、むしろうちを継ぐ為なら好都合なんだろうし、それになによりリハビリに挫けそうな私を側で一番に支えてくれたのはシエル兄様だ。きっと私を大切にしてくれるはず。
「えっと…よろしくお願いします」
「!…そうか。大切にする」
優しく抱きしめてくれるシエル兄様。…いえ、シエル様。婚約の書類にさっくりとサインをして、教会に提出した。
「いやー、めでたいな」
「おめでとう、二人とも」
「ありがとうございます、義父上、義母上」
「お父様、お母様。私、幸せになりますね」
こうして私は幸せをようやく掴んだのでした。