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大したことじゃない

作者: AsaHI

 別に大したことじゃない。本人が大層なことだと思っていても、世界全体で見たら何ひとつ珍しくないことなんてたくさんある。

 海外旅行だって、大したことじゃない。生まれ育った土地を遠く離れ、馴染みのある言語からも引き離され、心細かったり多少は危険な目に遭うかもしれないが、それだけだ。

 海外旅行と言えば、観光地でバンジージャンプをやらせるところがある。中国とか、ニュージーランドとかで体験できる。日本でもできるらしい。あれも大したことじゃない。一〇〇メートルとか、二〇〇メートルの高さを身一つで落下するわけだが、ちゃんとハーネスで繋がれているのだから、事故にはならない。恐怖を覚える人もいるだろうが、爽快な体験だったと話す人が多い。みんなやっている。大したことじゃないのだ。

 職場で恋人ができることも、大した話じゃない。由香里は隣の部署の二つ下の後輩で、同じプロジェクトのメンバーとして一緒に仕事をすることになり、その打ち上げの飲み会で親しくなった。

彼女は僕を、「前向きに明るく笑うひと」と形容する。そうやって僕について言及する彼女は、ずいぶんと嬉しそうに見えたし、少し照れて目を合わせてくれない横顔がいじらしかった。ありふれた文句だったとしても、彼女は僕をそういう人間として認め、好意を抱いてくれているのだ。

 僕は前向きだ。それは間違いない。僕は明るい。これも間違いない。僕はよく笑う。笑うことが好きだ、間違いない。どれも大した特徴ではなく、人類の半分はこの形容詞で括ることができるのではないかとさえ思う。しかし支障はない。僕には大切に扱いたい相手がいるし、努力を続けたい仕事がある。僕に大した話なんて必要ないのだ。……。


 月に一度、精神科にかかることだって、どうってことない、大した話ではない。現代人なら仕事を続けながら治療する人なんていくらでもいる。僕は高校生の頃から通っているし、服薬も続けている。不眠が酷いので、睡眠薬と、抗うつ剤を処方される。薬は時期によって量や種類が変わる。僕は、日照時間が短く気温の低い時期に調子を崩すことが多いので、冬には強く効く薬を出してもらっている。

 精神科に通っていることは、僕が前向きでなくなる理由にはならない。僕はこれからも引き続き、基本的には前向きで明るい人間でいるはずだ。


 今日は診察の日だ。十時半に予約していて、十時二十五分にクリニックに到着した。いつも通り人がまばらな待合室でソファに腰掛け、いつも通りスマホのメモ機能で、先生に話したい内容を確認した。今回は、明け方の眠りが浅いことを相談したい。何度も途切れるように目覚めてしまうのだ。前回処方された薬のおかげで、手の震えが改善したことも報告しておこう。他には……とスマホを触っていたとき、僕は当然ながら俯いていた。前髪が少し伸びていたから、前に座った人からは目元は見えないだろう。見えていなかったと思いたい。そう、そのとき、マイクを通した先生の声が待合室に響いた。このクリニックでは、先生が患者の名前を呼び、呼ばれた患者は診察室に入るのだ。

「美馬伸二さん。診察室へどうぞ」

 ミマシンジさん。ミマ。僕は間抜けなことに顔を上げてしまった。やや珍しい美馬という名字と、伸二という名前の組み合わせに聞き覚えがあったからだ。その名前は、隣の部署の四つ上の先輩社員のものだった。新入社員だった由香里を指導した人で、僕と由香里が親しくなったきっかけであるプロジェクトの主任だったから、聞き覚えがないはずがなかった。

 だから、僕は愚かにも顔を、それもものすごい勢いで、上げてしまった。診察室に呼ばれたことに気付いたその人は、僕の向かいの席に座っていて、小さな鞄を掴むと立ち上がり、僕のほうへ向かって歩き出した。運の悪いことに、僕がいつも座る場所は、多くの患者が座る長椅子のちょうど向かいで、診察室のドアの隣に設置された一人掛けのソファ席だったので、診察室に入るには僕の横を通らざるを得ない位置関係だった。歩み寄るその人の顔には薄く影が落ちていて、表情を確認することはできなかった。僕のことを見ているように思えた。僕を見ていたのか?僕たちは目が合ったのか?僕とこの人が精神科に通院することは大したことじゃないはずなのに、僕がこの人の精神科通院を知ることと、この人に僕の精神科通院を知られることは、なぜこんなにも僕の心を乱すのだろうか?


「失礼します」

 ノック音とともに聞こえた低い声は、ずっと遠い世界で響いているように感じられた。それでも、少し掠れたその声は、間違いなく美馬さんのものだった。僕は光の消えたスマホを握りしめたまま、暗い画面を見ていることにしようとした。心臓はたぶん、早鐘を打っていた。それさえも、ここではないどこかで鳴っているように聞こえて、足元が確かだと思えなかった。

 どのくらい時間が経ったのか、美馬さんは診察室から出てくると、さっきまでと同じ場所に座った。そして、僕には何の興味もないし気付いてもいない、といった態度で、鞄から文庫本を取り出した。しばらくすると、「松田彰さん、診察室へどうぞ」という先生の声が響いて、「僕の名前だ」と思い、僕は立ち上がった。僕の名前も呼ばれたのだから、美馬さんが気付かないことはほぼ有り得ない。でもどうすればいいかわかるはずもなく、診察室に入るしかないのだ。


「はい、松田さん、調子はどうですか。……何かありましたか?……大丈夫ですよ、落ち着いてください。なるほど、会社の人ね。知ってる人?そうですか。大丈夫だと思いますよ、ええ……。うーん、そうですね、そういうことなら薬を増やしておきましょうか。前に飲んでいたことのある薬なので副作用は大丈夫だと思いますが……三錠。いえ、四錠ですね。夕食後に飲んでください。ちょっとうつの症状が強いようですから……ええ、そうです。……まだ気になりますか?大丈夫です、大したことじゃない。大したことじゃないんですよ」


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